年の瀬を意識する前にクリスマスという商業主義に汚染された、しかしながら、ふたりの子持ちの立場としては、楽しいこともないではないイベントの存在を、嫌でも意識させられる季節がやってきた。 クリスマスが遥かに1ヶ月半以上も先だった頃から、市内の百貨店などは緑と赤のクリスマスカラーに彩られており、俺は余りの季節感のなさに顔を顰めたものだが、残り1ヶ月を切ると、可愛い娘と息子のために、ついでに、可愛くはないが一応愛していることも全くないというわけではない夫のために、クリスマスのパーティーでも企画してやろうかなどと、日頃意味のないイベントや無駄な出費を嫌う俺でも、流石にそんなことを思ったりもするわけである。 とは言っても、クリスマスはまだ先だ。 ましてや今日は、ホワイトクリスマスには程遠い年であることを示すような、うらうらと暖かい小春日和だ。 クリスマスプレゼントのためのリサーチだの、パーティーの準備などという慌ただしい考えは頭の片隅へ押しやることにして、散歩にでも行こう。 これだけ天気がよくて暖かい日なら和希も寒くはないだろう、と思いはしたのだが、ついつい多めに服を着せてしまう。 暑かったらすまん。 だが、母さんはお前に風邪を引かせたくないんだ。 宥めるように言い聞かせるまでもなく、和希はご機嫌でおもちゃを振り回している。 「和希はいい子だな」 思わず目を細めながら俺は和希を乗せるベビーカーを開き、和希を乗せてやった。 それだけで、お出かけだと分かるのか、和希が嬉しそうに声を上げる。 「そうだぞ、お出かけだ」 手に持っていたおもちゃを、ベビーカーに紐で縛り付けてある別のおもちゃと取り替えるのは、どこかで落としてくると面倒だからだ。 それから和希の膝へ柔らかい毛布を掛けてやり、俺はベビーカーを押して家を出た。 本当にいい天気だ。 「さて、どこまで行くかな」 そう呟いたところで、和希が返事をしたりはしないのだが、ついつい話しかけるのは、一樹のおしゃべりが俺に伝染してるせいだろうか。 喋り始める前でも、子供に話しかけるのはいいことらしいから、構わないが。 俺は時計を見ながらざっと頭の中で計算した。 丁度いい頃合かもしれない。 「よし、和希、お父さんとお姉ちゃんを迎えに行くぞ」 分かっているのかいないのか、和希が笑顔を見せたのをいいことに、俺は大学の方へと足を向けた。 大学まで、歩けば一時間ばかりかかるが、沿線には電車もバスもある。 疲れたりしても何とかなるだろう。 そんなことを思いながら俺はベビーカーを押して歩いた。 俺みたいな若い男が赤ん坊を連れて歩いていると、そこそこ人目を引くのだが、悪意のある目で見られるわけではないから気にしないことにしている。 若い父親だと思われてるんだろうな。 実際は母親なのだが。 胸も、和希が生まれる少し前から膨らんで、本当に微かながらあるのだが、服の上からではよく分からないのだろう。 そうなると男が母親で困ることといえば、男性用トイレに子供のオムツ換えスペースがないことと、授乳室を利用し難いことくらいしかない気がしてくるから、俺も随分図太くなったもんだ。 まあ、母親なんてものは、多少図太くなきゃやってられないんだが。 くだらないことを考えながら歩きつつ、和希を退屈させないように、車や店なんかを指差しながら歩く。 男の子なだけあって、パトカーなんかを見ると和希も喜ぶんだが、今日はどうもそういう車とは行き会わないらしい。 和希がうとうとし始めたところで、大学に着いちまった。 タイミングが悪いな。 苦笑しながら、 「ほら和希、お姉ちゃんに会いたいんだろ?」 と宥めつつ、教養の講義を行っている校舎へ足を向ける。 俺が来ると分かっていたのか、有希は分かりやすい場所に立って待っていてくれた。 「よう」 と声を掛けると、有希が頷いた。 周りが小さくざわめくのは、有希が高校時代と同じく、極少数の人間としか付き合っていないせいなんだろう。 「友達とか増えてないのか?」 「増えた」 有希はそう答え、 「人なのに私たちに近い考え方を見せる人がいて面白い」 との感想まで漏らしたが、果たしてそれは喜んでいいのかどうか分からんな。 だが、多少おかしな人間だったとしても、有希ならうまく対処するだろうと信じて、口出しは止めておいた。 「…お父さんも迎えに行くんでしょう?」 俺に聞きながら、有希は和希の手を握った。 和希が声を上げて笑いながら、有希の手を握り締める。 大好きな姉の手だと分かるらしい。 