不要な不安



閉鎖空間で戦うという役目のためもあり、僕は月に一度は健康診断を受けることを余儀なくされている。
SOS団での活動がある以上、軽々しく欠席して行くわけにもいかず、バイトと称して放課後や土日に行くことになるのだが、その結果として、ただでさえ少ない彼と過ごせる時間を削らなければならないのは、自分の体のためとは言ってもいくらか心苦しい。
これで彼に浮気を疑われたりした時は機関にもフォローしてもらいところだ。
そんなことを考えながら、病室で帰り支度をしていると、
「古泉」
森さんに呼ばれた。
「なんでしょうか。僕は早く帰って明日に備えたいのですが」
余計なことは言わなくていいからとっとと帰らせろ、と直接的に言ってもいいのだが、彼女の機嫌を損ねるのは涼宮さんや彼の機嫌を損ねるのと同様、僕にとって好ましくない状況だからやめておいた。
「あなたの診断結果が出たわ」
「随分と早いですね。急がせる理由でもありましたか?」
「自分でも、分かっているんでしょう?」
「さて……なんのことでしょうね」
そう尋ねたのは、彼女の意図するところを掴みかねていたからだ。
思い当たる節がいくつかある、というのもあった。
しかし、彼女がわざわざこんなことを言い、しかも健康診断絡みとくると、やっぱりあの件だろうか。
「何人ものメンバーが、あなたの能力に異常が生じていると報告があったわ。あなたも、自覚はあるでしょう?」
「そうですね」
異常、と表現するべきかどうかは分からないが、変化が生じていることは間違いないと言っていいのだろう。
このところ、閉鎖空間において僕の出せる力が格段に上がっている。
これが仲間全員に現れた変化だというなら、神人が更に強くなるのではないかと言う不安は抱くものの、そう驚くべき状況ではなかったかもしれない。
しかし、変化があったのは僕にだけだ。
攻撃力も防御力も上がっているのか、怪我をすることもなくなってきているし、神人を倒すのにかかる時間も減っている。
それは僕にしてみればいい変化かもしれないが、やはり原因の分からない変化は不気味だ。
しかし、体に変化があったようには感じていないのだが。
「結果はどうでしたか?」
「異常はないわ。だからこそ心配なんだけれど……あなた自身は何か心当たりはないの?」
「心当たり、ですか」
それもまたあるようなないような。
「僕の能力に変調を来たすことが出来る存在がいるとしたら、それはおそらく涼宮さんの他はありえないでしょう。僕は彼女に何か働きかけたような記憶はありませんから分かりませんが、彼なら把握しているかもしれませんね」
「彼、ね…」
何を考えているのか、複雑な表情で森さんは呟いた。
僕はあえて作り笑いを見せながら、
「僕の方から彼に聞いてみましょう」
と強めの語調で言った。
少なくとも彼女の外見は魅力的な女性であり、彼が誘惑されないとも限りませんからね。
「…そう、お願いするわ。きちんと報告はするのよ」
「分かってます」
では、と僕は部屋を出た。
病院の白い廊下が目に痛い。
人前では強がって見せても、不安が消えていないわけではない。
自分がどうかなってしまうのではないかという恐怖はもうずっと――力を得てからずっと、抱き続けている。
いつか自分ではない何かに変わってしまうのではないかと考える時もある。
しかしそれを見せたところでどうもならないのであれば、かえって彼に心労をかけるのであれば、なんとしてでも隠し通したい。
僕はそう思っている。

俺が家を出ると、古泉がにこやかに立っていた。
お前の家はうちの近くじゃあなかったはずなんだが、一体そこで何をやってるんだお前は。
「少しくらいいいじゃありませんか。あなたに会いたい気分だったんです」
耳元で囁くな。
「つれないですね」
お前がおかしいんだ。
大体なんなんだ。
この間から、俺の知らないうちに家に上がりこんでお袋と談笑してたり、妹を手懐けたりして、お前は何がしたいんだ。
高校にいたらいたでわざわざ9組から来て飯に誘ったり、あまつさえ手を繋いで歩こうとしてはハルヒに冷やかされるなんて、最悪だろ。
それで売ってる芸能人とかならともかく、世間の認識においてはとりあえず一般人の位置にある俺やお前がそこまでオープンにする必要はないと思うが俺の認識に何か間違いはあるか?
「間違いはないと思いますが、足りない部分はありますね」
偉そうにいうならそれをちゃんと指摘してみろ。
いい加減なことを言ったら殴るぞ。
「あなたに殴られるのはあの一度きりで十分ですよ」
そう言った古泉はあのニヤケ面で、
「足りない部分というのはですね、あなたが言った中に我々の心情というものが一切入ってないということです。あなたはそんなにも世間体を気にする方でしたか?」
俺はほどほどに一般人でいたい人種だ。
「僕は世間体よりもあなたといることの方が大切なんです。それは、分かっていただけるでしょう?」
朝っぱらから恥ずかしい奴だ。
もう少し言葉を惜しんだらどうだ?
