娘へ



「あら、珍しいねえ」
と、唐突に声を掛けられ、驚いた俺が見ると、そこにはこのスーパーのパートらしいおばさんが立っていた。
視線の先にいるのは長門だ。
「ご兄弟?」
問われても長門は答えない。
代わりに俺が、
「いえ、友人です」
と答えるとおばさんは笑いながら、
「そうだよねえ。初めて見たからね。今日は、」
とおばさんは古泉が持っているカゴの中へざっと目を走らせ、
「お惣菜じゃないんだね。いつもお惣菜かレトルトしか買っていかないから気になってたんだよ」
「ああ、やっぱりそうだったんですか」
長門に夕食をご馳走になった時も思ったが、こいつは溢れんばかりの知識を自分の生活向上に用いようとしないのか。
だからこそ放っておけないと言えばその通りなのだが、いくら何でも酷すぎるだろう。
あの胸糞悪い朝倉でさえ、少なくとも改変された世界では料理をしていたというのに、なんだって長門にはこうサービスが足りないんだ。
ハイスペックのパソコンに表計算ソフトと文書作成ソフトしか入れてないような状態で放っておくな。
最近のパソコンだったらスペックの高くないノートパソコンでも、不要な家計簿ソフトだのよく分からんゲームだのがこれでもかとばかりに入ってるぞ。
「長門」
おばさんが離れていってから、俺は言う。
「俺が教えてやるから料理を覚えろ」
「……そう」
間があったが、これは長門に関してはいつものことだから気にしないことにする。
それより気になるのは、俺の視界の隅で、カゴを持ったまま器用に肩を竦めている野郎だ。
「何か言いたそうだな、古泉」
「いいえ、何も」
「嘘つけ」
「さして申し上げることがあるとすれば、」
と古泉は苦笑を浮かべ、
「いいお母さんになれますよ、ということくらいのものです」
よし、歯を食いしばれ。
「別に、あなたにそう思ったとは言っていないでしょう? あなたから料理を教わったならきっと長門さんもいいお母さんになれるだろうと言うことですよ」
どこまで本気か分からん。
とりあえず前半は誤魔化しだろうが。
しかし――ここは嘆いておくべきかもしれないが――長門に「母になれる」という言葉が恐ろしく似合わないのはどうしたことだ。
それで言ったらハルヒも朝比奈さんも、それからついでにうちの妹にもそう思うのだが、それはやっぱり俺がガキだからだろうか。
そうじゃなかったら長門もハルヒも妹も――申し訳ないが朝比奈さんも――まだ子供らしいところが多いからなのだろう。
子供らしいというのは悪いことではないと思う。
だが、成長も必要だろう。
幸い今日は俺も古泉もいるんだ。
多少買いすぎたところで構わないだろう。
問題は荷物持ちではなく、予算だが……。
「長門、買いすぎだと思ったらストップかけてくれ」
「…そう」
しかし、長門には潤沢な資金があったらしい。
俺は途中でカゴをひとつ追加し、しかも山盛りにしたが、長門が支払いでまごつくことはなかった。
「なかなか重いですね。若干恣意的な物を感じるのは僕の被害妄想でしょうか」
被害妄想でも気のせいでもない。
お前の袋には重い物を中心にしっかり詰めてやったからな。
言っておくが、俺のも決して軽くはないぞ。
長門のだけは軽いが。
「そうでしょうね」
諦めたように古泉は呟き、重いと文句を言っていた荷物を軽く提げて歩きだした。
一瞬、俺の分も持たせてやろうかと思うくらい、余裕の表情で。

大荷物を抱えて到着した長門の部屋で、一息入れる間もなく、俺は冷蔵庫に大量の食材を放り込む。
割と大きめの冷蔵庫なのだが、残念ながらほとんど空に近かった。
どこかの誰かの部屋の冷蔵庫を彷彿とさせるな。
その誰かはキッチンにそれ以上のスペースもないので、大人しく座らせておいた。
こいつの家事能力がほとんど役に立たないことは経験上よく知ってるからな。
俺はとりあえず、カレーの作り方から教えることにした。
レトルト缶のカレーでさえあれだけ食べてたんだ。
嫌いなはずはないだろう。
それに、カレーなら大量に作っても一週間は持つだろうし。
教える俺にとって有難かったのは、長門には一度言えば十分だということだ。
しいて何度も言う必要もなく、言ったことを理解し、実行してくれる。
そう言うと、プログラムで動くロボットのようにも思えるが、ロボットと違い、長門なりのアルゴリズムに従ってかどうかは分からないが、とにかくある程度の融通を利かせてくれるのもよかった。
