狂っているのかと思うほど落ち着いた



このところ、帰るのが遅くなっている。
なんだかんだと言い訳をして、ハルヒや長門たちよりも遅くまで残っているからだ。
言い訳に使ったはずのチェスやモノポリーや将棋は、少しすると放り出して、どちらが優勢だったかも忘れてしまう。
机越しに、あるいは抱きしめられながら、数えることを放棄してしまうほど重ねられた唇が重なる。
昨日の放課後に別れてから今まで、カモフラージュのためとはいえ、邪険にした詫びをするように、俺からも口付ける。
無理矢理とか流されてとかいうならまだしも、自分から求めている現状では言い訳のしようもない。
恋と呼ばれる奇妙な病気の一種による熱に、俺はすっかり浮かされているらしい。
その熱をもっと高くさせたいかのように、古泉の舌が俺を煽る。
たまりかねて漏れる声は、高熱を出した時に無意識に漏らす声とよく似ていた。
いつまで続けられるか分からない、薄氷を踏むが如く不確実な関係。
だからこそ、こうも夢中になっているのかもしれない。
何しろ、これが誰かにばれるだけならまだしも、それがハルヒの耳に入った時、世界が変わってしまうかもしれないのだ。
俺ではなく、ハルヒの思うままになる俺のいる世界に。
あるいは、古泉の存在しない世界に。
それはある意味、死よりも残酷で、辛いことだ。
存在さえもなくなることは。
だから、絶対に誰にも言えない。
終りも見えない。
ただ一時の夢のように、酷く不確かな時を、少しでも確かなものにしたくて、俺たちはもがいていた。
人気がないとはいえ、校内であれこれとことに及ぶことは流石にはばかられて、俺たちはキスとハグばかり繰り返していた。
それで満足しているか問われれば、とりあえずイエスと答えただろう。
大概の人間は、痛いのは嫌だと思うものだ。
しかし、痛いと思われることをするということさえ、考えの中に入れてしまっているだけ、俺は重症のようだった。
いつか、満足出来なくなる。
痛みさえ恐ろしくなくなる日が来る。
自分の感情も、この関係も、何もかもが不確かな中、それだけは妙にくっきりと浮き上がって見えた。
俺と古泉、どちらが先に根負けするかと思っていた矢先、古泉が言った。
「明日……うちに泊まりに来ませんか」
妙に弱気な声だった。
俺を好きだと言った時は自信過剰なんじゃないかと思うくらい強気だったくせに、そういう時は弱気になるのか。
「意地の悪いことを言わないでくださいよ。勇気を振り絞って言ったのに」
変なところで女々しいやつだな。
そう思いながら、俺は笑って答えた。
「明日、いつ、どこに行けばいい?」
古泉の顔がぱっと輝いた。
同時に、俺のことを強く抱きしめてくる。
犬の尻尾か耳でも生えてるんじゃないか、お前。
「昼頃に、駅前で会いましょう。それから僕の家へ」
分かった。
だから落ち着け。
制服が皺になったらどうするんだ。
しかし古泉は俺の苦情など聞こえない様子で俺のことを強く抱きしめ続けた。

