父子



彼が一緒に泊まれない日でも、金曜日は長門さんの部屋に泊まるように決めて以来、数回目のそんな機会が訪れた。
僕が泊まれないことは多くても、彼はそう多くない。
バイトで忙しい僕と違って、彼は大抵、他のどんな用事よりも、彼女を優先させるからだ。
今日、泊まれないのは家族で旅行に行くからで、いつもなら、たとえ泊まれない日であったとしても、夜か朝に顔だけは出していた彼でも、今回ばかりは少しも姿を見せられなかった。
家族旅行、という響きに寂しさを覚えてしまうのは、僕たちも家族だと思っているからだろう。
擬似家族とか、家族ごっこではなく、ちゃんと家族なんだと、思い上がりかもしれないが思っているからだ。
それは彼女も同じようで、昨日僕が、
「今度僕たちも行きましょう。家族旅行に」
と言うと、嬉しそうに頷いていた。
嬉しそう、と僕が表現したことでお分かりかもしれないが、僕も彼ほどではないにせよ、彼女の感情の起伏を感じ取れるようになっている。
もしかするとそれは、彼女が気を遣ってくれて、いくらか大袈裟にそれを見せてくれているかもしれないが、それはそれで嬉しい。
ただ、その時彼女が付け足したのは、
「その前に、お父さんとお母さんはふたりで行くべき」
という言葉だった。
僕としてはそう言ってもらえるのも嬉しいし、そうなったらまさに天にも昇る心地になれるのだろうが、多分彼が承知しないだろう。
「そんな風に気を遣わなくていいんですよ。僕も、長門さんが一緒の方が嬉しいです」
「……そう?」
「ええ、そうです」
それは嘘ではない。
彼が彼女を可愛がるように、僕も彼女が可愛いのだ。
それを証明するように、僕は言った。
「よかったら、明日一緒にショッピングにでも行きませんか?」
「……いいの?」
「ええ。…他の女性ならともかく、あなたとでしたら、一緒に出かけたところで彼も怒らないでしょうから」
僕がそう言うと、彼女は何か言いたげにしていたが、最終的に頷いてくれた。
そうして、一晩明けた今日、彼女と共に彼女の部屋を出た。
SOS団として出かける時とは違って制服姿ではなく、愛らしいキャミソールとショートパンツという出で立ちが目に眩しい。
「可愛いですね」
と僕が言うと、照れているのか、黙り込まれてしまったけれど。
エレベーターに乗り込みながら、
「まずどちらへ向かいます?」
と問うと、
「……お父さんは、どこがいいと思う?」
「さて…」
と僕は考え込む。
買い物に行くと決めたものの、彼女に必要なものとはなんだろうか。
簡素な部屋にはもう少し家具や装飾品があってもいいと思うが、家具だと大きな買い物になりすぎるだろう。
勿論、僕のポケットマネーでも買えないことはないのだけれど、そうすると彼女が気を悪くするだろうし、そんな大きなものを買うのであれば彼が一緒の方が望ましい。
それなら、部屋に飾るものか、あるいは洋服かアクセサリーでも見にいった方がいいだろう。
「雑貨店にでも行きましょうか」
僕が提案すると、彼女は頷いた。
マンションを出る時、管理人が玄関ホールの掃除をしていたので、軽く会釈をしておく。
僕と彼女がふたりで歩いていても、特に奇妙に思われないくらい、僕はここに出入りしているらしい。
そう思うと、なんとなくくすぐったい。
先日、共有スペースである階段で派手な大喧嘩までやらかしてしまったから、僕と彼のことを知られてしまったのかもしれないが、それでもいいと僕は思っている。
彼が許してくれるなら、僕は世界中に向かって、彼は僕の大事な人ですと大きな声で主張してしまいたいくらいなのだけれど、彼がまず許してはくれないだろう。
それに、堂々としていればかえって何も言われないものだ。
気になるのは、そんな僕らと一緒にいる彼女がどう思われているかということくらいなのだが、彼女もそんなもの気にはしないだろう。
それなら、と僕は軽く手を伸ばし、彼女の手を握った。
彼女は一瞬戸惑うように僕を見たが、すぐに嬉しそうにして手を握り返した。
