イヌも喰わない (後編)



夜が明けて、朝が来て、月曜日になってしまえば、どうしたって学校に行かねばならん。
そうして、登校したならば部室に顔を出さないと都合が悪いだろう。
古泉の顔をどんなに見たくなかったとしても、だ。
おかげで俺の機嫌は史上最低最悪と言っていいような代物で、周囲が思いっきり引いているのが分かった。
谷口と国木田さえ、二言三言言葉を交わしたっきり、遠巻きにしている。
それでも、どうしようもない。
むしろ放っておいてもらいたい。
そんな状況でも話しかけてくるのがハルヒという奴だ。
空気を読め。
「あんた、何かあったの?」
けろっとした調子で聞いてくるハルヒにさえイライラする。
「うるさい、ほっとけ」
と睨みつけると、ハルヒは眉を寄せた。
「何よ、その態度。あんたらしくもない」
「うるさいって言ってるだろ」
「う…」
たじろぐハルヒから視線を外し、窓の外を見た。
くそ、イライラする。
機嫌が直らないからと周囲に当り散らしている自分にも嫌悪感が湧き上がる。
いっそ来なけりゃよかった。
それでもサボりもせず、最後まで授業を受け、放課後には生真面目に部室に向かってしまうのはやはり、どこかで仲直りをしたいと思っていたからなのだろう。
出来るわけないと思っているくせに、不毛だと自分で自分を嘲笑わずにはいられない。
部室には着替え終わったところだったらしい朝比奈さんと長門がいた。
古泉がいないことがありがたい。
「キョンくんどうしたの?」
俺に湯呑を差し出しながら、朝比奈さんが言った。
「なんだか元気がないみたいだけど…」
「いえ…」
言葉を濁した俺に代わって、長門がスパッと言う。
「お父さんと喧嘩をした」
長門…、頼むから黙っててくれないか。
朝比奈さんも、
「それは大変ですね」
なんて同意しないでください。
頼みますから。
「古泉くんも機嫌が悪そうだと思ってたんだけど、そういうことだったんですね」
「…古泉が?」
訝しむ俺に朝比奈さんは天使のように優しく微笑みながら、
「いつもと同じように笑顔なんですけど、近づくなって言ってるみたいな感じに、周りを牽制してましたよ。あたしは遠目に見ただけですけど、9組は戦々恐々としてたみたい」
あのバカは何迷惑を振りまいてるんだ。
「多分、自覚はしてないと思います。イライラを抑えきれてないだけで」
「それにしたって…」
とため息を吐きつつも、少しほっとした。
あれだけ大喧嘩になって、もうけろりとされてたら余計にむかつくからな。
だが、それから少しして現れた古泉は、いつも通りに見えた。
「こんにちは」
とにこやかに挨拶をし、定位置に腰を下ろした姿はどこが違うんだと言いたくなる。
違うところがあるとすればそれは、俺と一切目を合わさないということくらいだろう。
腹が立つ。
やっぱりこいつは演技でなんだって誤魔化せるんだ。
俺との関係をずっと隠してきたように。
だから、俺に対しても演技をしていないとは言い切れないわけだ。
――そんな風に古泉を疑う自分にさえ、反吐が出るかと思った。
俺は、古泉の近くにいるのが嫌になり、立ち上がった。
そうして長門の背後に回ると、
「長門、ちょっといいか?」
「……いい」
答えながら本から顔を上げた長門をそのまま抱きしめた。
ささくれだった気持ちが少しは癒される気がする。
視界の端にいる古泉は身動ぎひとつしやがらねえが、その分のイラつきは相殺された。
本当に……どうすりゃいいんだろうな。
唸りながら長門の体を軽く揺する。
こんなに長門に甘えて、一体どっちが子供だ、とセルフツッコミを入れていると、部室のドアが唐突に開いた。
当然、ハルヒだが、
「皆来てる?」
と掛けてくる声が、いつもより控え目なのは何なんだ。
ハルヒなりに気を遣ってくれてるんだろうか。
