蜜よりも甘く (前編)



電車を数本乗り継ぎ、ローカルなバスに揺られ、更にしばらく温泉街を歩いてたどり着いたのは、高校生の分際で泊まるには勿体無いような高級旅館だった。
「おい、古泉、本当にここなのか?」
「ええ、間違いはありませんよ」
「俺が泊まるなんて、えらく場違いな気がするんだが」
「そんなことありませんって。さ、入りましょう」
そう歩き出した古泉についていきながら、俺は小さくため息を吐いた。
この旅行には、古泉以外の同行者はひとりもいない。
完全にふたりっきりだ。
長門も一緒に、と誘ったのだが、
「お父さんとふたりで行ってきて」
と言われちまった。
古泉と旅行に行く、と親に言った時点で、古泉が懸賞でペア招待券を当てたと嘘をついた以上、長門を入れて三人でというのは難しかっただろうが、それ以上に恣意的なものを感じずにはいられない。
娘に気を遣われてどうするんだ。
そもそも、古泉が俺と一緒に旅行に行きたいと言い出したのも、長門がそれを促したかららしい。
俺としては、金がないからと断ろうとしたのだが、古泉が俺の分も出すと言って聞かなかった。
それに対して俺が抵抗したことは言うまでもないが、こうして来ちまっている以上、古泉が勝ったことは明白だ。
それにしたって、
「高級旅館の離れ、露天風呂付の部屋風呂ありってお前、露骨にもほどがあるだろうが!」
若女将自らが案内と部屋の説明などしてくれ、するすると下がって行った後、俺はそう言いながら古泉の頭を軽く叩いた。
だがその程度の攻撃が古泉に堪えるはずもなく、
「欲望に忠実なたちなんです」
と笑顔で言われた。
アホか。
「いけませんか? 愛する人と二人っきりで過ごしたいと思うのは極自然なことだと思うのですが」
「……そうじゃなくてだな」
「それ以外に何か加味するべき事項があるとも思えませんね。僕とあなたが愛し合っていて、子供だっている以上、僕が温泉旅館であなたとしっぽり行きたいと思ってもなんらおかしくはないでしょう」
「し、しっぽりとか言うな!」
「じゃあ聞きますけど、」
と古泉はいつになく意地の悪い笑みで言った。
「少しも期待しなかったんですか? 僕と二人きりで温泉旅行と聞いても、何も?」
「うっ……」
期待というと語弊があるが、考えに入れなかったと言ったら俺は大嘘吐きと罵られたところで文句は言えないだろう。
実際、週末古泉の部屋に泊まっては、人には言えないようなことに精出して励んでいるわけだし。
だが、そう胸を張って主張することでもないだろう。
赤くなって黙り込んだ俺を、古泉が抱き竦める。
「可愛いですね」
「…っ、ばか」
男としてのささやかな矜持が俺に悔しいと感じさせるくらいには、古泉は男前だった。
だが、
「…こら」
と咎めることくらいは許してもらおう。
「何か?」
「まだ日も暮れてないのにどこに手をやってるんだお前は」
「あなたの腰ですね」
「せめて、」
俺は赤くなった顔を背けつつ言った。
「…日が落ちてからにしろよ。まだ土産だって買いに行ってないのに」
「……そうですね」
意外にもあっさりと古泉は俺を解放した。
俺が驚いていると、
「そこまで欲望に忠実だと思いました?」
「いや…」
「別に、体だけが目当てであなたといるんじゃないんです。あなたが好きで、大切にしたいと思うからこそ、あなたの側にいさせて欲しいと思うんです。だから、あなたが本当に嫌なことはしませんし、あなたの希望を優先させたいとも思うんです」
真摯な言葉に胸が熱くなった。
拒んで悪かったと思うくらいには。
謝ろうか、と思った瞬間、
「まあ、あなたの感じやすい体も好きですけどね」
と古泉が余計なことを言い放ち、俺は迷わずその頭をぶん殴った。

