このところ、体の調子が悪い。 匂いが強い物や脂っこい物を食べるとすぐに吐き気がして戻してしまうし、些細な事でイライラすることもある。 突然下っ腹が痛くなったりすることもあったな。 そのくせ食欲だけはあって、この調子で食ってたらそう遠くないうちにかなりの変貌を遂げてしまう気がする。 理由が分からないのもさることながら、この奇妙な違和感にどことなく覚えがあるのも、おかしなことだ。 その日もせっかく食べた昼飯を全て戻してしまった俺は、放課後長門に相談することに決めた。 これがハルヒ絡みでないことを祈りながら部室に入った俺は、珍しいものを見て言葉を失った。 いつもならとにかく厚物を読んでいるはずの長門が、ただの漫画を読んでいたのだ。 それも、少女マンガらしい。 どことなく年季が入っている気がするのだが、一体いつのものだろう。 「珍しいな」 俺が言うと、すでに指定席に座っていた古泉が頷いた。 「そうですね。何か理由があってのことなのでしょうが…」 ただ単に読みたくて読んでいるのかも知れないぞ。 「どうでしょうか」 さあな、と俺は古泉から目を離し、長門に言った。 「長門、悪いがちょっと話を聞いてもらえないか?」 「……いい」 「すまん」 俺はここ三日ばかり体調が優れないということなどを簡単に説明した。 長門はそんなことくらい知っていたかもしれないが、一応自分の口で説明するべきだと思ったのだ。 すると長門は今の今まで読んでいた少女マンガを俺に向かって突き出すと、 「読んで」 とわざわざページを広げて指定した。 何なんだ、と思いつつも長門の行動が無意味であるとは思えなかった俺は、大人しくそれを受け取り、ページを捲った。 そう長くない、短編のストーリーはしかし、驚くべきものだった。 俺の状況に嫌なくらい合致し、かつ、この先に不安を抱かせずにはいられないような内容。 「…長門、どういうことなんだ?」 思わず青褪めた俺の手から古泉が漫画を取り上げたが、そんなものに構ってもいられない。 長門はいつものように静かに答えてくれた。 「涼宮ハルヒはその作品の愛読者。あなたと彼の関係を知り、その作品のようになればいいと願った。だからあなたは、ニ…」 皆まで言うな!! ハルヒは常識というものがないのだろうか。 いや、ないだろうとは思っていた。 それにしたってここまでとは思ってもみなかった。 ここで古泉の責任を問うことは可能なんだろうか。 追及したところでどうしようもないことは分かっている。 だが、それでも、思いっきり怒鳴ってやりたい気分になる。 俺だって確かに経済的なことやなんかを加味して賛成してしまったが、それにしたってこれはない。 ないったらない! 頭を抱えてのた打ち回ってやりたくなっている俺の横で、古泉が手にしていたマンガを落とした。 「これは……本当なんですか、長門さん」 心なしか震える声で古泉が長門に尋ねた。 流石の古泉も動揺しているらしい。 いい気味だ。 「そう」 「…あなたが言うなら、間違いはないのでしょうね。しかし、これは……」 古泉はどんな顔をしているんだろうか、と思いながら俺は古泉の顔をのぞき込んだ。 俺の予想としては驚き、あるいは信じられないとばかりに青くなっているといったところなんだが。 「――古泉?」 なんだそのこれまでに見たこともないようなイイ笑顔は。 目の辺りなんかもうキラキラしてんだかギラギラしてんだか分からんぞ。 「結婚式は人前式でいいですか!」 「俺に向かっての第一声がそれか!!」 こいつ馬鹿だとは思ってたが、ここまで馬鹿だったのか。 それとも驚きの余り錯乱してるのか? 「僕はちゃんと正気です。それに、他に何を言えっていうんですか。僕なりにちゃんと責任を取ろうと思ってのことなんですよ? 決して不真面目で言っているのではありません」 「そういう問題じゃない」 「やっぱり、あなたとヤるたびに念じていたのがよかったのでしょうか。