「キョン? あんた何してんのよ」
長門に元気を分けてもらおうかと思ってな。
「元気なら古泉くんに分けてもらえばいいでしょ。何で有希なのよ。有希も、少しくらい抵抗しなさい。その手、胸に当たってんじゃないの?」
それに対する長門の答えは、
「…お母さんだから、少しくらい構わない」
というもので、ハルヒを大いに呆れさせた。
それにしても、和むな、この空気。
さっきまでの重苦しさがどこかに跳ね飛ばされた感じだ。
ハルヒに感謝するべきだろうか。
だが、ハルヒは余計なことにまで気がついちまった。
長門にべったりとくっついたまま剥がれない俺と、無関心を貫こうとする古泉を見て、ピンと来たらしい。
「ははぁん」
にやつきながらそう唸ったハルヒは、
「あんた、古泉くんと喧嘩でもしたの?」
「うるさい」
「当たりね。それにしても、珍しいわね。喧嘩なんてしないくらいのオシドリ夫婦かと思ってたのに」
むくれて答えない俺に、
「ま、喧嘩だって必要かもね。ちゃんと腹を割って話し合いなさいよ」
「……」
「返事は!?」
と返事を強要されても、俺は答えなかった。
話し合える気になれるもんなら、とっくに話し合ってる。
そうなれないからこんな風に重苦しさに耐えてるんだろうが。
ハルヒがイライラした顔をした時だった。
それまでじっとしていた古泉が動いた。
「すみません、急にバイトが入りましたので、今日はこれで」
「バイト?」
驚きの声を上げるハルヒに、古泉は携帯をちらりと見せ、
「ええ、メールが入りまして。どうも、急がなくてはならないようです」
「じゃ、仕方ないわね」
むくれた顔をしながらもハルヒはすぐに笑い、
「それが終ったら、ちゃんとキョンと仲直りするのよ?」
「…ええ」
それでも古泉は、俺に目を向けることもなく、慌ただしく部室を出て行った。
本当に「バイト」が入ったのかどうか、怪しいな。
ハルヒは確かにイラついてたが、閉鎖空間が発生するほどには思えなかった。
だから多分、古泉は逃げ出しただけなんだろう。
その態度がまた俺を苛立たせるということくらい、分かってるだろうに。
「あんたも、」
呆れた顔でハルヒが俺に言った。
「いっそさっさと帰ったら? 今のあんたっているだけで鬱陶しいのよ。元気がいるんだったら、みくるちゃんのお茶でも飲んで回復していきなさい。それくらいなら許してあげるわ」
そうだな。
長門の邪魔をし続けるわけにも行かないだろうし。
と俺は立ち上がり、朝比奈さんが淹れてくださったお茶を受け取った。
古泉がいなくなっただけでここまで気が楽になるというのも大問題だな。
…あいつといるだけでも嬉しかったからこそ、一緒にいたってのに。
俺が、今日何度目とも知れないため息を吐くと、ハルヒが心底ウザそうに、しっしっと手を振るのが見えた。
人を犬扱いするな。

大人しく家に帰り、ベッドに横になる。
携帯電話は放ったカバンの中に入れっぱなしだが、どうせ電源を切ってあるんだ。
特に問題はないだろう。
電源を切ったのは、昨日の夜のことだ。
古泉から何の連絡もないのが嫌で、また、連絡が入ったところでまともに口がきけると思わなかったから、電源を切った。
一日や二日携帯の電源を切ったところで支障がないというのもちょっとどうかと思うのだが、延々考え込んでいたから気にならなかったということだと思いたい。
「……仲直りと言われてもな…」
本当に、元の通りになれるなら、俺だってそうしたいさ。
だが、もう気がついちまったんだ。
自分たちの関係がどれくらい嘘や欺瞞を含んだ曖昧なものだったかに。
だから多分――もう、戻れない。
そう考えるだけで胸が痛くて仕方がないくらい、古泉のことを愛してるのに、どうしようもないんだと納得もしている。