お茶を飲んで少し落ち着いた後、古泉と連れ立って旅館を出た。
この辺りには江戸時代の古い造りの街並みが残っており、そこが土産物屋街として賑わっているのだ。
旅館の中にも土産物くらいあったが、そっちに行った方が品揃えもいいし、わざわざ遠方に来た甲斐もあるというものだろう、とそっちに向かうことに決めた。
歩いて数分だから、散歩としても丁度いいだろう。
そうやって歩いていくと、止まったバスや他の旅館から吐き出された人でそこそこ道が賑わってくる。
日暮れと共に始まるライトアップの時間が近いためらしい。
人が来ないと嘆く観光地が多い中、栄えていて何よりだ。
などと考えながら道を歩いていると、不意に手を握られた。
「古泉…」
顔を顰めながら言うと、
「少しくらい、いいでしょう?」
「少しくらいで済ませるつもりならさっさと手を離せ」
「嫌です」
笑顔で断言しやがったな。
「だって、せっかく二人きりでの旅行なんですよ? 婚前旅行か新婚旅行かは分かりませんけど、夫婦で初めての旅行なんです。手を繋ぐくらいいいじゃありませんか」
頼むから人に聞かれるとまずい発言をしないでくれ。
「旅の恥は掻き捨てというじゃありませんか。気にせず堂々としてればいいんですよ」
ね、と握った手に力をこめる古泉に、俺はため息を吐くしかなかった。
こういうところは妙に強情なんだよな。
それに俺も、本気で嫌じゃないんだ。
知り合いもいないであろう遠方に来た時くらい、多少気を緩めたっていいかと思いもするし、そもそもハルヒに知られてる以上、必死になって隠さなくてもいいんじゃないかと思う時だってあるくらいだ。
手を繋ぐだけのことで古泉は本当に嬉しそうにするし、それを見てる俺も嬉しくなる。
……もしかすると、その辺りを全部見抜かれているんだろうか。
怖々と古泉を見上げると、小首を傾げながらの笑みを返された。
「どうかしましたか?」
「…いや、……長門への土産をどうしようかと思ってな」
せっかくの街並みさえろくに見てなかったくせに俺はそう言い逃れた。
すると古泉は不思議そうな顔をして、
「……ずっと思ってたんですが、あなたはどうして彼女を名字で呼び続けるんですか?」
「へ?」
「名前で呼んだっていいと思うんですけど」
「…あー…それか」
いきなり何を言い出したのかと思った。
「名前で呼んであげたら、喜びますよ」
うん、それは予想がつく。
つくんだが……、
「恥ずかしいんだ」
「…恥ずかしい、ですか」
「お前だって、俺の名前を恥ずかしくて呼べないんだろ」
俺も同じだってことだ。
「僕の名前を呼ぶのと同じくらい恥ずかしいんですか?」
「……お前よりは恥ずかしくない、かな」
長門のことはハルヒが名前で呼んでる分、耳慣れてもいるから。
「なら、少々の恥ずかしさは我慢して、名前で呼んであげてください」
「……やけに長門の肩を持つな。何かあったのか?」
そういえば長門も、この旅行を決める時、お前の肩を持ってたな。
親子仲がいいのはいいことだが、少し面白くないぞ。
「面白くない、ですか」
「ああ。…長門が懐いてきた頃のお前の気持ちがよく分かる」
妬くところじゃないと分かってるのにむかむかすると、ムカついてる自分に余計に腹が立つんだな。
「嬉しいですね」
にやけた顔で言った古泉に顔を顰めつつ、
「で、何があったんだ? さっさと白状しろ」
「白状するのは構わないんですけど……」
けどなんだ。
「…顔、近いですよ」
言われて気がついたのだが、俺は古泉の手を握ったまま手を顔の辺りまで持ち上げ、かつ自分の方に古泉を引き寄せていた。
その上、問い詰めてやろうと勢い込んだせいで、顔を突き出していたわけだ。
