あたしが教室に入ると、そこには既にキョンがいて、なんだか知らないけどにやけた顔で携帯をいじくってた。 「おはよ。早いわね」 「たまにはな」 携帯から顔を上げないままキョンが言い、あたしは別にそれを咎めもせず、自分の席に座った。 ふっと鼻をくすぐったのは、キョンの髪の匂い。 でも、それはいつもと違っていて、なのに嗅いだ覚えのある匂いだった。 誰の匂い、と考えたらまず思い浮かぶのは、キョンの恋人の古泉くん。 でも、こんな匂いだったかしら、と思うのは彼が、本当にかすかにだけど香水を使っているせいね。 キョンから漂ってくるのはシャンプーの匂いだから、それとは少し違っていて、よく分からなかった。 「昨日、古泉くんの部屋に泊まったの?」 あたしが聞くと、キョンは真っ赤な顔をしてあたしを見た。 「い、いきなり何を言いだすんだお前は!」 「違うの?」 「……違わないが」 「なら別にいいじゃない」 なんでそんなに慌てるわけ? 「誰だって慌てるだろ」 とため息を吐いたキョンは、声を更に潜めながら、 「で、何で分かったんだ? またキスマークでもついてんのか?」 「そうじゃなくて」 とあたしは髪の匂いの話をした。 キョンは顔を赤らめたまま、 「今朝風呂に入ったせいか…。昨日のうちに入っときゃよかった。でも、あのバカのせいで疲れてたんだよな……」 なんてぶつぶつ呟いてる。 その発言の方がよっぽど恥ずかしいって分かってないみたい。 ほんと、鈍いわ。 そんなキョンを見事落とした古泉くんは凄いのかもしれない。 「どうせしょっちゅう泊まってるんでしょ? いっそシャンプーでも持ち込んでおけば? 同じものさえ使わなければいいんだし」 「そうだな。……忠告に感謝する」 半分ふざけるみたいにそう言ったキョンの携帯が音を立てた。 いそいそと携帯を開くキョンに、 「メールの相手も古泉くん?」 「ああ」 ……嬉しそうな顔しちゃって。 「昨日も会って、朝も一緒だったんでしょ?」 だから登校が早かったんじゃないの? 「そうだが…」 「それなのに、まだメールで話してるなんて、本当にラブラブね」 あたしの呟きがからかいだって気付いたらしいキョンが、軽く眉を寄せた。 「ほっとけ」 「で、何話してるの?」 身を乗り出すと、 「あっ、こら!」 とキョンが抵抗したせいで、画面はほとんど見えなかった。 ただし、一瞬、赤いハートの絵文字が見えた気がする。 「…キョン、今映ってたのあんたが打ってたんじゃないわよね?」 「え、ああ、そうだけど、どうした?」 「……古泉くん、絵文字なんか使うのね」 次の瞬間、キョンの顔がもう一度真っ赤に染まった。 「…っ、あの馬鹿!」 恥ずかしいからやめろって言ってんのに、と今にものた打ち回りそうなキョンにあたしはニヤニヤ笑いながら、 「夫婦仲がよくっていいわねー。有希もほっとしてるんじゃない?」 と言っておいた。 お昼になって、食堂で手早く食事を終えたあたしが廊下を歩いていると、中庭にキョンたちの姿が見えた。 キョンたち、というのはつまり、キョンと古泉くんと有希ってこと。 三人、芝生の上に腰を下ろして、お弁当を広げていた。 意外だけど、キョンは料理がうまい。 いつだったかに食べさせてもらった晩御飯も、この前のお弁当も、美味しくてしかも愛情に満ち溢れてた。 食べるだけで幸せになれるようなご飯。 それは多分、料理を作っているキョンが幸せで、食べる人を幸せにしたいとか考えながら、愛情を込めて作ってるからなんだろうなぁ。 それとも、今日は有希が作ったのかしら? 昨日キョンは古泉くんのところに泊まったらしいし、前に、古泉くんの部屋には炊飯器もない、なんて主婦みたいなことをぼやいてたから、そうかもしれない。 有希は有希で、キョンに教わったっていうだけあって、料理上手なのよね。 元々器用ではあったけど、前に一緒にバレンタインチョコ作った時は本当にレシピ通りにしかしなくって、いくらか大雑把にしなきゃいけない料理なんて出来そうにないかもって思ったくらいだったのに。 そんな微妙な料理のコツも、キョンが教えたのね、きっと。 チョコといえば、今度はキョンも誘ってやろうかしら。 古泉くんのために、大きなハート型のチョコでも作ってあげなさいって言ったら、きっとまた真っ赤な顔して慌てるわね。 それって結構楽しそう。 チョコじゃなくて、チョコレートケーキをワンホール作らせてみるのもいいかも。 甘ったるくて、食べるのも大変なケーキを、古泉くんがどんな顔して食べるか想像すると面白そうだし。 ……多分、どんなに大変でも、キョンが作ったんなら、古泉くんひとりで完食しちゃうんだろうけど。 分けてあげても、有希にだけって気がするわ。 ああ見えて、古泉くんも独占欲が強いみたいだし。 それにしても、とあたしは中庭を見下ろした。 あたしも一緒にお弁当食べたい。 さっき食べたところだけど、それでも一緒に過ごしたいなんて思っちゃうのは、多分、あの三人が物凄く楽しそうだからね。 古泉くんはいつもの三割増は明るい笑顔になってるし、有希は有希で楽しそうにパクパク食べてる。 