知りたいと思うことは止められないし、それは、あいつが全てを明かせない以上、どうしたって知ることが出来ないことだ。
どうやったって、平行線、堂々巡り。
妥協点すら見つかりやしねえ。
やっかいなことになっちまった。
どうせなら、気付かずにいれば幸せなままでいられたってのに。
ぐだぐだと考え込んでいるうちに、いつの間にか眠っていたらしい。
「キョンくん、電話ー」
という妹の声で起こされた。
電話って、俺に掛けてくる人間は大抵携帯に……ああ、そうか。
携帯、電源切ってたんだよな。
渡された子機を受け取り、
「誰から電話だ?」
「女の人ぉー」
だから、電話が掛かってきたら、相手の名前を聞いて、ちゃんと覚えろって。
学習能力のない妹に呆れつつ、通話ボタンを押す。
女の人なら間違っても古泉ではないだろう。
「もしもし」
『……お母さん?』
「長門か」
驚いた。
「どうしたんだ?」
『お父さんが、怪我をした』
「なっ…!?」
一瞬、目の前が真っ白になった。
古泉が怪我って、それは、閉鎖空間でということか。
脳裏に蘇るのは、先日見た縁起でもない夢の中の、血の気のない顔をした古泉の姿で。
体が情けなく震えた。
『今は、家にいる。でも、急いで』
「…すぐ行く」
長門の返事も聞かず、電話を切った。
そのまま携帯を引っ張り出し、部屋を飛び出す。
呼び止めるお袋の声に耳も貸さずに家を出て、走りながら携帯に電源を入れた。
着信が数件とメールが数件。
着信は古泉と、どうやら機関のものらしい、見覚えのない番号だった。
俺の携帯で連絡がつかなかったから、長門経由で連絡を寄越したんだろう。
機関から直接俺の家にかけるわけにはいかないだろうからな。
……これでもし間に合わなかったら、一生後悔しても足りない。
つまらない意地を張って、仲直りも出来ないまま、しかもそのために到着が遅れるなど、悔やんでも悔やみきれない。
頼むから、古泉、無事でいてくれ。
チャリを自転車置き場に押し込むのももどかしく、乱雑に突っ込んだ後、古泉の部屋まで階段を駆け上がる。
エレベーターなんて、悠長に待ってられるもんか。
走りながら見たメールはどれも古泉からのもので、並んでいるのは謝罪と、会ってきちんと話したいという言葉だった。
「…っくそ」
古泉が俺を見なかったのも当然だ。
古泉は悪くないのに自分から頭を下げてくれて、それなのに俺はそれを無視して拗ねているようにしか見えなかっただろうからな。
腹が立って当然だ。
古泉が無事そうなら、一発か二発、殴ってもらおう。
そうしたら多少この頭もすっきりするだろう。
乱暴に開けたドアの向こうには、
「え、あの、どうしたんですか?」
思いっきり戸惑う顔をした古泉がいた。
「お前が、怪我したって、聞いて…」
ぜぇぜぇと息を切らしながらそう言うと、古泉は苦笑して、
「怪我って言っても、ちょっと転倒してすりむいただけですよ?」
「……なん、だと…」
だが、その言葉は嘘ではないらしい。
「ほら」
と見せられたのは、滑り込みでもしたのかと聞きたくなるような、広範囲にわたる腕の擦り傷だった。
「……これだけか?」
「脚も似たようなものですが」
「…なんだそりゃ……」
脱力して、そのままその場に座り込みかけた俺を、古泉が支えてくれた。
「誰に聞いたんです?」
「長門から電話があった」
「それはそれは…。どうやら、気を遣わせてしまったようですね」
「かもな」
しかし、そうなるとあの見覚えのない番号は何なんだ。
「番号、ですか?」
首を傾げる古泉に、携帯を渡して見せる。
表示された番号を見た古泉は、ぽかんとした顔で、
「……森さん、ですね」
「は!?」
「あなたと喧嘩をしたと零してしまいましたから、気を遣ってくださったんでしょうか」
あの人も機関の人間だろう。
それなのに、そんなことをしていいのか?
