高校を卒業して、もう５年が過ぎたと思うと何やら感慨深いものがある。 有希も一樹も院にまで進み、俺は俺で出産と育児を理由に２年休学しているから、未だに社会人がひとりもいない妙な家庭のままだ。 そのくせそれなりに上等な家に住み、息子の和希を幼稚園に通わせているんだから、一樹の経済力には恐ろしいものを感じずにはいられない。 寝ぼけた頭で、くだらないことを考えながら起き上がり、目覚まし時計を止める。 隣りで熟睡している一樹を起こさないように気を遣う必要などない。 研究だなんだと飛び回って忙しくしているせいで、すっかり寝穢くなっているからな。 気になるのは和希だが、こちらも俺に似たのかなかなか寝覚めが悪い方なので問題はない。 高校を卒業して数ヵ月後に生まれた和希ももう４歳で、体もしっかりしてきている。 その時はもっと小さかったとは言え、これが自分の腹の中に入っていたかと思うと不思議な気分にならざるを得ない。 いくらか色素の薄い髪も、男の子にしては可愛らし過ぎる顔立ちも、一樹にそっくりなくせに、中身はどちらかというと俺に似てるってのもどうなんだろうな。 おかげで早くも生意気になりつつある。 一樹と有希が必死になって守ろうとしているサンタクロースの存在くらいは、もうしばらく信じていてもらいたいものだが。 音を立てないようにしながら台所に向かうと、ほとんど間をおかずに有希が起きて来た。 「おはよう」 「…おはよう、お母さん」 「今日は俺と同じ時間に家を出たんでいいんだよな？」 「そう」 そのまま、今日の予定がどうのと話しながら、朝食を二人で作る。 と言っても味噌汁と玉子焼き、それから昨日の残りのおひたしと煮物を添えるくらいなのだが。 朝食が出来上がりかけたところで、もう７年を越す、長い付き合いになる愛猫に餌をやり、それからやっと一樹と和希を起こしに行く。 「ほら二人とも、さっさと起きろ」 声を掛けながらカーテンを開け、直射日光を浴びさせてやる。 「和希、ほら、早く起きないとお姉ちゃんが先に食べ終わるぞ」 とくすぐってやると、和希はふにゃふにゃ言いながら体を起こした。 「ん……お母さん、おはよ…」 「はい、おはよ。朝飯出来てるからな。冷めないうちに食べるんだぞ」 「…うん……」 まだ寝ぼけた足取りで部屋を出て行く和希を見送っていると、いきなり腕を引っ張られ、ベッドに引きずり込まれた。 誰がやったかは言うまでもないだろう。 朝っぱらから鬱陶しい奴だ。 「一樹…」 仰向けにされた状態のまま睨み上げても、一樹は怯みもしない。 「おはようございます」 しれっとした顔で言いながら、キスされた。 「お前なぁ…」 毎朝よく飽きないもんだ。 呆れ果てる俺に、一樹は笑い、 「飽きたりするわけないでしょう。それとも何ですか？ 飽きた方がいいとでも？」 「んなこと言ってないだろ。ほら、いいから離せよ」 「もう少しだけ…」 と抱きしめられる。 「一樹」 「寂しいんですよ。研究は忙しくなるばかりだし、和希が幼稚園に通い始める前と違って、あなたが研究室に来てくれることも少なくなってますし」 「授業の間に時間がある時は行ってるだろうが」 おかげで俺はお前と一緒に研究してる連中にまでお母さん呼ばわりされてるんだぞ。 「それでも、足りないんです。和希と一緒に寝るせいで、気兼ねなくいちゃつけるのなんて朝のこの時間くらいなんですから、少しくらいいいでしょう？」 俺はため息を吐くと、一樹に軽くキスをして、 「忙しいんだから早く飯を食え。分かったな？」 と腕を解いた。 「…はい」 にやけた顔で頷いた一樹をつれて台所に行くと、有希と和希が一緒に朝食をとっていた。 いつまで経っても衰えない健啖さを見せる有希に負けじと、和希がご飯を頬張るのもいつもの光景なのだが、いつ見ても微笑ましい。 「慌てて食べると体に悪いぞ」 と言いながら自分の分と一樹の分のご飯をつぎ、食卓につく。 「いただきます」 俺が手を合わせると、一樹も同じようにした。 食べながら、 「いつもおいしいご飯をありがとうございます」 と一樹が言うのはいつものことで、俺は苦笑するしかない。 