翌日、俺は待ち合わせの時間より一時間以上早く駅に着いた。
古泉の性格と、「不思議探し」の時にさっさと着いていることを考えると、早めに行っても待たされることはないだろうと思ったのだ。
しかし、意外にも古泉はなかなか現れなかった。
どうかしたのかと考えているうちに、時間が経ち、待ち合わせの時刻が来た。
何かあったのか、と本気で考えた時、
「すみません!」
いつもと違って慌てふためいた声がした。
寝癖だろうか、珍しく乱れた頭で古泉が現れた。
「寝てたのか?」
「すみません。ちょっと横になるだけのつもりだったのですが…」
気にするな。
いつもは俺が待たせてるんだしな。
言い訳をしようとした古泉を制して、俺は笑った。
「すみません…」
おかしいくらいしょげかえった古泉を見て、フォローを間違ったかとも思ったが、こんな目立つところで痴話喧嘩をやらかすわけにもいかないだろう。
問い詰めるのはここでなくても出来る。
俺は軽く古泉の背中を叩いて、古泉を促した。
古泉は奇妙に引きつれた笑いを見せながら、
「そうでしたね。早く行きましょう」
と歩きだした。
俺は自転車を押しながら、古泉について行った。
古泉が歩いてきたことで分かってはいたが、古泉の住むマンションは駅から随分近かった。
とりあえず、いつもいつもハルヒや俺よりも先に到着しているのが分かるくらいには。
やけに立派で新しいマンションは長門の住んでいるそれとは別のだったが、なんとなく雰囲気が似ていた。
セキュリティが厳しそうなところも、どこか人間関係が希薄そうなところも。
古泉の部屋の印象も、長門の部屋のそれと似ていた。
物が恐ろしく少ない。
広い部屋と相まって、酷く空虚に見える。
長門の部屋は納得出来たが、古泉の部屋だと思うと不思議でならなかった。
別に、エロ本をベッドの下に隠しておけとか、アイドルのポスターの一枚や二枚貼っておけとは言わない。
しかし、それにしても生活感の薄い部屋だった。
「独り暮らしなのか?」
使われた様子の薄いソファに腰掛けながら俺が問うと、古泉はいつもの薄っぺらな笑みで答えた。
「ええ。三年前から、僕はずっとひとりです。家族が一緒では、夜中に閉鎖空間が発生しても出て行くのが難しいでしょう? もっとも、ここに越してきたのは転校と同時ですが」
だが、それももう一年近く前のことだ。
もう少し物が増えてもいいと思うんだが。
「…こう見えて、なかなか忙しいんです」
今もそうだが、答え辛いことを聞かれたりした時、古泉は薄幸そうな笑みを見せる。
それ以上立ち入ったことを聞けなくなるような笑みを。
それが演技だとしたら、ある意味成功していると言えるだろう。
俺は黙って、古泉が淹れたコーヒーを飲んだ。
何をするためにここに来ているのかを考えると、コーヒーの味も分からなくなりそうだ。
古泉があまりにも挙動不審だったため、うっかり忘れていたが、ここに来た目的を思いだした途端、落ち着かなくなってきた。
もしかすると、古泉は俺と違って忘れていなかったから、挙動不審だったのかもしれない。
向かい合って座っているのに、目が合わない。
むしろ、合わせられん。
恥ずかしすぎる。
だが、いつまでもこの失敗間際のお見合い状態を続けるわけにもいかないだろう。
その考えは、古泉も同じだったらしい。
「その……どう、しましょうか」
口を開いたのはいい。
褒めてやろう。
だが、俺にそんなことを聞くな。
いっそ黙って押し倒された方がマシだ。
いや、俺が押し倒したんでもいいのか?
そう考えかけた時、妙なことに気がついた。
気恥ずかしい沈黙に陥っていたことも忘れて、俺は問う。
「古泉、お前、背中か腰を痛めでもしたのか?」
「えっ?」
不自然なほど浅くソファに座っているのは背中か腰を庇うためじゃないか。
考えてみたら、駅前で背中を叩いた時の顔は、痛みを堪える時の顔じゃなかったか。
「なんでもありません。その…軽く、背中をぶつけただけで」
「背中なんかどこでぶつけるんだ」
苛立ちを押さえきれないまま、俺は問いただす。
「昨日の夜、閉鎖空間でも発生したのか?」
どうやら、俺の推測は当たったらしい。
古泉が体を強張らせる。
「どうして分かったんです?」
まず、お前が昼寝をして寝過ごすなんて妙だと思った。
ネットやゲームにはまって夜更かししたっていうならともかく、お前の趣味じゃないだろうし、ここまで閑散とした部屋なら特にそうだろう。
この部屋は最低限の生活をするためだけの部屋と見た。
それなら夜更かしをしたとしてもそれは遊んでいたとかいう生ぬるい理由じゃないはずだ。
おそらく、この頃は夜、ハルヒが寝ている時に発生するという閉鎖空間が昨夜も発生して、駆り出されたんだろう。
それに、お前は俺と会うのも忘れるような奴じゃない。
それでもうっかり寝ちまって、しかも寝過ごしたのは昨夜あまり眠れなかった上に、鎮痛剤か何かが効いていたからじゃないのか。
ひとりで背中に怪我をするのは難しいが、閉鎖空間であのでかい化け物相手に戦ったんなら簡単だ。
だから、昨日の夜、閉鎖空間で背中に怪我を負ったんだと思った。
「流石ですね。…ご推察の通りですよ」
困ったように笑いながら、古泉が言った。
「どんな怪我をしたんだ?」
「大した傷ではありません。軽い打撲です。ただ、範囲が広いので見た目は凄いですが」
本当だろうな。
思わず疑う俺に、古泉は苦笑するばかりだ。
「なんでしたら、お目に掛けましょうか。見苦しいですが…」
「…見せてみろ」
古泉はちょっと肩を竦めてから立ち上がり、シャツを脱ぎはじめた。
露わになった背中はどす黒い紫に染まりきっていた。
俺は思わず立ち上がり、それを見つめた。
これじゃあ仰向けに寝ることも出来ないし、椅子にもたれることも出来ないだろう。
そんな状態の背中を叩いてしまったかと思うと、罪悪感が首をもたげてくる。
「悪い」
思わず謝ると、古泉は首を傾げ、
「なんですか?」
「いや……さっき、叩いちまって悪かったなと思って」
「ああ…大丈夫ですよ。あれくらい」
嘘吐け。
しかしそれを言っても仕方がないだろう。
古泉一樹の半分は嘘で出来ているらしいからな。
俺はため息を吐いて、
「これじゃあ無理だな」
「え」
「えってお前、この状態でやる気だったのか?」
「いえ、その……無理ではないかな、と」
俺もいい加減どうかと思っていたが、お前の方が切羽詰ってたのか。
俺が呆れながら言うと、
「すみません。でも…これを逃したら次はないような気がして……」
俺は深くため息を吐いた。
それからソファに座りなおす。
長いそれの端に。
それからぽんぽんとソファを叩き、
「こっちに来い」
「はい?」
素直に寄って来た古泉がソファに座る。
俺から微妙に距離を取っているのがいくらか不満だったが、今回に限ってはこの方が都合がいい。
俺は古泉の頭に手をやると、自分の膝に向けて引き倒した。
「わっ……」
古泉が驚きの声を上げる。
しばらくもごもごと動く気配がするが、黙って流していると、膝から笑い声がした。
「膝枕ですね」
嬉しそうに言ってないで、黙って寝ろ、怪我人。

わざわざ人の家に泊まりに行っておいて、枕になってやった挙句、脚が痺れて動けなくなったなんて、誰にも言えん。
いや、予定通りになっていたところで言えなかっただろうが。