……傍目に見ても完全に恋人同士の距離だな。
慌てて距離を離すと、古泉は笑いながら、
「積極的なあなたもいいですね」
「うるさい、自分勝手に曲解するな」
それよりさっさと白状しろ。
「…少し前から、時々ですけど、彼女を名前で呼んでるんです」
「……え」
本気で驚いた俺に、古泉は楽しげに、
「ほら、先日、あなたが旅行で来られなかったでしょう? あの日、一緒に出かけて話したりしているうちに、彼女が名前で呼んでほしがっているのに気がつきまして、呼んでみたんです」
そうしたら凄く嬉しそうにされまして、とまだにまにまと話し続けている古泉から、俺はふいっと顔を背けた。
面白くない。
「……あの…?」
「面白くない」
ハルヒでもないのに唇を尖らせながら、
「俺のことは名前で呼ばないくせに」
と恥ずかしいことを言っちまった。
これだと古泉に名前で呼んでもらいたがってるみたいだろうが。
それも、娘のように思ってる長門に嫉妬までして。
いや、どっちも間違ってはいない。
間違ってはいないが認めたくないんだ。
それだけ古泉が好きだってことが、それを露わにしちまうことが、恥ずかしくてたまらなかった。
なのに古泉は、小さく声を立てて笑った後、
「軽々しく名前を呼べないくらい、あなたを好きなんだってことくらい、分かってるんでしょう?」
と俺の耳元で囁いた。
むず痒いを通り越して、下半身直撃な無駄にエロい声で。
こういう時にそんなものを活用するんじゃない。
「分かってるのにそんな風に嫉妬してくださって、嬉しいですよ。それに、それを言うなら涼宮さんはどうなんです? あなた、大抵の人のことは名字で呼ぶのに、涼宮さんのことは名前で呼び捨てになさるじゃ有りませんか」
「あれは、友人だと思ってるから呼べるんであって、他意はない」
「じゃあ、僕は無理でも、有希のことなら名前で呼べるんじゃないですか?」
「……」
どうなんだろうな。
長門と呼ぶのが習慣化しているせいで、今更呼び方を変えるのも不自然に思えるし、気恥ずかしいのだが。
「経験者として言わせてもらえるなら、」
と古泉は悪戯っぽく笑い、
「恥ずかしさを遥かに凌駕するくらい、嬉しい気持ちになれますよ」
「…分かった。今度、名前で呼んでみる」
「そうしてあげてください」
「それで、」
俺は言いづらさに一瞬黙り込んだが、
「…有希への土産はどうする?」
「そうですね…」
古泉が特にコメントもせず、そうやって自然にしてくれるのがありがたい。
何しろ今の俺の顔は真っ赤になってるに違いないからな。
温泉に入る前からのぼせ気分だ。
「部屋に飾るものなんてどうでしょうか」
「いいかもしれんな。なが…」
じゃない、
「…有希の部屋は殺風景過ぎるから」
「それでも、随分と物が増えたじゃないですか」
「主に俺とお前の物がな」
あいつの物で増えたものなんて、本を除けば本当に生活必需品くらいじゃないのか。
「ちゃんと、有希の物だって増えてますよ」
笑いながらそう言った古泉と共に、店を覗きながら歩く。
「ハルヒへの土産は温泉饅頭とかそのへんでいいか?」
「朝比奈さんはそれでいいでしょう。お茶菓子に、と言えば受け取ってくれそうですし。しかし、涼宮さんはそれでは受け取ってくれないかもしれませんね」
「もっと面白いものにしろとか言いそうだよな」
だが、あいつはああ見えてベタな物も好きだぞ。
変に奇抜なものを買って帰ったら、
「温泉に行ったら温泉饅頭って決まってるでしょ!」
とかなんとか言われる気がする。
「では、SOS団へのお土産として温泉饅頭を買って、それとは別に何か買いましょう」
「そうするしかないか?」
出費が凄いことになりそうだな。
「大丈夫ですよ」