そういうところが可愛いと思う。
手を繋いだまま歩いて、駅に向かう。
電車で街まで出た方が、彼女に似合う雑貨が見つかるだろうと。
並んで座席に座っても、彼女は手を離さなかった。
僕は目を細めつつ、
「なんだか、不思議な感じがしますけど、こういうのも楽しいですね」
「……こういうの…?」
首を傾げる彼女に、僕は大いに頷き、
「ええ、娘とふたりだけで出かけることです」
「…私も」
恥ずかしそうにしながらも、彼女はそう言ってくれた。
「ありがとうございます」
公共の場だからとふたりとも声を潜めている。
だからこそ、顔が近づいて、ちょっとないくらいの近距離で話していても、それが息苦しくない。
むしろ、それさえ楽しいのはやっぱり、僕も彼女を娘のように思うようになってきているからなんだろう。
黙っていても、落ち着かないなんてことにはならなかった。
繋いだ手は暖かいし、かすかに聞こえてくる彼女の息遣いも、もはや耳に馴染んだものだからだろう。
僕は自然に緩やかな笑みを浮かべながら、時々彼女を見つめつつ、駅に着くのを待った。
僕の笑みは、作り笑顔のそれとほとんど変わらない形をしていたのだろうけれど、断言出来ることは、それが作り笑いじゃないと彼女が分かっていたということだ。
もし、その場に彼がいたなら彼もそれを分かってくれた上で、
「ニヤニヤしてるんじゃない」
とか何とか言ってきただろう。
しかし、僕たちは、傍目には一体どう映るんだろうか。
片方は笑顔で片方は無表情。
会話はなく、それでも手はしっかりと握っている。
奇妙な取り合わせに見えることだけは間違いない、と思いながら、僕は小さく笑った。
やがて駅に到着し、僕は彼女の手を引いて電車を下りた。
階段を降りる時に、無意識のうちに彼女より先に立って歩くのは、それがマナーだからということよりもむしろ、彼女を大事にしたいと思うからだろう。
手を繋いだまま、歩き慣れない街を歩くのも楽しい。
彼とはなかなか出来ないことだからかもしれない。
そんなことを言ったら、彼も怒るか拗ねるかしてしまうだろうか。
あるいは、彼のことだから、
「それならもっと長門を連れ歩いてやれ」
とかなんとか言うかもしれないけれど。
それに頷いてもいいと思うくらい、彼女といるのは楽しい。
でもやっぱり、こうして彼女といるのに彼のことばかり考えてしまうということはつまり、彼が一番ということなんだろうな。
それは、彼女にしても同じらしい。
雑貨屋の中をゆっくり見て回っていた彼女が足を止めたのは、水色のタオルの前で、
「……お母さんが好きそう…」
と呟いた。
それは確かに彼が好みそうな色合いをしていた。
「そうですね」
と言いながら手に取ると、手触りもいい。
値段もいいが、それに見合うだけの品質だろう。
色違いのタオルが他にもいくつかある。
僕はそれを指し示して彼女に尋ねた。
「三人揃いで買い揃えましょうか」
「……いいの?」
「ええ、僕から何でもない日のプレゼントです」
「…何でもない日?」
首を傾げた彼女に僕は笑って、
「イギリス人の書いた童話にあるんです。ご存じないのでしたら、後でDVDかビデオでも借りに行ってみましょう。書籍でも勿論構いませんが、どうせなら一緒に楽しめる方がいいでしょう?」
彼女はこくんと愛らしく頷いた。
「では、タオルくらいなら安いものですから、僕からプレゼントさせてくださいね」
「…分かった」
「じゃあ、どの色にしましょうか」
僕が聞くと彼女はしばらく逡巡した後、
「私はこれ。お父さんは……これ?」
白地に金で刺繍の入ったものと、淡い緑に金の刺繍が入ったものを示された。
「そうですね。僕はこちらが好きです。でも、長門さんも緑が好きでしょう? 僕は他の色でいいですよ」
「…白も好きだから」
「ああ、じゃあいっそこうしましょうか」
と僕はピンクのそれを手に取り、
「僕がこれを使います。長門さんは緑のものを。――それを聞いた時、お母さんがどんな顔をするか考えると、楽しそうだと思いません?」