俺は思わず目を細めながら、 「ああ。一樹だけ置いて行ったらうるさいだろ」 「……」 有希は何か言いたそうに俺を見たが、そのまま何も言わず、小さくため息を吐いた。 そんなところは似なくていいんだが、一緒に暮らしている以上仕方がないんだろうか。 困ったな、と思いながら俺は有希と共に校舎の中を歩いていく。 一樹の受けている授業は確かこの上のフロアだったはずだが、早く終っていたらもういないかも知れないな。 行き違いにならないように、メールをすべきだったか? 俺がそんなことを呟くと、 「大丈夫」 と有希が言った。 「お父さんはまだここにいる」 「ああ、また質問でもしに行ってるのか?」 それとも図書館で資料でも漁ってるんだろうか。 勉強熱心な奴だ。 「そうじゃない」 と有希はどこか複雑な表情を見せた。 面白く無さそうな、怒っているような、そんな表情だ。 何でそんな顔をするんだ、と思いながら俺はベビーカーから和希を抱き上げた。 畳んだベビーカーはそこそこ重量もあるはずなのだが、有希が平然と持ち上げているととてもそうは見えない。 そのままベビーカーを有希に任せて、階段を上る。 和希はきゃっきゃと声を上げている。 どうも、抱き上げられての上下運動ってのが楽しいらしい。 あんまり揺さぶると体に悪いからやってないのだが、たまには高い高いでも思い切りしてやるべきだろうか。 そうして教室に足を踏み入れると、教室の中ほどに小さな人だかりが出来ていた。 というか、 「何やってんだ? 一樹」 女の子に囲まれて。 呆れながら俺が声を掛けると、一樹があからさまにほっとした顔をした。 全く、迷惑なら適当に追い払えばいいだろうに。 それとも、それが出来ないようなフェミニストだから女にモテるのか? 「迎えに来てくださったんですか?」 女の子の群れを割って、嬉しそうに駆け寄ってきた一樹に、 「退屈だったんでな」 と答えた声がどうにも不機嫌なものになってしまった。 分かりやすく嫉妬すると後で一樹が鬱陶しいのだが。 「和希まで連れてきたんですね」 「一人で置いておくわけにもいかんだろう」 「それはそうですけど、いいんですか?」 「6ヶ月にもなれば旅行だって不可能じゃないんだから、散歩くらいいいだろ。それとも、迎えに来て欲しくなかったのか?」 「まさか。嬉しいですよ」 そう笑った一樹が手を差し出すと、和希がそちらへ行くと手を突き出した。 仕方なく一樹に和希を抱かせてやると、和希も嬉しそうな顔をした。 「ふふっ、可愛いですね」 「お前、毎日言ってて飽きないか?」 「飽きませんね。誰かさんは恥ずかしがって言わせてもくれませんし」 当たり前だバカ。 慣れた手つきで和希を抱いている一樹に驚いたのか、それともやっと最初の衝撃が収まったのか、一樹を取り巻いていた女の一人が言った。 「あの、古泉くん、その子って……」 一樹はにっこりと、それこそ有無を言わせないような笑みを浮かべた。 それは対外的な表情ではあるのだが、なかなか迫力がある。 「僕の息子ですけど、何か?」 今度こそ呆然とした彼女らに背を向け、 「さあ、帰りましょうか。寒くなってきましたし、和希が風邪を引いてもいけませんから」 と、穏やかな笑みを見せながら、俺に言う。 「――ああ」 この切り替えの早さがくすぐったいのは、俺たち家族にだけ見せる表情と他人に見せる表情を、一樹がしっかり使い分けていると思い知らされるからだろう。 手が空いた俺は、有希の手からベビーカーを受け取り、歩きだした。 「お前に子供がいるって、まだ知られてなかったのか?」 疑問に思った俺が、階段を下りながらそう問うと、 「ええ、そのようですね。あなたが今日のようにしょっちゅう出てくるというのならまだしも、そういうわけでもありませんから、当然といえば当然なのでしょうけれど」 「別に隠したりもしてないのに、変な感じだな」 俺が首を傾げていると有希が、 「お父さんは子供がいるように見えない。また、和希をお母さんが連れていても、お父さんとの子供とは思われない。よって、お父さんがいくら和希のことを口にしても、自分の子供の話をしているようには思われないため」 「じゃあ、」 と一樹は和希を抱いたまま俺に近寄ってきた。 「これくらい近ければどうでしょうね?」 「俺に聞くな」 「僕としては、あなたに余計な虫が寄って来ないように、あなたは僕の大事な奥さんなんだって叫んで回りたいんですけどね」 「止めろ」 本気でやりかねんあたりが恐ろしい奴だ。 わざわざ恥をさらすこともないだろうに。 