それがただ食べるだけじゃなくて、次にどれを食べようか迷ったり、口に入れたものをちゃんと味わっているっていうのが、遠目に見てても分かる。 時々、何かをキョンや古泉くんに勧めてるのも。 勧められたキョンは嬉しそうにそれを食べて、また笑みを浮かべる。 幸せな家族にしか見えない。 でも、キョンって割と人目を気にする方じゃなかったかしら。 こんなに堂々と、恋人と娘といて、何か言われたりしないの? あたしが首を傾げてると、通りかかった女子が窓の外を見て足を止めた。 「あ、古泉くんだ」 「どこ?」 一緒に歩いてた子も、足を止める。 「またあのふたりと一緒にいるんだ」 どこか羨ましがるような声。 「仲いいよね、あの三人。もしかして、古泉くん、長門さんと付き合ってたりして……」 「どうなんだろ。でも、それだったらもうひとりはどうなるの?」 ……キョン、あんたって名前知られてないのね。 今度、全校に知れ渡るくらい、アピールさせてあげるわ。 「うーん、……友達、とか?」 「それなら三人ともただの友達ってことじゃないの?」 「かもしれないけど。でもやっぱり……なんか違うって気がするんだよね。友達にしては親しそうって言うか」 あの三人は他人の目から見てもそう見えるみたい。 それがいいのかどうか、微妙なところだけど。 「あのお弁当、やっぱり長門さんが作ってるんだろうなー」 「前に、誰かが古泉くんに聞いてみたんだって。なんでお弁当作ってきてもらってるのかって」 「なんて言ってたの?」 「なんか、料理が苦手なんだけど、外食ばっかりじゃ体に悪いからって、心配されたってことらしいの。それで、古泉くんのファンの子が、お弁当作って持っていこうとしたんだけど、どうしてもあの中に割り込めなかったんだって」 「へぇ」 まあ、当然よね。 あたしでさえ躊躇するくらいだし、それに、多分邪魔しに入ろうとしたところで、そもそも目的の対象にあたる古泉くんが追い返しにかかると思うわ。 有希も多分許さない。 キョンだけがいくらか同情的な顔をするかもしれないけど、それでもその場所を明け渡したりは絶対しないと思う。 それくらい、キョンもあの場所が気に入ってるから。 たまにそこへ混ぜてもらえるだけでも、あたしは十分嬉しいから、今日は邪魔しないでおくわ。 今度出かける時はまたお弁当を頼みたいけど。 放課後になって、あたしは特にすることもなくてネットサーフィンをしてた。 みくるちゃんはお茶を入れた後、編み物の本を見てる。 有希はじっと本を読んでるみたいだけど……なんで育児書を読んでるのかちょっと気になる。 聞いてみたいけど、聞くのが怖いわね。 ただの好奇心なのかもしれないけど。 で、キョンと古泉くんは向かい合って座って、いつもみたいにゲームをしてた。 今日やってるのはチェスね。 古泉くんは適当にやってんじゃないかって思うくらい拙い手ばかりだけど、それは多分、ゲームをするのが目的じゃなくて、キョンと一緒に何かをするのが目的でゲームをしてるせい。 もう、あたしにもみくるちゃんにもばれちゃってるんだから、堂々と話でもしてればいいのに。 キョンの方が結構真面目にやってるせいか、会話は特にないけど、ふたりとも自然に表情が緩んでるのが分かった。 本当に、甘ったるいわね。 部室内いちゃいちゃ禁止とか言ってやるべきかしら。 でも、そんな空気がどうしてか不快じゃないから、あたしはそれを言えないままになってる。 幸せそうなキョンと古泉くんを見てると、あたしも幸せな気分になるからかもしれないけど、それは黙っておこっと。 多分、キョンが恥ずかしがるだけだし、それはそれで可愛いんだけど、古泉くんを喜ばせるだけになっちゃう可能性も高いしね。 古泉くんを喜ばせる義理はないわ。 「そうだ古泉、昼に言い忘れたんだがな」 不意に、キョンが言った。 「お前、メールで絵文字使うの止めろよ。特にハートとか使うな。気色悪い」 「酷いですね」 言いながら、古泉くんは全然堪えてないみたいだった。 キョンに対しては、いつもより図太く見えるのって、きっと古泉くんが余裕を持ってるせいね。 キョンに愛されてるっていう自信からくる、余裕。 そう思うとあの笑顔がちょっとむかつくわ。 「大体、恥ずかしくないのか? 女の子ならともかく、男がやっても可愛くないんだぞ」 「絵文字くらい、恥ずかしくなんかないでしょう? 昨夜のあなたの媚態の方がよっぽど恥ずかしいと思いますけど」 「…っ、この阿呆!!」 真っ赤になって怒鳴ったキョンはその後も怒り続けてる。 飛び出す罵詈雑言を、古泉くんは聞き流しもせず、ただし反省する様子もなく聞いてる。 まるでそれが愛の言葉に聞こえるみたいに。 じっとふたりの様子を見てたあたしは、小さくため息を吐いて、呟いた。 「……あたしも、キョンみたいに可愛い彼女が欲しい」 怒鳴ってたキョンも黙り、古泉くんどころかみくるちゃんと有希まで、驚いた顔であたしを見た。 何? あたしそんなに変なこと言った? 凄く当然のことだと思うんだけど。 だってキョン見てたら誰だって思うわよ。 間違いなく。 あたしが保証してあげるわ。 |