野菜を切る時に俺の頭をよぎったのは、本当に正確に同じ大きさに切ろうとするのではないかと言うことだったが、長門は無理にそうしようとはせず、つまりは極自然にしていた。
考えてみれば、キャベツの千切りとかなら以前からやっているんだから、出来ないはずはないんだよな。
…それでどうして料理の本でも見ながら作ってみようと思わないのかが不思議で堪らないんだが。
俺が問うと、長門は簡潔に答えた。
「…面倒」
……簡潔でありながら溢れんばかりの人間らしさに喜ぶべきなのか慨嘆すべきなのか。
「いいか長門」
玉ねぎを炒めながら俺は言う。
「食事ってのは生活の基本だ。放棄すべきところじゃない。手を抜くなとまでは言わないが、健康のためにも生活に潤いを持たせるためにも、そこそこ力を入れるべきだ」
「…分かった」
しかし、長門はある意味古泉よりマシだ。
何しろ古泉の部屋には炊飯器すらないからな。
やっぱり買わせるべきだろうか。
カレーを寝かせるためにルーを入れていない状態で鍋の火を止め、俺は更に作業に取りかかる。
カレーを作る時に多めに切っておいたジャガイモやにんじん、玉ねぎを肉と一緒に炒め、オムレツを作れば今夜の食事の完成だ。
ついでとばかりにポテトサラダも作って添える。
「これはまた随分と頑張りましたね」
古泉が嬉しそうに笑いながら皿を食卓へ運ぶ。
テーブルセッティングはひとり暇にさせていたこいつに任せたのだが、思ったよりもセンスがいい。
長門の無味乾燥な部屋に、味も素っ気もない食器類を使っていながらも、ちゃんとした食卓を演出していた。
こいつはどうしてこうなんでも出来るんだろうな。
「そんな自覚はないんですが」
と苦笑する古泉ははっきり言って嫌味以外の何物でもない。
「もしそうだとしたら僕は器用貧乏というやつですね。もっと上手くやりたいと思うようなことは全くもって不得意ですし、器用に出来るからといって得をしたような記憶もほとんどありませんから」
ああそうかい。
古泉へ気のない返事を寄越して俺は長門を隣りの席へ呼ぶ。
そうして三人食卓へつき、そろって手を合わせて、食事を始める。
なんとなく、こうやってると自分や古泉がマイノリティーだってことも忘れそうになるな。
長門は黙々と、だが楽しそうにオムレツを食べているし、古泉も俺の耳を素通りして行くに過ぎないと分かっているくせに褒め言葉を口にしている。
少なくともここでは、この三人しかいない場所では、俺は古泉とのことをはばからなくてもいい。
そのことがなんとなく嬉しい。
それにやっぱり、俺はこの二人と一緒にいるのが気持ちいいのだ。
この穏やかさは、騒々しい俺の生活の中でかなり貴重なものだと思う。
なんて、思っているうちに、長門の皿は空になった。
「相変わらずよく食べるな」
思わず笑みを零しながら言うと、長門は俺を見上げ、
「…だめ?」
「いいことに決まってるだろ」
でも、と口を開いたのは古泉だった。
「さっきのあなたの発言はちょっと不用意ですよ。長門さんも妙齢の女性なんですから、もう少し気を使ってあげてもいいのでは?」
「そうだな。そうかもしれん。…悪い、長門」
「…いい」
しかし、と俺は言った。
古泉が長門の肩を持つとは思わなかったな。
「そうですか?」
ああ。
「僕としても、娘は可愛いんですよ」
ね? と古泉は長門に微笑みかけ、長門は黙って目を逸らした。
古泉は困ったように、それでも楽しそうに肩を竦めた。
「僕はまだまだあなたのようにはいかないようですけどね」
いや、そうでもないぞ。
「え?」
「長門は照れてるだけだからな。な?」
長門は目を逸らしたまま動きもしない。
だが、それで十分だった。
古泉と俺は揃って小さく笑いながら、可愛い娘を見つめていた。

食事の後、俺は長門と共に再び調理に取りかかる。
買って来たもののうち、加熱調理して冷凍してしまえるものをまとめてやっつけておこうというわけだ。
途中からは単純作業になったので俺だけでやったが、長門はぽつぽつとだが古泉と話しているようだった。
小さく聞こえてくる会話の内容は、空間がどうの力学がどうのといった感じのもので、俺にはほとんど理解出来なかったが、二人が楽しそうにしていることだけはよく分かった。
「お父さん」
と長門が古泉を呼び、古泉は楽しげに、
「なんでしょう」
と応じる。
それだけのことさえ嬉しいと思える。
「お母さんのどこが好き?」
……。
ちょっと待て長門。
お前、さっきまでもっと別の話をしてなかったか?
