その視線に気がついたのはいつだっただろうか。 そんなに前ではないはずなのに、思い出せない。 気がついた時にはもう当たり前になっていたような気もする。
その日、いつもは朝比奈さんや長門さんを向いているはずの彼の視線が、僕の方をじっと向いていた。 これが、何かゲームでもしているときだというのならまだ分かる。 でも、僕は彼に背を向けて独り寂しく詰め碁をしていたし、彼もまた、凉宮さんの命令でサイトの更新をしているはずだった。 それなのに、背中越しでも分かるほど、強い視線を感じた。 自意識過剰と笑われるかもしれない。 本当に僕の気のせいかもしれない。 そんな予感ばかり強く湧き上がると言うのに、僕はそれに頷けずにいる。 思い違いでもいい。
彼に思われているという夢を見ていたい。 あれから随分経つのに、僕の夢は未だ覚めない。
僕は今、いつ彼を問いただすべきかと、楽しい夢想にふけっていた。
その日はなんとなく興に乗って、古泉と延々ゲームばかりしていた。 アナログゲーム好きで古臭いゲームばっかりやる古泉にしては珍しく、最近流行りの「頭がよくなる」系のゲームをもってきたのだ。 単純なくせに頭を使わされるそれをやりこみながら、どうでもいい話をしているうちに、ハルヒが帰り、朝比奈さんが帰り、長門も帰ってしまった。 それなのに、止まらない。 退校チャイムが鳴ったりするたびに、古泉がさりげなく帰らないかと水を向けるのだが、いい加減に返事をして、そのまま遊び続けていた。 明るい色をした駒を動かしながら、古泉が不意に薀蓄を垂れ始めたのは、日が暮れ掛けてきた時のことだった。 「カマキリのメスが、同種のオスを食べてしまうという話はご存知ですか?」 有名な話だな。 用済みになったらせめて栄養になれというのは残酷な気もするが、効率的なのかもしれないと思う程度の認識しか、俺にはないが。 「それはそれで、なかなかユニークな認識ですね。でも、一般に流布している話ほど、真実は単純じゃないんですよ」 どういう意味だ。 というか、お前が何を言いたいのかが分からん。 「それはまたおいおいお話ししますよ。とりあえず話をさせてください。――カマキリにも多種多様な種類があるのは分かりますよね? その数は千から二千とも四千とも言われています。それらが全て、同じように共食いをするわけではないんです。極端な種では、オスはメスに頭部を食べられるのを合図に精子嚢をおくりこみますが、交尾が終ってもオスを食べない種もいます。たとえ胸の辺りまで食べられても動き続けるものもいますけどね」 気色悪いな。 「そうですか? 僕はむしろ、そこまでするのがオスの本能なのかもしれないと思いますけど」 そう言って、古泉はにっこりと笑った。 いつも笑っている、と言われればそれまでなのだが、作り笑いとは違う、妙な迫力を伴った笑みだった。 一瞬、腰が引けた俺を他所に、古泉は話し続ける。
「まあ、カマキリの場合、強かなオスなら、メスと交尾を終えるなり逃げ出して、別のメスを探し始めたりもするそうですが。それから、イルカの場合は別の意味で凄いですよ。極端な例を選んでの例示ではありますが、オスは集団でメスを襲い、噛みついたりしながら無理矢理犯すことがあるのだそうです。それで、メスが妊娠すればそれでもうお終い。興味を失ったように去るそうです。別の例としては、サメや海がめなど、とにかく大きさの似通ったものであれば発情するというのがあるので、海の人気者もなかなかのものだと思いませんか」 とりあえず分かったのはお前が妙な無駄知識を持っていることくらいだ。 それに、本当に極端な例しか示してないだろうが。 お前は何が言いたいんだ? 博識をひけらかしたいだけならもういいだろ。 「分かりませんか。僕が何を言いたいのか」 さっぱり分からん。 詰まらん講義はゲームから意識を逸らして妨害するためかとも思ったが、逸らせてないしな。 盤上は相変わらず俺に有利な展開のままだ。 「やっぱり、あなたには直接的な行動で示すしかないようですね」 オーバーに肩を竦めた古泉が、机に手を掛ける。 その手に体重がかかる。 机がぎしりと軋む。 古泉の顔が近い。 近いなんてもんじゃないってくらい近くなる。 ピントも合わなくなる。 唇に、慣れない感触を受けた。 その全てを、見てしまった。 コマ送りのように単調に。 言い逃れも出来ないほどしっかりと。 今、何が起こったんだ? 誰か説明…いや、しなくていい。 むしろするな。 唇に感触はないのに、まだ視界がボケている。 見えるのはブレザーの緑と背景じみた部屋の様子だけだ。 肩から背中に掛けて、ゆるやかに熱が伝わってくる。 耳元で、声がした。 吐息が耳にかかる。
