涙雨



夜中というには明け方に近く、朝というにはまだ暗い頃、俺の携帯が鳴った。
普段の俺の寝穢さを考えれば、その程度で目を覚ましたのは、その報せがよくないものだと感じていたからかもしれない。
ディスプレイに表示された番号には覚えがなかったが、ワン切りなら非通知で掛けてくるかどうかするだろう。
そう思った俺はいまだ鳴り続ける電話を取った。
「もしもし」
寝とぼけた声で言うと、意外な人物の声がした。
『夜分遅くにすみません。森です』
「森さん? 何かあったんですか?」
沈黙があった。
躊躇い、あるいは迷いのような沈黙。
次いで、深呼吸をするような音が聞こえた。
そして森さんが言った言葉は、
『――古泉が、閉鎖空間で命を落としました』
一気に目が覚めた。
思わずベッドの上で姿勢を正し、携帯を痛いほど耳に押し当てる。
「なんですって?」
『倒壊した建物の破片の下敷きになって。……即死でした』
「そ…んな……」
声が上擦った。
体が恐怖に震える。
胸が締め付けられるように痛んだ。
そんなばかなと否定したいのに、それが本当なんだと分かる。
森さんがたちの悪い冗談を言うとも思えないし、その口調はどう聞いても真実を告げていた。
『古泉の両親は遺体の引取りを拒む旨を以前から機関に通達していました。ですから、古泉の遺志に従って、あなたに葬儀を取り仕切っていただきたいのですが、お願いしても構いませんか。勿論、断られても私どもの方で責任を持って葬儀は…』
「やります!」
今まで震えていたことを忘れたように、俺は叫んだ。
見えもしないのに、電話の向こうの森さんへ頭を下げて。
「やらせてください。お願いします!」
それが俺に古泉に出来る、最後の行為なら、何があろうとやりたいと、そう心から思った。
森さんと諸々の打ち合わせをし、俺は古泉の部屋へ向かうべく、着替えをした。
家を出ようとして、雨が降り始めたことに気がついた。
細く、どこか物悲しい雨。
――ああ、涙雨だ。
そう思った。
葬儀、と言っても坊さんが来たりするわけではなかった。
ただ、古泉が生前世話になった人が訪れるのへ、挨拶をするだけだ。
俺の傍らには長門がいて、俺を心配そうに見ていたが、思ったよりも俺の心は落ち着いていた。
信じられない気持ちで一杯なのに、どこか納得している。
ああ、もうあの笑顔を見れないんだと、古泉の遺体を見て思った。
遺影の中ではまだああして笑っているのに。
遺体だって、建物の倒壊に巻き込まれたにしては綺麗だった。
それでも、顔より下には縫合がされていて、機関が気を使ってくれたのだろうと分かるものだったが。
つまるところ、葬式というものは故人のためではなく、残されたものがけじめをつけるためにあるのだろう。
訪れる客を見つめ、言葉を交わすほどに、心の中も頭の中も整理されていくのを感じた。
古泉の客というのは大抵機関の人間ばかりだったが、時々、北高の生徒が来て別れの言葉を告げていた。
古泉のファンだったのだろう女子が多かったし、中には涙ぐんでいるのもいた。
同じ高校の生徒だから、俺が喪服代わりの制服を身につけて喪主の席に座っているのへ怪訝そうな目を向けていく奴は多かったが、わざわざ問いただすような人間はいなかった。
「当たり前でしょ」
と言ったのはハルヒだった。
「あんた、酷い顔してるもん。自分の方がよっぽど死にそうじゃない」
そんな顔をしている自覚はなかったのだが、ハルヒが言うならそうなんだろう。
「それにしても……古泉くんが事故でいきなり死んじゃうなんて…」
じわりとハルヒの目にも涙が滲んだ。
俺の手伝いと称してその場にいた森さんは、ハルヒが俺に近づいてきた時点で警戒していたようだったが、それは無用のものだ。
確かに古泉は閉鎖空間で命を落とした。
つまり、ハルヒのせいで死んだと言えなくもない。
だが、俺はハルヒを責める気など全くなかった。
閉鎖空間の発生をハルヒが自覚的に操れるのならともかく、実際はそうじゃない。
ハルヒが古泉を超能力者として選んだことも、無自覚のうちにだ。
そうして、古泉を選んだことがそもそもの間違いだというのなら、俺は古泉と出会えなかったことになる。