笑顔のままそう言った古泉に、
「土産物代くらいは俺に出させろよ」
「折半でいいですよ?」
「そうはいかん」
お袋からいくらか金も渡されてるしな。
「それはあなたのご友人へのお土産を買うために使ってください。全額をあなたが持つ必要はありません」
「……強情な奴だな」
仕方ない、と俺は諦め、
「じゃあ、半分だけ出せ」
「分かりました」
そう言った古泉が俺の耳元へ唇を寄せ、
「あなたのそういう生真面目なところも好きですよ」
と囁いた。
だから人目を憚れ、と俺が言おうとした時だった。
古泉の表情がぱっと変わった。
携帯が鳴ったらしい。
聞こえてくる着信音はメロディーもへったくれもない電子音だ。
「出ないのか?」
「出ますよ。……旅行中だけでも着信拒否にしてやりたいくらいですけどね」
「なんだ、機関からか」
「ええ」
げんなりした表情で携帯を取り出した古泉は、
「そこに足湯がありますから、座って待っててくださいますか?」
「分かった」
温泉街なだけあって、通りのちょっとしたスペースに、足だけ浸かれる温泉が用意されている。
人の多い時間帯なだけあって、混雑しているが、どうやら俺ひとりくらい座れそうだった。
ベンチ状の椅子に腰を下ろし、靴を脱いでズボンをまくる。
そうやって足を浸けると、温かさが心地よかった。
しかし、
「…旅行中なんだからいっそ電源でも切ってりゃよかったんだよ」
ため息混じりに呟くと、
「お連れの方に仕事の電話でも入ったんですか?」
と隣りに座っていた女性に聞かれた。
二十代半ばくらいだろうか。
落ち着いた雰囲気で、そこそこ美人だ。
「ええ」
愛想笑いを浮かべつつそう言うと、
「私もなんです」
と彼女が苦笑した。
「嫌ですよね。旅先で放っておかれるのって」
「そうですね」
「なんのための休みなんだか…」
「台無しにされた気分になりますよね」
「そうなの。はぐれたりする心配もないんだから、いっそ携帯なんて置いてくればよかったのに」
不貞腐れる彼女と共に、しばらくぐちぐちと文句を言いあっていると、
「楽しそうですね?」
と背後から声を掛けられた。
思わずぞっとするくらい、機嫌の悪そうな声だ。
俺はなんとか平静を保ちつつ、
「誰かさんが放っておいてくれたおかげでな」
と返してやりながら、温泉から足を出した。
備え付けのタオルに手を伸ばすより早く、古泉がそれを取り、俺の前に膝をつく。
「拭きますよ」
「別に自分で拭けるんだが」
と言っても無駄なんだろうな。
衆人環視だのなんだの言っても同じだろう。
要するにこいつは、こうすることで俺が自分の連れだと――更に言うなら恋人であると――主張したいのだ。
さっきまで俺と話していた女性が意外そうに目を丸くしているのを見ると、変なものをお見せしてすみませんと謝りたい気分になるが。
ズボンの裾まできっちりと直した古泉の手を借りてベンチから立ち上がった俺は、彼女に軽い会釈をひとつだけ残してその場を離れた。
「随分と盛り上がってましたね」
「話してただけだろ。彼女も、連れの人間に連絡が入って放っておかれたんだとさ」
「本当にあなたという人は……片時も目が離せませんね」
「人の話、聞いてるか?」
「少し目を離しただけで…」
苛立ちを隠そうともしない古泉に、つい、小さく笑みを漏らすと、
「…何が楽しいんですか」
「お前がそうやって分かりやすくヤキモチ焼いてんのが」
古泉はますます渋い顔になったが、今更そんなものに怯みはしない。
「買い物も大体済んだし、食い物は明日、帰りに買った方がいいだろ。もう今日は部屋に戻らないか?」
そう言っておいて、古泉との距離をつめ、小声で囁いた。
「…風呂、一緒に入るんだろ」