余りにも軽々しく話していると、必要なことも伝わらなくなるぞ。
「そうでしょうか。僕はもっとたくさん言いたいことがあるんですけどね。例えば、寝起きで不機嫌なあなたはそそりますよ、とか」
公道で盛るな、気色悪い。
「涼宮さんの機嫌を損ねないのでしたら、このままあなたを僕の部屋に連れ込んでしまいたいくらいなんですけど、そうもいきませんしね」
当たり前だ。
「それと比べたら、こうして一緒に登校するくらい、ずっといいでしょう?」
それはそうかもしれんが。
「ついでに手を繋がせてくれると嬉しいのですが、それは高望みでしょうし」
と古泉は寂しげに笑ってみせた。
それが策略だと分かっている。
分かってはいるんだが、……だめだ。
「お前なんか嫌いだ」
毒づきながら、俺は古泉の手を握った。
古泉の表情が柔らかく緩む。
締りがないと言ってやりたくもなるが、俺のせいだから黙っておこう。
「それで、」
と俺は尋ねる。
「何をそんなに心配してるんだ?」
古泉の表情が笑みのまま固まった。
これもこいつなりの驚きの表現なんだろうが、非常に間が抜けていて面白い。
嫌いじゃない表情の一つだな。
しかし、悩みだかなんだか分からないものを聞いてやるためだけに、どうして俺はわざわざお前の意表をつく方法を考えねばならんのだろうな。
「あなたの洞察力には本当に驚かされますね。どうして分かったんです?」
お前らしくない慎重さのない行動やなんかでな。
本当はもっと色々と気付いていることがあってそれを総合して判断しているんだろうが、それは俺にとってみれば特に考えてやっているわけではないので一々プロセスを説明することは出来ないから聞くな。
「まるでシャーロック・ホームズのようですね。あなたは涼宮さん専属のワトソン氏かと思っていましたが」
そんなことはどうでもいい。
何を悩んでるんだ?
「あなたの頭を煩わせるほどのことではないのですが、そう言ってもあなたは聞き出さずにはいてくれないのでしょうね」
当然だ。
「あなたを頼らずに答えを見つけられる自信はありませんでしたから、いつかは相談しようと思っていたのですが……いざ話すとなると難しいですね」
お前の分かり難い話には慣れてる。
いいからさっさと白状しろ。
「分かりました」
そう言って古泉は少し考え込んだ後、
「このところ、僕の体は変調を来たしているんです。体と言うべきか、また変調という言葉が適切であるのかは分かりませんが、とりあえずそう表現しておきます。具体的には、僕が閉鎖空間で発揮できる力、例の超能力が強まっているということです。それも僕だけ突出して」
なんだそりゃ。
それがどうして悩みになるんだ?
「分かりませんか? 原因も分からず、ただ異変だけが起こっているんです。この調子で力が強まった結果どうなるのか、僕には予想も出来ないのです」
と古泉は力なく笑い、
「覚えていますか。以前僕は、閉鎖空間を涼宮さんの精神に出来たニキビに、我々をその治療薬と表現しましたね。しかし、強すぎる治療薬というものは害にしかなり得ないものです。ニキビのみならず、全体に作用を及ぼし、結果として更に事態を悪化させかねない。そうなった時、普通の人間ならその治療薬を使うのをやめるでしょう。それと同じようなことになった時、僕がどうなるのか。僕はそれが不安なんです」
俺はまじまじと古泉の顔を見つめた。
別に観賞したかったわけじゃない。
ただ、本気で言っているのかと疑っているだけだ。
しかし、俺よりも頭がいいはずのこいつはどうやら本気でそんな馬鹿げたことを考えているらしい。
俺はあきれを隠しもせずにため息を吐くと、
「お前な、過小評価もいい加減にしないと嫌味だぞ」
「どういう意味でしょう」
お前を強くするようなものがいるとしたら、それはハルヒだけだろう。
それを分かった上で、お前は原因が分からないと言ったんだとも思う。
だが、俺にしてみればどうして原因が分からないんだと聞き返したくなった。
原因なんて考えるまでもない。
「ハルヒは、お前のことも結構気に入ってるんだよ」
「……よく分からないのですが」
なんでだよ。
「どうして涼宮さんが僕を気に入っていると、僕だけ強くなるんです」
人のことを鈍いだのなんだの言う割に、こいつも相当なものだな。
「薬がニキビに負けないように、薬を強くしてやったんだろ。負けてお払い箱になったら、SOS団の活動にも支障が出るだろうし、ハルヒも副団長の首をすげ替えるようなつもりはないらしいしな」
どうでもいいが、ニキビに喩えるのはスマートじゃないからもう少しマシな表現を考えてやったらどうだ。
「涼宮さんが僕にそこまで愛着を持ってくれますかね? 涼宮さんが僕に強くなることを望んだとしたらそれはむしろ、あなたのためなのではありませんか? 僕を失ったらあなたが悲しむと考えたと、そう考えた方が自然ではないかと思うのですが」
その辺の解釈はお前に任せる。
どちらにしろ、お前が強くなったとしても妙な心配は要らないだろうよ。
ハルヒだって、劇薬を作り出すようなつもりはないだろう。
「そう思うことにしましょう。あなたを信じて」
俺よりハルヒを信じてやれ。
「それにしても、」
と古泉は大仰に肩を竦めてみせた。
一体何の物真似だ。
「あなたと涼宮さんの繋がりの深さには、嫉妬を覚えずにはいられませんね」
繋がりの深さ、ねぇ?