「恥だなんてことはありません。それに、僕にはあなたがいるんだって分かれば、ああやって下心見え見えで近づいてくる人も減るでしょう? このメリットは大きいですよ」 「そういえば、あれは何だったんだ?」 「ああ、」 と古泉は苦笑した。 「忘年会だかクリスマスパーティーだかのお誘いですよ。これまで誰に何度声を掛けられても断っていたものですから、ああして詰め寄られてしまいました」 「クリスマスパーティーはともかく、忘年会くらいなら別に行ってもよかったのに」 俺がそう言うと、 「冗談でしょう?」 と古泉が軽く眉を上げた。 「どうせ合コンと同じですよ。僕には不要なものです」 「ああそうか。…でも、付き合いとかもあるだろ。構わないのか?」 「サークルに入っているわけでもありませんし、彼女らとはどうせ教養課程の間だけの付き合いですからね。少々反感を買っても構いません」 不敵だな。 「あなたがそばにいてくださる限り、僕は何も怖くありませんから」 よく言うぜ、全く。 「それに、どうせ呑むならあなたとふたりで呑みたいですね」 酒はもう呑まないと以前決めたんだが、一樹が言うなら少しくらい呑んでもいいか。 「よし」 校舎を出た俺はベビーカーを広げ、そこに和希を乗せてやりながら一樹に言った。 「夕食の買い物をして帰ってもいいよな?」 「ええ、もちろんです」 「ついでに、酒も買って帰るぞ」 「え?」 「一緒に呑むんだろ?」 にっと笑いながら言ってやると、一樹が一瞬驚いた顔をしてから、締りがないと言えるくらいの笑顔で俺を抱きしめた。 「こら、やめろ!」 人目があるんだぞ。 「あなたがいけないんですよ。そんな可愛いことを言うから」 「可愛いって言うな!」 有希も黙って見てないで何か言えって。 「…仲良きことは美しき哉」 仲がいいからどうってもんじゃないだろう。 何が悲しくて、休学中とはいえ自分の通う大学でいちゃつかれなければならんのだ。 それも一方的に。 「いい加減に放せ!」 俺が思いっきり咆えたところで、 「あんたたち、何やってんのよ」 と俺が一生忘れられないであろう声がした。 「ハルヒ」 俺が顔を上げると、ハルヒが呆れきった顔をして、 「こそこそしないのはいいけど、人前でいちゃつくのもどうかと思うわよ」 俺もそう思う。 だからこのバカをなんとかしてくれ。 俺がそういう前に、古泉が手を離した。 「仲がいいのはいいことよ、うん」 そう笑いながら、ハルヒは和希に顔を近づけた。 「和希も元気みたいね。あんたのことだから心配は要らないと思ったけど」 そう言うハルヒは高校時代には想像もしなかったほど穏やかな表情を浮かべていた。 「いっぱい服着せられちゃって、もこもこじゃない。キョン、あんた自分が寒がりだからって着せすぎよ」 汗はかいてないから構わないと思うんだが。 「小さいうちに寒さに慣らしておかないと、あんたみたいになっちゃうわよ」 勝手に言ってろ。 黙り込んだ俺に代わって、一樹が口を開く。 「涼宮さんはこれから講義ですか?」 「そうよ。古泉くんたちは今から帰るんでしょ」 「ええ」 「じゃあまたね」 そう言って体を起こしたハルヒに、 「ハルヒ、夕飯うちで食ってくか?」 と聞くと、 「ううん、いいわ。新婚家庭のお邪魔なんてやぼなことはしたくないし」 新婚と言っても、もう半年以上経ってるんだがな。 「また今度、休みの日にでも集まりましょ。みくるちゃんも入れて、みんなで」 じゃあ、と校舎へ入っていくハルヒを見送って、俺たちは今度こそ帰路についた。 夕食は何にするかとか、そんなことを何気なく話しながら、家族揃って歩くことが嬉しい。 隠す気も、はばかる気もない一樹の態度は、さっきみたいな状況では困るものの、いっそ清々しくて嬉しくもある。 何があっても大丈夫だと、思えるからな。 だから俺は、 「一樹」 と名前を呼んで、片手でベビーカーを押しながら、空けた片手を一樹の手に触れさせた。 「愛してるからな?」 そう言ってやると、一樹が俺の手を握り締め、 「僕も、愛してますよ」 と返した。 それだけのことで胸が温かく感じられるなんて、安上がりだな。 「有希のことも愛してるからな。勿論、和希のことも」 俺が言うと、有希は、 「分かってる。…私も、お父さんとお母さんが大好き。……愛してる」 と答えた。 和希からの返事は当然ないが、今度こそすやすやと寝息を立て始めているその穏やかな寝顔を見れば、十分だ。 俺は幸せを噛み締めながら、小さく笑った。 |