「いいからさっさと食え」 今日も早いんだろ、と言うと、一樹が嬉しそうに笑った。 食事の後もまだ忙しい。 真っ先に家を出る一樹に弁当を持たせ、 「ちゃんと帰ってこいよ」 と送り出そうとしたのだが、 「お母さん、いってらっしゃいのキスはナシですか？」 和希の前だというのに恥ずかしげもなくそう言う一樹に、 「ウザい」 顔を顰めながら言うと、一樹が目に見えて悲しそうな顔になったので、諦めて頬にキスしてやった。 それだけで元気になる辺りが気色悪いと思うんだが。 「酷いですね。当然の反応だと思いますよ？」 ああそうかい。 「それに、両親の仲がいいところを見せるのは子供にもいいそうですし」 どこで聞いてきた情報だか知らんが、そんな怪しげな説が免罪符になるとは思うなよ。 「はい。それでは、行って来ます」 「ああ、気をつけてな」 「急なバイトでも入らない限り、今日はちゃんと帰りますからね」 言いながら靴を履き、玄関のドアを開けた一樹に、有希が、 「いってらっしゃい」 と声を掛け、和希も、 「お父さんいってらっしゃい」 と少し寂しそうに声を掛けた。 「はい、行って来ます」 笑顔でそう言って出て行く一樹は相変わらずカッコイイと思うが、口に出して言うのはやめておこう。 「和希もそろそろ幼稚園に行く準備しような」 「うん」 聞き分けがいいのはありがたい、と思いながら着替えを手伝ってやっていると、 「今日のお迎えはお母さん？ それともお姉ちゃん？」 と聞かれた。 「お姉ちゃんは少し帰りが遅くなるから俺が迎えにいくつもりだ」 「…そっか」 おいこら和希、そこのシスコン。 「お母さんじゃ不満なのか？」 そんなことを言いながら、母親を蔑ろにしてくれた腹いせとして脇腹をくすぐってやると、 「お母さん…っ、やめてって…！」 と和希が笑い声を上げた。 そんな、嬉しそうに笑いながら言われてもな。 しかし、やり過ぎて和希に嫌われるのも嫌だから、これくらいにしてやるか。 笑い転げたせいでくしゃくしゃになった和希の髪を手で整えてやり、幼稚園指定の帽子を被せてやった。 朝食の片付けを有希に任せ、和希の手を引いて家を出る。 家を出る時に和希が一樹の真似をして有希に行ってらっしゃいのキスをねだったのは言うまでもない。 子供に悪影響を及ぼしてどうするつもりだろうな、あの馬鹿野郎は。 それにしても、と俺は空を見上げた。 今日は天気もいいから、外で遊んで服を土だらけにしてくるんだろうな。 洗濯が大変そうだ。 「お母さん」 「うん？」 「今度、お父さんの研究室に行ってもいい？」 「邪魔にならないなら構わんだろ。忙しいみたいだから遊んでくれるお兄さんやお姉さんはいないかもしれないが」 「いいんだよ、別に。研究室って面白いものが色々あるから楽しいんだ」 面白いものね…。 よく分からん機材がどかどかあるだけに思えるんだが。 またどいつもこいつも油断すると部屋を汚すだけ汚して片付けないから面倒なんだよな。 本来なら俺が世話を焼く筋合いはないのだが、あれを見ると手出しせずにはいられん。 「幼稚園はどうなんだ？」 「面白いけど」 「けど？」 引っかかる言い方だな。 「…なんかちょっとつまんない」 「なんでだ？」 「うーん」 と考え込んだ和希は、 「お姉ちゃんや研究室のみんなと遊んでる方が楽しいからかな」 と答えた。 このマセガキっぷりも、俺に似ちまったんだろうか。 いや、一樹に似てもこうなる気はするが。 和希の将来を危ぶんだところで、幼稚園のバスが迎えに来る場所に着いた。 既に他の園児とそのお母さん方も着ている。 俺は、 「おはようございます」 と声を掛けながらその輪に入り、和希が他の子供たちと話しているのを見ながらちょこちょこと世間話をした。 今日の話題は、今度の予防接種がどうのとか、新しく出来た子供向けの施設がどうのとかいう話で、ほっとする。 他所の家庭事情を聞かされたところで困るからな。 そうするうちにバスが来て、それに和希を乗せてやろうとしたところで、 「お母さん」 「どうかしたか？」 「俺にも行ってらっしゃいのちゅーして」 とせびられた。 「…しょうがないな」 毎日じゃなく、一樹にしてやった日だけだから許してやるか。 