なんでそうなるんだ。
「そうですねぇ…」
古泉も、にやにやしながらこっちを見るな。
気色悪い。
セクハラまがいの答えをしてみろ、問答無用で叩きだしてやるからな。
しかし、古泉が口にしたのは、俺が思ってもみないような答えだった。
「全般的に好きですが、特に好きなところは、一緒にいるだけで落ち着けるところでしょうか」
俺といて落ち着けるだと?
本当にそう思っているのか?
「嘘じゃありませんよ。あなたといることで、どれだけ僕の精神が救われているか、あなたにはきっと解ってもらえないのでしょうけれどね」
それにしては、会うたびにやることが決まってる気がするんだが、とこれは口に出さなかったのに、古泉には分かったらしい。
ちょっとウィンクを寄越し、
「僕の普段の言動では信じていただけないかもしれませんけど、僕も若い男ですからとでも答えれば、あなたにはちゃんと通じますよね?」
「…勝手に言ってろよ、バカ」
毒づいて背を向けたのは、にやけそうになる口元を隠すためだ。
洗い物を済ませて、それぞれで風呂に入って、寝る支度をした。
そうしていよいよ寝るぞ、という段になって、長門が口を開いた。
「お父さんとお母さんと一緒に寝たい」
俺と古泉は、俺と朝比奈さんが三年ばかり寝かされた客間に布団を敷いて寝ようとしていたのだが、思わず顔を見合わせた。
長門は生まれてから四年も経っていないらしいが、外見的にも公的にも俺たちと同い年の少女だ。
その長門の家に俺たちが泊まるというのもどうかと思うのに、一緒の布団で寝るってのはアリなのか?
しかし、長門の希望は出来るだけ叶えてやりたい。
どうしたものか…と古泉に目で問うと、古泉はいつものように笑った。
「いいですよ。布団をもう一枚敷きましょうか」
いいのか?
「娘がそう言ってくれるなんて、そうないことだと思いますよ?」
それはそうかもしれないが、知ったような顔で言うな。
「それともなんですか? 僕が一緒にいるのに長門さんに何かするつもりなんですか?」
そんなわけあるか。
俺たちがくだらないことを言っている間に長門は押入れからもう一組布団を取り出し、床に述べた。
それからちゃっかりと真ん中の布団に入り、
「川の字…」
と呟くように言った。
「長門……もしかして、やってみたかったのはそれか?」
かくん、と長門が頷く。
長門が泊まりにこいと主張した理由が分かり、俺はいくらか脱力した。
まあ、これくらいなら可愛いもんだ。
俺は苦笑しながら布団に入り、古泉が電気を消した。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
「…おやすみ」
どれが誰のかなんて注釈はしないが、とにかく俺たちはそれっきり静かに眠った。
その夜、夢の中でやたらと平和な家庭生活を見たような気もするが、目を覚まして五分で忘れた。
大事なのは長門が満足したということだけだから、それでいいのだろう。