「今更でしょう。覚えていませんか? 付き合いはじめてまだ間もない頃に、あなたがうちで寝込んだ時、彼女に来てもらったでしょう? それでも彼女は、僕たちのこと上に報告したりはしませんでした。恋愛の自由くらい、僕にもあると考えてくださっているようですね」
そうかい。
「…何にせよ……」
と俺は古泉を抱きしめた。
「無事でよかった…」
安心したからか、ぼろぼろと涙がこぼれだす。
それを情けないと思う余裕さえなかった。
「ごめんな…。お前のこと、疑ってばかりで、酷いこと言いまくって……」
「そんな、謝らないでください。僕が不安にさせてしまうのがいけないんですから」
「謝るくらい、させろよ…」
「必要ありません。それくらいなら、もっと体を大事してくださった方がありがたいです」
「……それは、お前もだろ」
強い語調にならないよう気をつけながら、言った。
「大体、無茶しすぎなんだよ、お前は。大変なことばかりだろうに、いつだって笑顔で、へらへらして。おまえがそんなだから、俺もやらかしちまうんだろうが…」
「すみません」
「謝るな」
……仕方ないんだろ。
「そのことなのですが、」
と古泉は困ったように小さく笑い、
「僕が笑っているのは、あなたといられるだけで幸せだからですよ?」
「……は?」
「勿論、涼宮さんの前では演技もしていますけど、最近はそれさえほとんど意識していませんでしたね。今日は久し振りに意図的に表情を作ったので、随分疲れました」
「…じゃあ、その敬語でしゃべるのも演技じゃないって言うのか?」
「これは、どちらかというと癖ですね。最初こそ作ったキャラクターではありましたけれど、今ではこれもまた僕の一部なんですよ。初めて会ったころと比べると、僕も随分変わってしまったでしょう?」
それはそうかもしれないが…。
「正直言って、危険な兆候ですよ、これは。自分の立場を忘れたと言ってもいいようなものですからね。――もし、機関からなんらかの命令が下され、かつそれがあなたの意思に反するものだったとしたら、僕は間違いなくあなたを優先させると思います。それくらい、僕は本気なんですよ。そうは見てもらえないかもしれませんけれど」
俺は首を振り、
「信じる。……信じさせて、くれ」
「信じてください。僕は、決してあなたを裏切ったりしません」
そう言って、抱きしめてくる腕に力が込められる。
「本当の僕は、今の僕とほとんど変わりません。そうなったのは、あなたがそれを引き出してくれたからです。演技や嘘偽りでなく、僕はあなたを愛してますよ」
「…俺も、愛してる。信じる、から」
止まらない涙を、古泉の舌が舐めとる。
「機関の話も、いくらかしましょう。ただ、僕は末端にいるも同然の身ですから、詳しいことについては全く分からないんです。中途半端しか話せないのでは余計にあなたを不安にさせるかと思って、黙ってきましたが、正直にお話しした方がいいでしょう?」
いい、と俺は首を振った。
「知ったところでどうしようもないだろ。それに、信じるって決めたんだから、もう、揺るがないから…」
「……ありがとう」
驚いて顔を上げると、キスされた。
触れるだけで離れていくキスが惜しくて、俺からも口付ける。
あんなに疑って、苦しんでいた自分がバカみたいだ。
俺が思い込んでただけで、隠し事なんて、本当はなかったのか。
「疑り深くて、ごめんな…」
「それなら僕は、嫉妬深くてすみませんと謝りましょう」
なんでだよ。
「あなたを慰めようとする長門さんや朝比奈さん、涼宮さんにまで、嫉妬しましたから」
「…ばか」
そんなもん、必要ないだろ。
言いながらキスをすると、そのまま壁に押し付けられた。
「古泉…?」
「すみません。我慢出来そうにないんです」
我慢って、お前。
「だって、土曜日にはあなたとふたりきりになれると思ったのに、あんなことになったでしょう? もう限界なんです」
いつになく余裕のない表情で言われ、思わず笑った。
こんな顔をいくつも見てきているのに、演技じゃないかと疑ってたなんて、俺の頭は風邪のせいでおかしくなってたんだろうな。
「俺も、限界だ」
そう言ってやると、古泉がほっとしたように笑ったのが見えた。

翌日、古泉の部屋からそのまま登校した俺を見たハルヒが、ムカついたような、あるいは呆れきったような複雑な表情をして、俺の喉元を指さした。
「それ」
「なんだ?」
「あんまり見えないけど、出来れば隠した方がいいわよ」
そう言われてやっと分かった。
あの野郎、と小声で毒づいた俺に、ハルヒはふふんと笑い、
「顔、真っ赤よ?」
知ってる。
が、どうしようもないだろう。
隠せと言われても、シャツのボタンをしっかり留めたところで隠れようもないような部分だ。
こんなところで嫉妬深さを強調してどうするつもりだ、あのバカは。
「何にせよ、仲直り出来たみたいでよかったわね」
揶揄するように言われ、俺が余計に赤くなったのは言うまでもない。

放課後、妙にすっきりした顔で部室に顔を出した古泉を、とりあえず殴っておいた。