「…困ったお父さん」
と言いながらも、彼女はかすかに笑うような気配を見せ、
「でも、私も同感」
「じゃあ、そういうことで」
僕はタオルを三枚取り上げ、
「他にも要るものはありますか?」
彼女は棚に視線を走らせながら、
「歯ブラシがそろそろ交換時期」
「では歯ブラシも、と言いたいところですが、それは薬局かドラッグストアで買い求めた方がいいでしょうね」
後で寄りましょう、と言うと頷いてくれた。
「後は何かありましたっけ?」
「とりあえず、このコーナーのものは大丈夫。でも、他にも見ておきたいものがある」
「何ですか?」
僕が問うと、彼女は恥ずかしそうに少し黙り込んだ後、
「……ボードゲーム」
その言葉に僕は驚いた。
それは勿論嬉しいことだ。
彼女が僕のことも好きになってくれたということだから。
それでも驚きの方が大きくて、思わずぽかんとしたことで、彼女に一瞬とはいえ傷ついたような表情をさせてしまった。
「嬉しいですよ。ありがとうございます」
「……本当に?」
「ええ。……あなたがお母さんを好きなことは知っていましたが、僕のことまでそんな風に好きでいてくださるとは思ってなかったので」
「……お父さんのことも、私は好き」
そう言って僕を見上げた彼女は、
「…お父さんは、私のこと……」
と言いかけて黙り込んでしまった。
僕は思わず目を細めながら、
「勿論、好きですよ」
「…本当?」
「ええ」
そう答えて、僕は気がついた。
さっき、彼女を「長門さん」と呼びかけた時の、彼女のなんとも言いがたいような表情を。
それは表情と言えるほどはっきりとは現れなかったけれど、多分、不満や不安の表れだったんだろう。
だから僕は、彼女の髪をくしゃりと撫で、
「――有希は、僕の大事な娘ですから」
名前でそう呼んだだけで、彼女が本当に嬉しそうにしたのが分かった。
「私も、お父さんが好き」
そう言って、我慢出来なかったかのように、ぎゅっと抱きしめられた。
くすぐったいし、周りの視線も少し気になるが、それ以上に嬉しいからと僕は彼女を抱きしめ返す。
「お母さんの次に、ですか?」
と聞いてみたのは、好奇心と、ちょっとした悪戯心のせいだ。
彼女は顔を上げて、ふるふると首を振り、
「同じくらい、好き。お父さんは…?」
「申し訳ありませんが、お母さんの次に、ですね。すみません」
嘘を吐いても仕方ないだろうと正直に言うと、彼女は軽く首を振った。
「それでいい。…十分、嬉しい」
「お母さんを別にしたら、僕は有希が一番好きですよ」
「……ありがとう」
そう言った彼女が、一瞬、本当に一瞬だが、微笑んだように見えた。
見間違いかもしれない。
それでもそれは愛おしく、愛らしい笑みで。
僕は人目も顧みず、力を込めて彼女を抱きしめた。

店員の微笑ましげな視線を受けつつ、タオルを三枚と、彼女と二人で選んだゲームをひとつ買い、雑貨屋を出ると、はやくも昼が近かった。
「お昼は僕に任せてもらっていいですか?」
僕が問うと、彼女は頷いた。
「じゃあ、行きましょう。この近くにバイキングのお店があるんですけど、一度有希を連れて行ってみたかったんですよ」
何しろ、彼女の健啖ぶりには彼も一目置いているくらいだ。
僕は料理をしたりはしないけれど、それでも彼女くらい気持ちよく食べてくれると、見ていて楽しい。
だから、思う存分食べる彼女を見てみたかったのだ。
目星をつけていた店に入ると、休日の昼時と言うこともあり、混雑していた。
順番待ちのためのリストに「コイズミ」と記入し、椅子に掛けて待つ。
その間も、彼女は僕の手を握っていた。
さっき買ったゲームについてなど、小声で話しているうちに順番が回ってきたのだろう。
「コイズミ様」
と呼ばれ、真っ先に反応したのは僕ではなく、彼女の方だった。
「はい」
と答えながらすっと立ち上がり、唖然としている僕の手を引っ張る。
「随分素早い反応ですね」
驚きを込めて言うと、
「……嬉しいから」
と答えられた。
可愛い。