涼宮さんにお供え物を用意したら受け取ってもらえるでしょうかねぇ?」 「やめろ、気色悪い」 というか、念じていたって何だ。 ナチュラルに長門の前で「やる」とか言うな。 どこから突っ込めばいいんだ畜生。 俺がストレスを溜め込んでいる間に、古泉は俺を抱き竦め、満面の笑みを浮かべて言った。 「愛してます。体を大事にして、元気な子を産んでくださいね」 「……っ、くたばれ!!」 なんだってこいつはこうも順応力が高いんだ。 俺も大概だとは思っていたが、こいつはありえないくらい適応が早かった。 いくら日頃から非常識な出来事に巻き込まれていたとしても、普通、こんなにあっさり信じないだろ。 この俺が、男の俺が、古泉の子供を妊娠したなんて! 思わず机に突っ伏した俺だったが、 「あなたが選ぶ道は三つある」 ――長門は、俺の混乱が収束するのを待ってもくれなかった。 力なく顔を上げて、俺は長門を見る。 「三つ?」 「より正確に言うならば、四つかもしれない。しかし、四つ目は難しい」 「……なんだか分からんが言ってみてくれ」 「難易度の低い物から説明する。一つ目は、今の段階でそれを消し去ること。やるべきことは最も少なくて済む」 言ってみたら中絶みたいなものか? だが、俺は…、 「あなたならまずその選択はしないということは分かっている。でも、これも一つの選択肢」 ……二つ目は? 「情報のみを他の有機生命体の胎内に移すこと。代理母となり得る個体を探すためにいくらか時間を要するけれど、あなたの精神にも身体にも、影響は最も少ない。私はこれを推奨する」 しかし、情報のみを移すってのはどういうことなんだ? 「……有機生命体がしばしば魂と表現する、遺伝子に配列されない情報を移植すること」 分かるような分からんような説明だ。 代理母を探すのに時間がかかるってのはどういうことだ? 「条件がある。まず、その女性が流産する可能性が高いこ…」 「却下!」 それはつまりあれだろ、流産しかかったところにこの子の魂を入れるってことだろ。 母親やなんかはその方がいいかもしれないが、死んだことさえなかったことになる子はどうなる。 二つ目は却下だ。 もう一つは? 「成長しないよう、時間を凍結させておいて、あなたに子供を産む余裕が出来てから、凍結を解除する。ただ、体内での時間凍結はあなたの身体への負担が大きい上、それまでに私に何かあった場合、凍結を解除出来なくなる。だから、あまり推奨したくない」 最後の一つは? 「このままの状態に任せ、子供を産むこと」 …そりゃあ、確かにきついな。 「だから、実際にあなたが選ぶとしたら他の三つだと考えた。……どれ?」 いきなり聞かれても困るな。 俺一人の問題じゃないし…。 と目を向けた先が自分の足元というのも妙な話だが、そこに古泉がいるんだから仕方がない。 腹の子の心音か動きでも聞きたいと言うのか、古泉は俺の腹に耳を押し当てていた。 そんなことをしても聞こえるとは思えないんだが? 「残念ですね。しかし、男性が自然妊娠すると、一体どこが子宮の代わりになるのでしょうね」 ハルヒのおかしな力によるものを自然妊娠といえるのかどうかはともかく、そんなことを探求する余裕があるなら、お前も考えろ。 「そうですね」 考え込むようなポーズをとった古泉は、すぐさま答えた。 「とりあえず、一つ目と二つ目は却下です」 いきなりだな。 「我等が神の恵みを捨てるようなことは出来ませんよ。結果として、あなたに負担を掛けてしまいますが、どんなことをしてでも、あなたとお腹の子供は守りますから、お願いします」 話しているうちに、古泉の顔からは笑いが消え、滅多に見ないほど真剣な表情になっていた。 「…まあ、俺としてもその二つは嫌だったから、構わないが……」 そうなると、残り二つか。 