古泉を失ったことによる悲しみは大きいが、それ以上に、古泉からもらったものがあるから俺はここにいてしゃんとしていられるんだと思う。
それに――。
俺は誰にも気付かれないように、そうっと自分の腹を撫でた。
「キョン、お願いだからあんたまで死んだりしないでよ。後追い自殺なんて絶対に許さないんだからね」
「分かってる。俺は大丈夫だ」
そう笑みを浮かべることも出来た。
いくらかぎこちないものではあったかもしれないが、無理して浮かべたものじゃない。
大丈夫だという自信があった。
ハルヒも朝比奈さんも俺を心配してこうして駆けつけてきてくれる。
長門は当然のようにずっと側にいてくれて、これから俺が選ぶだろう道さえも分かっているんだろう。
俺がそれを言い出した時にも、長門は少しも驚かず、俺を止めようともしなかった。

それからしばらく後、SOS団はひとりを欠いた状態で、高校を卒業した。
俺はハルヒの指導の甲斐もあって、国立大学に入学が決まっていたが、入学と共に休学することもまた決めていた。
理由は簡単。
子供を産み育てるためだ。
ハルヒの力によって俺の体に宿った古泉の子供は、長門に頼んでずっとその成長を止められていた。
それを解除して、ちゃんと産みたいと思ったのだ。
機関には、俺が身ごもった時点で古泉が話を伝えていてくれたから、助力を仰ぐのは簡単だ。
養育費や俺の生活費も、古泉が俺に残してくれた遺産と機関からの遺族年金染みた手当てがあれば楽にやっていける。
だから俺は、子供を産むことを決意した。
そうして、四月には子供を産んだ。
産む、と言っても帝王切開だったが、それでも産むと言って支障はないだろう。
生まれた男の子に、俺は「一樹」と名前をつけた。
そうして、一樹を育てるため、長門と共に暮らし始めた古泉の部屋で、俺はハルヒと話していた。
親には事情を全て説明し、妹のためにと言って勘当してもらった。
それを心苦しく感じないでもなかったが、一樹を抱いていれば苦しみは薄れた。
今も、腕には大人しく眠っている一樹。
その鼻先をくすぐりながら、俺はハルヒに言った。
「大分慣れたもんだろ」
「ほんとにね。それにしても、男のあんたが子供を産むなんてね」
「世の中、不思議もたまにはあるってことだろ。例外中の例外だろうが」
「そうよね。そんなこと頻繁にあるわけないもんね」
そう思ってくれて何より、と言うべきなんだろうか。
世の子供を欲しがっているゲイカップルのことを考えるなら、ハルヒにそれを普通のことだと認識させるべきのような気もする。
しかしまあ、それによって、ここまで世話になった機関に迷惑をかけるのも悪いだろうと思って、余計な事は言わないでおいた。
俺は小さく笑いながら、
「本当に、この子がいてくれてよかった」
「……古泉くんによく似てるわね」
「だろ。髪の色も、性格も古泉そっくりだ。こいつ、普段は大人しいくせに、俺か有希のどちらかがいないと大泣きして大変なんだぞ」
「それって、古泉くんに似てるの?」
「普段は大人しくしてるくせに実は違うって辺りはそっくりだな」
「顔立ちはあんたに似てるのね」
「どうせならあいつに似ればよかったのにな。そうしたら美形間違いなしだった」
「そうかもね。ところで有希は?」
「長門は大学だ」
「そっか。学部が違うとよく分からないわね。やっぱり皆そろえるべきだったのかしら」
「無理言うなよ」
「冗談よ」
そう笑っていたハルヒだったが、
「…ねえ、キョン」
と不意に神妙な顔をして言った。
「今、困ったこととか苦しいこととかない? 辛いことは?」
「困ったこと、か」
俺は少し考え込み、
「胸がないから授乳が難しくて困ってるといえば困ってるんだが」
「…ばか。そういうんじゃないって分かってて言ってるんでしょ」
唇を尖らせたハルヒに、俺は苦笑しつつも真面目に答えた。
「そりゃあ、何もないって言えば嘘になるけど、耐えられないほどじゃない。長門もいるし、お前も朝比奈さんも心配してくれるし、それに――」
俺は一樹を抱きしめた。
「一樹がいる」
「…よかった」
そう笑って、ハルヒは立ち上がった。
「休学は一年だけの予定なのよね?」
「ああ」