思わず目を細めると、恥ずかしそうに目をそらされてしまったけれど。
案内された席に荷物を置き、料理を取りにいく。
ちょこちょこと好きなものだけ取る僕の皿を覗き込んだ彼女は、
「お父さんはもう少し野菜を食べるべき」
と言いながらほうれん草のおひたしを僕の皿の上に載せた。
更にサラダも載せられる。
僕は苦笑しつつ、
「ありがとうございます」
と答えておいた。
彼女の皿の上には栄養バランスを考えたと思われる、絶妙な配色、配置で料理が載っていたが、その量が素晴らしい。
普通なら確実に食べ残しコースで、彼女の細い体を見てか、店員が困ったように眉を寄せていたくらいだったから。
ふたりで席に戻り、揃って手を合わせる。
「いただきます」
の声まで揃えて。
ひょいひょいと彼女の口の中へ消えていく料理を見ながら、僕はゆっくりと食事を進めた。
途中、あの見事なボリュームの食事を食べきったばかりか、いそいそとおかわりを取りに行こうとした彼女が、
「ついでだから」
と僕の分までコーヒーのおかわりと持ってきてくれたり、
「……これ、おいしかったから」
と皿から分けてくれたりするのが嬉しかったことは言うまでもない。
「有希は本当においしそうに食べるね」
僕が言うと、彼女は頷き、
「おいしいから」
「そうですね。たまにはこういうのもいいと僕でも思うくらいですから」
「……外食したことは、」
「ええ、お母さんには内緒です」
僕がそう笑うと、彼女も頷き、
「お母さんに知られたら、怒られそう」
「怒るでしょうねぇ。『俺がいないと思って何やってんだお前は!』とか言って、僕にだけ」
「…もしばれたらその時は、庇うから」
「ありがとうございます」
小さく首を振った彼女も可愛らしかった。
食事を終えてもまだ、バイキングの制限時間にはゆとりがあったので、ゆっくりとコーヒーを飲んでいると、唐突に彼女が言った。
「――古泉一樹」
「はい?」
何か、と僕が問う前に、
「…古泉有希」
と言われた。
そのたった一言に、顔が真っ赤になるのが抑えられない。
恥ずかしいのか照れているのか、はたまた嬉しすぎるのかさえ分からなくなる。
それは彼女が同じように、彼の名前に僕の名字を付けて言った時、更に強まり、僕は思わず机に突っ伏した。
「て、照れますね…」
そう呟いた僕に、
「…お父さんが、お母さんを名前で呼ばないのは、何故?」
それは、この前の喧嘩の原因のひとつでもあるから、多分彼女も気になっていたんだろう。
彼がいる時には聞き辛くて、こうして僕とふたりになったから聞いてきたのではないか。
そんなことを考えながら、僕は正直に答えた。
「彼にも説明しましたけれど、初めは単純に、恥ずかしかったんですよ。うっかり涼宮さんの前で呼んでしまったらと思うと怖かったというのもありましたけど、名前で呼ぶのって、思ったより恥ずかしいものなんです。あだ名でも、ちょっと呼び辛くって…。有希なら、分かりますよね?」
彼女は、こくん、と頷いた。
「だから、ずっと呼べなかったんですけれど……今はもう、名前なんて必要ない気分なんです」
そう言ったら彼には呆れ果てられたけれど、一緒にいて、名前なんて必要ないくらいお互いに思いも通じている。
それなら、それくらい、些細なことだろう。
「僕の理想としては、『あれ』とか『それ』という指示語だけで会話出来ることなんですけど、それも、そう遠くはないですよね?」
僕が言うと、彼女は面白がるようにしながら、
「多分」
と同意してくれた。

その後も、薬局やスーパーに行ったりして、一日を一緒に過ごした後、僕は彼女に勧められるまま、もう一晩彼女の部屋に泊まった。
普段なら川の字になって寝るところを二人並んで寝ているうちに、寝返りを打った彼女が僕の布団へもぞもぞと入ってきたのは、果たして計画的犯行だったのだろうか。
彼女は、
「……寝相」
と答えていたけれど、怪しいものだ。
事の真偽は僕には分からないけれど、とりあえず、彼には内緒にしておこうと思う。