おさとう



心臓がどきどきして堪らない。
彼に思いを告げた時よりも、彼をデートに誘った時よりも、緊張する。
びくつきながら僕は意を決し、
「あのっ、明日はみくるさんとお菓子を作ろうと約束しているのですが」
と彼に言ってみた。
それだけで、彼の顔が不機嫌に歪む。
思わず怯みそうになりながら、僕は重要な続きを口にした。
「よかったら、あなたもいらっしゃいませんか?」
「……俺も?」
不機嫌な顔をきょとんとしたそれに変えて、彼は首を傾げた。
そんな仕草さえ可愛い。
「はい。だめ…ですか?」
「…俺が行ったって、邪魔なだけじゃないのか?」
拗ねたように言われて、僕は慌てて首を振った。
「そんなことありません。その、あなたはお菓子なんて好きじゃないかも知れませんけど、でも、一緒に作れたら楽しそうですし、それに僕は、あなたがいてくださるだけでも嬉しいんです」
「…本当に?」
疑う、というよりむしろ確認の意味合いが強いのだろう。
彼はどこか悪戯っぽく唇を歪めて僕に問うた。
「はい。…あなたといられるだけでも、幸せです」
その綺麗な瞳を見つめてそう答えれば、
「じゃあ、行ってやってもいい」
「本当ですか!?」
「ああ。…ただし、砂糖は控えてくれよ?」
と言われ、僕は大いに頷いた。
あなたが来てくださるなら、なんだって。
そんなわけで、翌日、土曜日、僕は自宅にみくるさんと彼の二人を迎えていた。
みくるさんには事後承諾になってしまったのだけれど、当然のことながら機嫌を悪くすることもなく、むしろ嬉しそうに、
「キョンくんも一緒なんて嬉しいです」
と言ってくれたのでほっとした。
彼の方も、
「邪魔にならないように気をつけますね」
と言いながらも、機嫌はいいみたいだ。
「朝比奈さん、今日は何を作るんですか?」
「今日はナッツのタルトです。タルト生地に、カスタードクリームと、カラメルソースで和えたナッツを載せちゃうの。そんなに甘くしないから、キョンくんも気に入ると思いますよ」
「それは楽しみですね」
そんな風に話しながら、彼も一応持参してくれたエプロンをつける。
普段見ないような姿に、思わずぽうっとなっていると、
「古泉、お前もさっさと用意したらどうなんだ?」
とたしなめられてしまったけど、僕が慌ててエプロンをつけると、彼はなぜか恥ずかしそうに顔を赤らめた。
え、何か変ですか?
「いや…そういうのじゃ、なくてだな……」
「じゃあ、なんですか?」
気になります。
僕が首をかしげていると、彼は真っ赤になりながら、
「…っ、エプロン姿なんかもかっこいいってのはずるいと思っただけだ!」
なんて怒鳴られてしまった。
怒鳴ってるけど……褒めてくださってるんですよね?
「あなたこそ、よくお似合いですよ」
「わら、うな…!」
くそ、とかなんとか毒づく姿も可愛い。
みくるさんはというと、にこにこと楽しげに僕たちを見ている。
「仲がよくて何よりです」
と言われ、彼は余計に顔を赤くしながら、
「お、お恥ずかしいところをお見せしてすみません…」
と頭を下げた。
「いいんですよ。それよりキョンくん、ピーカンナッツを刻んでもらえますか?」
「分かりました」
話がそれてほっとしながら、彼がまな板に向かう。
僕はとりあえず他の材料を量るとしよう。
薄力粉にバター、砂糖、牛乳、と量って器に入れていく僕の横で、みくるさんは調理器具の準備に忙しい。
横目で彼を見ると、どうやら案外楽しんでもらえているようだった。
「朝比奈さん、これ、どれくらいの大きさにしたらいいんですか?」
「キョンくんの好みの大きさでいいですよ。あんまり小さいと食べた時物足りないですし、大きすぎたら食べづらいですから、ほどほどで」
「分かりました」
みくるさんの曖昧なこと極まりない――でも案外これが適切な説明という気もします――説明に苦笑交じりながらも頷く彼と、にこにこと微笑んでいるみくるさんを見ていると、なんというか、非常に、
「…和みますね……」
「何言ってんだ、お前は」
呆れた顔をした彼に、だって、と僕は言葉を紡ぐ。
「和むと言って悪かったら、微笑ましいと言い直したらいいですか? なんだか、凄く暖かい気持ちになったんです」
「…普通ここは妬いてもいいところだと思うんだがな」
「どうしてですか?」