胡散臭い響きだ。
確かに俺はハルヒをそこそこ信頼しているし、あいつも俺を信じてくれているようだが、それをもって繋がりと言えるのかは俺にはよく分からん。
ただ、あいつなら絶対にやらないということがいくらか分かるだけだ。
あいつがこれからやらかそうとする騒動を少しは見抜ければ、もうちっと楽なんだろうがな。
それより、と俺は軽く唇を尖らせながら言った。
「お前のことを認めてて、かつ守ろうとするハルヒはムカつくな」
「……それって、妬いてるってことですか?」
悪いか?
俺にはお前が閉鎖空間に行くことを止めることも出来なければ、何かあった時にお前を助けることも出来ないんだぞ。
ハルヒが団長としてでも神としてでも駄々を捏ねればお前は閉鎖空間に行かないだろうし、ハルヒには、お前に何か起こらないように出来る力もある。
そんな風に、俺には干渉出来ないところに干渉できるあいつが、今心底羨ましいね。
そう吐き捨てると、抱きしめられた。
「往来で抱きつくな、変態」
「……っ愛してます。愛してます!」
叫ぶな繰り返すな鬱陶しい。
まあなんにせよ、お前の不安も心配も無用の長物っつうことだ。
「分かりました。ところで、学校サボりませんか」
そこは目を輝かせて言うところじゃないだろ。
バカ言ってないでさっさと行くぞ。
「残念です」
と古泉がやっと手を離した。
少し足を速めた俺に速度を合わせながら、古泉が言った。
「今度、ご両親にご挨拶に伺ってもいいですか?」
挨拶?
既に家で夕食食っていったりしてる奴が今更何言ってるんだ。
「いえ、そういう意味ではなくてですね、あなたと結婚を前提にお付き合いさせていただいてますと」
「殴るぞ」
何が悲しくて親にそんなことを告げねばならんのだ。
下手すりゃ正気を疑われて、黄色い救急車を呼ばれるぞ。
「でも、あなたのお腹に僕の子供がいる以上、責任は取るべきでしょう」
子供を持ち出してくるな。
それとこれとは話が別だ。
「どう別なんです?」
責任を取るというのは正しいだろう。
だが、そんなことはこんな公道のど真ん中で口出すことじゃないし、そもそも何の予告もなしに高校生の分際で親にそんなどっきりは仕掛けたくない。
「本当のことでもどっきりって言うんですか?」
うるさい。
「涼宮さんに認められた以上、ご両親どころか世間にも堂々と言っていいと思うんですけど?」
「やめろ」
こいつは本当にやりかねん。
「じゃあ、いつならいいんです?」
せっかく距離を取ったのにまたそれを詰めながら古泉が問い、俺は諦めのため息と共に答えた。
「子供が産める状況になったらな」
それがいつ来るんだか、俺には全然分からないが、古泉はとりあえず納得したらしい。
「待ちますよ」
そう小さく笑って、古泉は俺の手を取り、
「その分、もう少し一緒にいられる時間を取らせてくださいね」
何がどうその分なんだ。
というか、約束をダメにする確率が高いのは俺じゃなくてお前の方なんだが?
「寂しく思っていてくださったんですね。嬉しいです」
そうじゃない。
お前に一方的に要求を突きつけられるのが気に食わないだけだ。
「そんなに照れなくてもいいんですよ?」
だから擦り寄ってくるんじゃない。
「少しくらいいいじゃないですか」
「っ調子に乗るな!」
思わず怒鳴ったのは、かえってまずかったのではないだろうか。
集まった視線が痛かった……。