母子



「お母さん」
いつもなら延々本を読んでいるばかりで、俺がきても何のリアクションもよこさないはずの長門が嬉しそうにそう言ってきた。
部室にはまだ朝比奈さんもきていないらしい。
だから、長門は約束を守っていることになる。
なるのだが……やっぱり、勘弁願いたい。
「長門…お前、それでいいのか?」
思わず尋ねると、長門は首を傾げただけだった。
俺を母親呼ばわりで本当にいいのかと聞きたかったんだが。
「それがいい」
……そうか。
そう言われてしまえばそれ以上俺に言えることがあるはずもなく、俺は諦めて、指定席と化しているパイプ椅子に腰を下ろした。
「お母さん」
長門は本を椅子の上に置いて、俺の背後にすすっと寄ってきた。
「どうした?」
「肩を揉む」
そう言うなり、俺の肩に長門のひやりとした手が置かれる。
長門はマッサージの仕方まで知っているのだろうか。
やけに手慣れた感じで俺の肩を揉み始める。
「気持ちいい?」
ああ。
「…そう」
だが、いきなりなんなんだ?
俺が長門に何かしたか?
特に変わったことはしていないはずだ。
考えている間に、長門の手が止まった。
「今日はここまで」
「待て長門」
椅子に戻ろうとした長門を呼びとめ、尋ねた。
「なんでいきなり肩揉みしてくれたんだ?」
「…お母さんだから」
……分かるような分からないようなことを言って、長門は席に戻った。
それからすぐにドアが開き、朝比奈さんが入ってきた。
着替えの邪魔にならないように部屋を出て行きながら、
「長門、ありがとうな」
「…どういたしまして」
閉めたドアの向こうで、朝比奈さんが不思議そうな声を上げているのが聞こえた。

多分、長門も寂しいのだ。
極端に物のない部屋でひとり過ごし続けてきたことが。
余りにも無感情に創られたために、感情を獲得し始めてやっとそれを知ったのかも知れない。
だから、寂しさを埋めるために家族を欲しているのだろうか。
しかし、それならどうして俺のことだけを「お母さん」と呼び、古泉のことはスルーしているんだろうか。
家族だと思いたいならあれも「お父さん」と呼ぶのが普通ではないだろうか。
決して嬉しくはないが、そう思う。
「眉間に皺を寄せて、何を考えているんです?」
いきなり声を掛けてくるな。
耳に息を吹きかけるな。
気色悪い。
「酷いですね。それで…何を考えてらしたんです?」
長門のことだ。
「長門さんのこと…ですか」
そう言って古泉は困り顔をつくって顎に指先を当てて見せた。
お前も何か思うところでもあるのか?
「いえ、少々妬けるように思いまして」
お前は何を考えているんだ。
全く、出来のいい頭ならもう少しうまく使ったらどうだ?
「考えれば考えるほど、悪い方にいってしまう時もあるものですよ。例えば……あなたと長門さんの間に恋愛感情が芽生えてしまわないかと心配してしまったりね」
いつものことながら、つまらないことを考えるのは得意だな。
「つまらないことでしょうか」
違うか?
「あなたがそう仰るのなら、そうなのでしょう」
そう笑って、古泉は俺の耳元に口を寄せた。
「愛してますよ」
恥ずかしい奴だ。
「ところで古泉」
「はい?」
「今度の土曜に会う約束してたよな。あれ、なしにする」
「……は?」
「長門が寂しいらしいから、行って料理でもしてくる」
「それはないんじゃないですか…」
見るからにがっくりしている古泉が面白い。
「まあ、お前との約束はまたな」
俺は笑いながら古泉の背中を叩いて、着替えが終ったらしい部室内に戻る。
長門がどんな顔をするかと想像しながら、俺は長門に掛ける言葉を考えた。