首を傾げた僕の目を、彼は観察するようにじっくりと見つめた。
本当かどうか疑っているのを通り越して、僕の無意識まで探ろうとしているかのようだ。
「…ほんとに妬いてないんだな?」
「はい。大好きなお二人が仲良くしていてくださると、僕としても嬉しいですから」
と笑顔で返すと、
「やっぱりお前はよく分からん」
と言われてしまったけど、彼が楽しそうだったからよしとしたい。
「刻み終わったと思うが、こんなもんでどうだ?」
彼に聞かれて、僕は砂糖とバターをすり混ぜていた手を止めた。
まな板の上に広げられたナッツは、大体均等な大きさに刻んである。
「はい、十分です」
「次は?」
「これを乾煎りします。それとも、粉ふるいの方がいいですか? どちらでも、したい方でかまいませんけど」
「そうだな…」
と考え込んでいた彼は、
「焦がすと不味いんだろ。だから、粉の方にする」
「分かりました」
僕は頷いて、
「みくるさん」
「はぁい。あたしが乾煎りしたらいいんですよね。任せてください」
いそいそとエプロンをひるがえしながらコンロへ向かうみくるさんを見送って、僕は彼に頼む。
「そこに、紙を広げてあるでしょう? その上でふるってください。大体、三十センチくらい高さを取って。そうすると、粉に空気がたくさん含まれて、美味しくなるんですよ」
「分かった」
大体と言ったのに、彼は慎重に、テーブルから三十センチくらいがどれくらいか、腕で長さを確かめながら粉ふるいを構えた。
そんなところも可愛くて、ついつい表情が緩んでしまいそうになるけど、そうと知られたら彼の機嫌を損ねてしまうかもしれない。
だから僕はなんとかそれを堪え、自分が持っているボウルの方へと意識を集中した。
溶けたバターと砂糖の匂い、ナッツを乾煎りする香ばしい香りに、薄力粉をふるうあるかなきかのかすかな音が混ざり、部屋の中を満たす。
いつも、人の気配に乏しい僕の部屋に、二人もの人がいて、一緒に何かしていると言うのが不思議な気分で、同時に、とても幸せな、満ち足りた心持になった。
こんな幸せな気持ちで作るお菓子は、きっと、甘くておいしいに違いない。
実際それは、いつになく上出来だった。
タルト生地はさくさくと、カスタードクリームは甘さを控えたもののしっかりとしているし、ナッツはカリカリと香ばしい。
みくるさんが淹れてくださった紅茶と一緒に、焼き立てのタルトを食べると、思わず至福のため息が漏れた。
「おいしいです…」
ほんわかした声で呟いたみくるさんに、
「今日はとてもよく出来ましたよね」
と僕が返す。
彼は少しばかりくすぐったそうに唇をゆがめていたけど、悪い気分ではなさそうだ。
「お口に合いましたか?」
おずおずと僕が聞いてみると、彼は今度こそはっきりと笑みの形に唇を曲げて、
「ああ、うまいな」
「よかったです」
そう言ってもらえると、余計にタルトがおいしくなったように思えた。
6分の1サイズにカットしたタルトを半分くらい食べ進んだところで、彼が口を開いた。
「いつもこんなことしてんのか?」
「はい。作るのはお菓子だったり料理だったり色々ですけどね」
僕が答えるとみくるさんも小さく頷いてくれる。
彼は少し目元を優しく和らげて、
「楽しそうだな」
と独り言みたいに呟いたけど、
「では、これからも是非一緒にしませんか?」
と僕が言うと、驚いたようだった。
でも、すぐに柔らかな笑顔を見せて、
「…そうだな。見張ってないとお前は心配だからな」
なんていう。
「どういう意味ですか……」
「どういう意味も何もあるか。そのまんまだ」
拗ねたように言ってみせる彼に、ときめけばいいのか脱力すればいいのか分かりません。
みくるさんはみくるさんで、楽しそうにくすくす笑ってるし。
僕は紅茶を一口飲んで仕切り直しを図ることにした。
「あなたが一緒なら、お菓子じゃない方がいいでしょうか?」
「いや、別に菓子でもいいが……甘さを控えるか、濃いコーヒーまたはお茶を頼む」
と微笑んだ。
その笑顔にどこかしら余裕めいたものを感じ、心の底から安堵する。
うまく行ったのかな。
これでもう、彼が変にみくるさんを意識したりしなくなるだろうか。
そうだと信じたい。
「食べたいものとか、あります?」
「特にはないんだが……それなら、そうだな、お前と朝比奈さんがこれまでに作った中で、一番のおすすめって言えるのがあったらそれを頼む」