どうしたらいいんだろうな。 考え込みながら腹に触れても、そこはいつもと変わらない。 膨らみもしていなければ、違和感さえない。 本当にここに俺とは別個の命が宿っているのかと疑問に思うほど。 だが、否定しまうには俺は長門を信用しているし、ハルヒの力に関してもそのとんでもなさを思い知っている。 認めるしかないんだろう。 ため息を吐いたところで、俺は長門に聞いてみた。 「このままだと、いつ産むことになるんだ?」 「27日後」 ありえないくらい近いな。 悩んでるうちに育っちまいそうだ。 「そう。だから、結論は急いだ方がいい」 「…長門、凍結させることによって俺にかかる負担っていうのはどれくらいのものなんだ?」 「あなたの体の中でいくらかのスペースを取るため、体内の臓器などに負担がかかる。ただ、今ならまだ大きな影響はない。危険なのは、あなたが怪我を負ったり病気になったりした場合。何も知らない医師が切開など行うと母子共に危険にさらされる」 「それなら、」 と口にしたのは古泉だった。 「機関の関係先に事情を説明しておいてはいかがでしょう。そうしておけば、出産の際にも余計な手間が省けるはずです」 「大丈夫なのか?」 俺はほんの少し前に機関と大騒動やらかしたんだが? 「大丈夫ですよ。あなたが涼宮さんに僕とのことを告げても何事もなかったと報告して以来、僕たちのことも認められています」 報告済みかよ。 プライバシーの権利はどこに行ったんだ。 「最低限のことしか伝えていませんから、安心してください」 そんなことで安心出来るか。 それより、決めていいんだな? 「あなたこそ、もう決まっているんでしょう?」 したり顔で言うな、と古泉の頭を軽く叩いてから、俺は長門に向き直った。 「長門、俺がこの子を産めるようになるまで、時間を止めてやってくれ」 「……分かった」 「お前に何かあったら、この子はもう生まれてくることが出来なくなるんだろう?」 俺の問いに、長門は無表情に頷く。 それへ、俺はあえて笑いかけながら、 「じゃあ、お前は何があっても無事でいてくれ。お前の弟か妹のためにも」 「……弟か、妹?」 長門が小首を傾げる。 古泉がやっても可愛くない仕草だが、長門がやるとやっぱり違うな。 「俺は長門の『お母さん』なんだろ? それなら、この子はお前の弟か妹だ」 どちらかはまだ言うなよ。 そういうのは生まれるまで楽しみにしておくものだからな。 俺の言葉に古泉も頷き、 「僕たちは家族なんでしょう?」 長門はその目の中に微妙な感情の揺らぎを感じさせながら立ち上がり、俺の前に立った。 一度古泉の方へ向けたその目の中に、俺が映り込む。 「約束、する」 「そうしてくれ」 こくりと長門は、長門にしてははっきりと頷いてくれた。 それだけでもう安心だと思える。 「処置をする」 長門の手が俺の腹へ触れたかと思うとすぐに離れた。 「…終った」 意外とあっさりしてるもんだな。 「…お母さん」 どうした? そう言や、今日はまだそう呼ばれてなかったな。 「……大好き」 長門はそう言って俺に抱きついてきた。 こいつなりに、遠慮していたんだろうか。 俺と古泉に子供が出来たら、自分が子供扱いされなくなるとでも思ったのかもしれない。 そんな心配は不要以上のなんでもないのにな。 ぽんぽんと長門の背中を撫でてやりながら古泉へ目を向けると、古泉も微笑ましげに目を細めていた。 少しして体を起こした長門が今度は古泉へ抱きつき、同じように、 「お父さんも、大好き」 と言った時は驚かされたが、これでいいんだと思った。 ……ああ、それにしても、ただの普通人だったはずの俺も、どんどん特殊に分類されるようになってきちまったなぁ。 嬉しいのか嘆かわしいのか分からない気持ちで息を吐くと、可愛い娘と可愛くない古泉が、揃って首を傾げながら俺の方を見つめ、思わず吹き出した。 |