「僕は、ある種の賭けをしたんですよ」 賭けだと? どういうことだ。 問い詰めたかったが声がでなかった。 自分で思っている以上に驚いているようだった。
「あなたが好きそうでない話題を振って、あなたが帰ろうとする様子を見せなかったら、キスをしてみようと思ったんです。あなたは帰ろうとしなかった。だからこうしてキスしてみました。それでもあなたが逃げなかったから、抱きしめてみました。どれも、僕にとっては命懸けにも等しいほど、勇気がいることです。賭けに負けてしまったら、よくて絶交されて、悪ければここを永遠に去らなければならないんですからね。でも……これからすることで、最後です」 古泉はいくらか体を離したが、まだ近い。 視界に、古泉以外入らない程度には。 そうしてその古泉の顔は信じられないほどマジだった。 「僕は、あなたが好きです。女性に尽くすと言う男の本能をどこかに置き忘れた挙句、なんでもないことかもしれない、あなたの視線に煽られて、こんな馬鹿なことをしてしまうほどに。あなたは――僕をどう思っているんですか?」 どうも何も、クラスが違う、精々放課後や休日にSOS団の活動でしか会わないような奴に、何か思うって言うのか? しかも他に朝比奈さんや長門がいるってのに、どうしてわざわざお前を意識しなくちゃならないんだ。 訳が分からん。 さっさと離れろ。 ――どれかひとつでもいい。 全部じゃなくていいから、口にすればいいはずだった。 なのに、口が動かなかった。 理由は俺にも分からない。 古泉の迫力に圧されたのかもしれないし、別の要因があったのかもしれない。
喉が渇いたとか腹が空いたとか、なんだってあるだろ。
いつまで経っても黙りこくっている俺に業を煮やしたのか、古泉が厳しい調子で言った。
「僕のことを見ていたでしょう。他に朝比奈さんも長門さんも涼宮さんもいたのに、どうして僕だったんです?」 そんなこと、俺はしてない。 部室にきたらとにかく朝比奈さんを見て和むと決めてるんだ。 わざわざお前のために目を動かすか。 ――それだけのことも言えなくなっている俺は、本格的におかしいのかもしれない。 それかあれだ。
古泉が自分でも気がつかないうちに新しい超能力に目覚めて俺を金縛りにしてるかだ。
「顔が赤くなってきてますよ。大丈夫ですか?」 沈黙したまま微動だにしない俺に、親切めかして古泉が言う。 「もしかして、ご自分でもお気づきでなかったとか?」
お気づきも何も、俺はそんなことはしていないし、無意識のうちにしていたとしても知らない。 お前の思いこみ、妄想、虚妄だ! 叫んでやりたかった。 そのくせ、言葉にもなりやしねぇ。 俺はもうずっとだんまりだ。
「……」といい加減、三点リーダが尽きるんじゃないかってくらい、黙り込んでいる。
いっそ、古泉が諦めりゃいいのに。 「……答えられないんですか? それとも、答えたくないんですか?」 呆れたような響きを含んだ声で、古泉が言った。 俺は今更ながら古泉の目にピントを合わせた。 見て取れるのは、苛立ち、焦り、期待。 嘘やごまかしはないように思える。 それが俺の勘違いならまだいい。 本気だと言うなら、それはそれで理解出来ない。 頭がおかしくなったんじゃないかと思うところだ。 おかしくなった頭が俺のなのか古泉のなのかは分からない。 俺は静かに、目を伏せ、考え込んだ。 答えられないのか、答えたくないのか考えるために。 理性を総動員しながら、俺は考える。 答えるにはあまりにも考えが足りなかったのかもしれない。 だから答えることを無意識に拒んだのかもしれない。 それなら考えればいい。 俺は本当に古泉を見ていたのか? 思いだせ。 気がついた時、誰を見ていた? 貼り付けたような笑みが、脳裏をよぎる。 俺は、古泉を見ていたのか? だとしたら、何でだ。 何のためだ。 どうして他の誰でもなく、古泉だったんだ? ――その答えが見えかけた時、俺の唇にまた何かが触れた。 答えが、掴めた。
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