「あんたが戻って来た時、あたしは先輩なんだから、精々言うことを聞くのよ?」
「分かってる」
「じゃ、あたしはもう帰るから」
そう言っていつも通りに振舞ってくれるハルヒに感謝しながら、俺はハルヒを送り出した。
そうしておいて、俺は玄関に置いてある、古泉と俺と長門で撮った唯一の写真を静かに見つめた。
俺も古泉も笑っていて、長門も心なしか嬉しそうだ。
幸せで堪らなかった頃。
不安なんて微塵も感じていなかった。
いつか生まれる子供のことを話して笑っていた。
今、子供は俺の腕の中にいるのに、古泉は側にいない。
悲しくて、苦しくて堪らない。
「……なのになんで、俺は泣けないんだろうな」
独り言のように、一樹にだけ聞かせるように、小さく呟いた。
「古泉を今も、愛してるのに」
もっと泣いたっていいはずなのに泣けないのは、義務感があったからだろうか。
一樹を産んで育てるという、使命感があったからだろうか。
それとも、別な理由でもあるんだろうか。
思えば、最後に泣いたのもいつだろうな。
生理的なものをのぞくと……。
「マジか」
思わず呟いたのは、それがもう随分と前の記憶だったからだ。
その時だって、側には古泉がいた。
「…ああ、そうか」
納得して、笑いがこぼれた。
「古泉がいないと、俺は泣くことも出来ないんだ」
それが何故か嬉しくて、笑いながら俺は目を閉じた。
古泉の姿をまぶたの裏に描いて懐かしむような日が来るとは思ってもみなかったのに。
一樹を抱きしめて、座り込んだ。
「ごめん、一樹、今だけ」
今だけでいいから、少し落ち込むのを許してくれ。
それから、お前の名前じゃなくて、お前のお父さんの名前を呼ぶことも。
長門が帰って来るまでには、いつもの俺に戻るから。
「…っ、一樹ぃ…」
涙はそれでも出なかった。


























































































































●<これで終りになんてさせません























目を覚ますと古泉の部屋にいた。
のろのろと起き上がり、寝室を出る。
自分が何を探しているのか分からないまま、辺りを見回しながら足を進めると、
「おはようございます。よく眠れましたか?」
と言われた。
ソファに座って新聞を読んでいた古泉に、俺は勢いよく抱きつく。
「っ、どうしたんです? あなたらしくもない」
「夢、を、見たんだ」
声が震えた。
声だけじゃない。
全身が震えて、どうしようもない。
涙もボロボロに零れて止めようもない。
みっともない顔を見せたくなくて、俺は古泉の肩へ、自分の顔を押し付けた。
「怖かっ、た…」
「……もう大丈夫ですよ」
優しく抱きしめられる。
落ち着かせるように、背中を撫でられた。
その体温が暖かくて、昨日も確かに触れ合っていたはずのそれが、数ヶ月ぶりのように懐かしくて、余計に涙が止まらなくなる。
「古泉っ、」
「はい?」
「愛してる…っ!」
「……」
虚を突かれたのか黙り込んだ古泉に、俺は繰り返す。
「愛してる、から、……お願い…、っ、だから…、俺より先に、先に、死なないでくれ…!」
一日でも一秒でもいい。
俺より先に逝かないでくれ。
頼むからもう、俺にあんな思いをさせないでくれ。
泣きながらそう訴えた俺に、古泉は優しい笑顔で約束してくれた。
「約束します。何があっても、あなたを――あなたと長門さんと、それからまだ会えない子供を残して死んだりしません」
「約束、っく、だから、な…」
「はい。約束です」
それでもまだ俺の涙は止まらなくて、俺は目を真っ赤に泣き腫らすほど、泣き続けた。
本当にそんな約束を守れるとは思えない。
それでも、古泉がそう約束してくれたことが嬉しかった。
もし、あの夢が本当になったとしても、きっと大丈夫だ。
あの夢のように、支えてくれる人たちがいる以上、心配はない。
そう思える強さをくれたのも、間違いなく古泉なんだろう。
だが、もうあんな思いは絶対にしたくないと、心の底から思った。