あまりにも頻発した場合、やめるよう指導を入れる必要もありそうだが。 呆れながら和希の頬にキスしてやると、和希は父親そっくりの嬉しそうな顔をした。 「行ってきます」 笑顔で言った和希を、 「行って来い」 とバスに乗せ、幼稚園の先生に、 「今日もお願いします」 とだけ声を掛けた。 その後は立ち話もせず、急いで家に帰った。 これからまた大学に行かなければならんのだ。 全く……いささか面白みに欠ける講義に限って長引くのはなんでなんだろうな。 それとも、構成がしっかりしていないから長引き、かつ面白くないんだろうか。 などと考えながら急ぎ足で和希を迎えに走る。 一度家に寄って荷物を置くような余裕もない。 息を切らしながら朝と同じ場所に迎えに行くと、もう少しでバスが出て行くところだった。 「すみません…っ」 ぜぇぜぇ言いながらそう言うと、先生は笑って、 「大丈夫ですよ。よかったね、和希くん」 と言ってくれたが、和希の様子がどこかおかしかった。 なんというか……元気がない気がする。 「あの、今日なにかありましたか？」 俺が聞くと先生は首を傾げ、 「いえ、特に何もなかったと思いますけど……お昼くらいから、少し元気がなくなってしまって……」 「和希、何かあったのか？」 俺が聞くと、和希は黙って首を振った。 時々遊びでやる、「お姉ちゃんの真似」というわけじゃないんだろうが、何にせよ、少しおかしかった。 誰に似たのか、年の割によく喋るのが和希だからな。 「どこか痛いとかじゃないんだな？」 こくん、と頷く和希の頭を撫でてやる。 それなら後で話を聞けばいいだろう。 走り去る幼稚園バスを見送り、ゆっくり歩いて帰る。 その間、何を言っても和希は黙り込んだままだった。 そんなことは滅多にないので、俺までどうしようもなく不安になりながら、有希にメールを打った。 悪いが早く帰ってきて、和希の話を聞いてやってくれと。 俺には言えなくても有希になら言える、ということが和希は過去にも何度かあったからな。 寂しいが、ここは有希に任せるべきだろう。 家に帰り、おやつのホットケーキを作っている間に、和希はさっさと姿を消してしまった。 行き先は多分、おもちゃを置いてある部屋か有希の部屋だ。 マセた和希にはそろそろひとりになれる部屋がいるのかもしれないな。 小さくため息を吐いたところで、玄関のドアが開く音がした。 「ただいま…」 と有希が顔を見せる。 「悪いな、急がせて。やることもあっただろうに」 俺が言うと有希は首を振り、 「大丈夫。やるべきことは終らせてきた」 「そうか」 「和希は……」 「例によって例の如く、だ」 「…そう」 有希がホットケーキを持って、和希のところへ行ってしまうと、俺はもはやすることがなく、仕方がないので課題として与えられた本でも読もうと、妙に分厚いその広げてはみたのだが、内容はさっぱり頭に入ってこない。 目が文字をなぞるばかりだ。 これでどうやってレポートを書こうかと悩むより、今日の夕食をどうするかで悩む方がよっぽど建設的に思える。 唸りながら、それでもページをめくっていると、有希が和希の手を引いて戻ってきた。 話を聞き出せたのか、と思ったがそれにしては和希の表情が暗いままだ。 「有希？」 問いかけた俺に、 「お母さん、服を脱いで」 ………なんだって？ 「上半身だけでいいから、脱いで」 「…えぇと、それが必要なんだよな？」 「そう」 なら、有希を信じよう。 何をされるんだか見当もつかないが。 俺は着ていたＴシャツを一息に脱ぎ捨てた。 露わになった腹を有希が指で示す。 「和希はここから出てきた」 ……なんとなく、なんで和希が元気をなくしていたのか、その理由が分かった気がする。 俺は軽く眉を寄せながら、 「もしかして、男がお母さんってのがおかしいとでも言われたのか？」 と聞いてみた。 和希は一瞬びくりとした後、こくんと頷いた。 「男同士じゃ子供なんて生まれないんだから、お前は貰われっ子なんだろって、言われた」 マセガキは和希だけじゃないらしいな。 子供は子供らしく、赤ちゃんはキャベツの中から出てくるとかコウノトリが連れてくるとかっていう、親にとってはありがたいことこの上ない伝承を信じていればいいものを。 