「分かりました」
頷いて、僕はみくるさんに聞く。
「みくるさんのおすすめはなんですか?」
「あたしですか? うぅん……」
たっぷり考え込んだみくるさんは、それこそ、僕と彼のお皿が空になってからやっと口を開いた。
「ガトーショコラなんてどうですか? あれは難しかったですけど、おいしく出来ましたし」
「ああ、いいですね。ついでにチョコレートで他のお菓子も作ります?」
「なんだか、バレンタインみたいですけどね」
そう笑ったみくるさんに釣られて笑いながら、
「ああ、そうやって、季節ごとに料理を作るってのも楽しそうですよね。春ならお花見弁当とか、お正月ならおせち料理とか、色々ありますし」
「楽しそうです」
僕は彼に目を向けて、
「そうしたら、一緒に過ごしてもらえますか?」
と聞いてみた。
彼は一瞬きょとんとした後、少しだけ顔を赤くして、
「アホか」
と言ったので、だめなのかと思ったんだけれど、
「…んな、料理なんかで釣らなくても、お前と過ごすに決まってんだろうが」
「…嬉しいです」
幸せ過ぎて胸がいっぱいになってしまいそうなくらい。
「じゃあ、もうタルトはいいですよね? 食べちゃいますよ?」
と言うみくるさんに、僕は慌てて、
「食べますから残り全部持っていこうとしないでくださいっ」
と泣きつく破目になった。
というかみくるさん、あなた、ひとりで21センチサイズのタルトの3分の2を食べつくすつもりですか。

楽しいお茶を終えて、みくるさんは早々に席を立った。
揃って見送りに出た僕たちへ、
「今日は楽しかったです。お邪魔しちゃってごめんなさいね」
と言って、それでも楽しそうに帰っていくみくるさんを送り出し、僕たちは居間に戻った。
ソファに隣り合わせに座っても、会話はない。
いつもなら、みくるさんと会ったりした後は決まって機嫌が悪くなってしまう彼を横目で見ると、一見普通に見える。
それとも、静かに怒っているんだろうか。
びくついていると、不意に彼が僕の肩へともたれかかって来た。
その心地よい重みにどきりとしながら、何も言わないでいると、彼が小声で、
「……楽しかったか?」
と聞いてきた。
迷っているような、心配しているような、遠慮しているような、そのどれとも違うような、微妙な声だった。
僕は彼の気持ちを読み取ろうとするのではなく、素直に彼の問いに対する答えを考えた。
そうするだけで、自然と笑顔になる。
「ええ、あなたが一緒でしたから」
「…俺…邪魔、じゃ…なかった、か……?」
心細そうな声に、つい、笑みが深まる。
「そんなことありえませんよ。あなたがいてくださったから、いつも以上に楽しかったんです」
「なら、よかった」
ほっとしたように笑った彼が可愛くて、そのまま抱きしめてキスしたくなる。
…して、いいのかな。
でも、いきなりはやっぱりだめかな…。
迷っていると、
「…今度は何を考えてるんだ?」
と眉を寄せたしかめっ面で聞かれてしまった。
「すみません。大したことではな…」
「言えよ」
最後まで言わせず、彼が僕を睨みつける。
怖いです。
「言わんと泣くぞ」
「どんな脅しですか!」
いや確かに僕はあなたに泣かれると弱いですけど。
「冗談だ」
くすくすと楽しげに笑った彼が、僕に顔を近づける。
「何考えてたんだ?」
「……抱きしめてキスしたいな、と。してもいいのかな、って、考えていました」
正直に僕が答えると、彼は大きく目を見開いた。
あ、引かれたかな。
どきどきしながら彼の様子をうかがっていると、彼は少し遅れて真っ赤になった。
その唇がかすかに動き、何か言葉を紡いだようだったけれど、聞こえない。
「なんですか?」
聞き返すと、彼は怒ったような真っ赤な顔で、
「いいに決まってんだろって、言ったんだ!」
と怒鳴った。
そのまま僕は彼に抱きしめられ、キスされる。
…ええと、してほしいじゃなくて、したいって言ったつもりだったんですけどね。
「お前が鈍臭いのが悪い」
拗ねたふくれっ面で言った彼がぶつぶつと、
「大体、そんなもん、一々聞いたり考え込んだりするなよ…」
と呟くので、それならと、僕は予告なしに彼に口付けた。
不意を突かれた彼の瞳に至近距離で微笑みかけ、唇を割って舌を絡めると、ほんのりと甘い味がした。