「世間一般で見れば確かにおかしいだろうが、和希は間違いなく俺とお父さんの間に出来た子供だ。疑うなら、今度病院の先生に聞いてみろよ。いつも健診で会うあの先生が、俺の腹を切ってお前を取り出したんだからな」 「俺のためにお腹切ったんだ…」 泣きそうな顔になる和希には悪いが、正直に頷かせてもらう。 「ああ。そうじゃないと和希は出て来れなかったんだ」 あの妊娠騒動については、未だに原理が分からない。 分かっているのは、あれがハルヒのでたらめパワーによるものだということだけだ。 「手術の時は麻酔をされたとはいえ、麻酔が切れた後はとんでもなく痛かったんだぞ」 「ごめんなさい」 「……なんで謝るんだ？」 「だって、痛かったんでしょ。それに、お母さんは本当はお母さんじゃないのかもしれないって思ったのも……ごめんなさい…」 ぽろっと涙を零した和希を思い切り抱きしめてやる。 「痛かったのはいい。誰だって子供を産む時は痛い思いをするもんだからな。俺が母親じゃないかもしれないと思ったのも、しょうがないだろ。俺としては、お前を不安にさせたことを謝りたい。…ごめんな？」 ふるふると和希が頭を振ると、髪の毛が当たってくすぐったかった。 「俺と一樹のせいで、和希まで変な目で見られたりすることがあるかもしれない。でも、俺も一樹も、もちろん和希だって、何も悪いことはしてないんだから、堂々としてろ。変だって言う奴のほうが変なんだ」 そう言うと、和希がしっかり頷いてくれたことが、何よりも嬉しかった。 「…とまあ、そんなことがあってだな」 ベッドに横になったまま一樹にそう報告したのは、夕食の後、和希が俺の服をしっかり握り締めたまま眠ってしまったせいだ。 一樹は、朝の約束の通り、ちゃんと帰ってはきたものの、日付は既に変わっていた。 俺が和希と一緒に寝ている間に、冷め切った夕食をひとり寂しく食ったのだろう。 風呂上りのさっぱりした様子で寝室にやってきたところで、俺の目が覚めたので、今日の報告をしてやったわけだ。 「それは、大変でしたね」 苦笑しながら一樹は髪を拭いているが、うまく拭けていない。 しかし、そのまま寝ると明日の朝、大変笑えるものが見られる気がするので、わざと指摘しないでおいた。 俺は小さく安堵の息を吐き、 「有希がいてくれて本当に助かった」 「そうですね」 笑いながら布団に入ってきた一樹が和希の髪を撫でる。 「可愛いですね」 「寝顔ならな」 起きてる時は時々憎たらしくてしょうがないぞ もう生意気盛りだからな。 「子供なんてそんなもんなんでしょう？」 「まあな」 だが、もう少し小さかった頃の方がもっと可愛かったと思うんだが。 「そんなに和希の小さい頃が懐かしいんでしたら、」 身を乗り出してきた一樹が俺に口付ける。 朝のそれとは違う、やけに熱のこもったキスだ。 「んっ……は…」 「もうひとり、作ります？」 「…ばか……」 「和希ももう大きくなりましたから、ひとりで寝れるでしょう？ そうしたら、和希の弟か妹が出来るよう、毎晩だって頑張りますよ」 そうなった場合、腰痛や全身疲労などと戦って頑張らなきゃならんのはむしろ俺だと思うんだが。 「また俺に休学しろとでも言うのか？」 「あなたのことですから、もう単位は十分取ってるんでしょう？ 問題は卒論ですけど、それくらいなんとかなります。休学なんて必要ありませんよ」 「就職活動はどうなる」 「しなくていいですよ。このまま専業主夫になってください」 「お前なぁ…」 呆れて呟いた俺に一樹は、 「だめですか？ いい考えだと思ったんですけど。こうなったら、外に働きに出ようなんて気が起こらないくらい、いつも孕んでいてもらいましょうか」 「冗談に聞こえないからやめろ」 そう顔を顰めると、笑顔で、 「半分くらいは本気ですから」 「……ばかだろ、お前」 「そうかもしれません。もし、あなたが就職するとしたら、僕と同じ会社で僕の目が届く範囲じゃないと嫌ですね。何があるか分かりませんし」 「独占欲が強いにも、ほどがあるぞ」 「それくらい、あなたを愛してるんです」 そう言って、甘ったるくキスされた。 |