でえと



いくら思いが通じたと言っても、だからと言ってすぐに態度を改め、接し方を変えるというのは難しいことで、僕は相変わらず彼に呆れられてばかりいた。
落ち込んでしまった時に頼るのはやっぱりみくるさんになってしまうし、言いたいことをうまく言えずに彼を不安にさせてしまったりするのも、呆れるまでに変わっていない。
思いが通じたおかげで、彼が前ほど嫉妬深い言動をしなくなったことや、前以上に寛容に、僕のことを優しく見守っていてくれる分、精神的にずっと楽になったとは思うけれど、それだけではいけないと、流石の僕でも思った。
だから、僕は勇気を振り絞った。
夕方、家に帰ってすぐに、彼の携帯に電話を掛けたのだ。
『どうした? 何か言い忘れたことでもあるのか?』
訝しそうな言葉を、どこか嬉しそうに言ってくれる彼の声だけで胸が高鳴る。
「言い忘れたことではないんですが…その、あなたにお聞きしたいことがありまして…」
『聞きたいこと? わざわざ電話でか?』
「はい。というか…えぇと……お誘い、と言った方が適切でしょうか…」
『誘い?』
驚いたような声で言った彼に、僕は思いきって言う。
「あの、あ、明日の土曜、もしお暇でしたら、そのっ、一緒にどこかへ出かけませんか…っ!」
上擦り、震えた声になってしまったのはどうしようもなく情けないけれど、これが今の僕にとっての限界ラインだ。
緊張のあまり、ぎゅっと目を閉じてしまった僕は、耳だけに意識を集中する。
少しの沈黙が耳に痛い。
ドクンドクンと脈打つ心臓がうるさい。
『…いいぞ』
ふわりと微笑むのが見えるような声だった。
「ほ、本当ですか…!?」
『嘘吐いてどうするんだよ』
と笑った彼が確認する。
『当然、二人きりで、だよな?』
「ははははい、勿論です!」
『落ち着けって』
クスクスと笑う声が耳をくすぐる。
優しく、楽しげな声に、安堵する。
「よかったです…。断られたらどうしようかと……」
『ばぁか。断るわけないだろ。…せっかく、お前から誘ってくれたんだからな。…でも、いいのか?』
「いい…とは?」
『朝比奈さんと付き合ってることになってるってのに、俺とデートなんかして』
「で…っ!?」
『違ったか?』
ち、違いませんけど、そんな風に言われるとどう言ったらいいのか分からなくなる。
それに、いつも以上に楽しげで、恥ずかしがるそぶりもなくそんなことを言う彼に、どうしようもなく翻弄される。
『電話だからか? なんか、意外と平気だな』
そんなことを楽しげに言って、
『で? いいのか?』
「いいも何も……。あからさまにデートだと分かるようなことは出来ないと思っていますし……それなら、大丈夫だと思いませんか?」
『さあな。俺には分からん』
そう言って彼はおそらく意地の悪い笑みを浮かべたんだろう。
『たとえ、お前と朝比奈さんが別れて、お前が俺と付き合い始めたなんて噂が立ったって、俺は構わんからな』
なんてことを言う。
「な、なに言い出すんですか…!」
『事実だろ。……俺は、本当は、お前の恋人は朝比奈さんじゃなくて俺なんだって、主張したくて仕方ないんだからな』
「そんな可愛いこと…言わないでください…」
『……っ、か、可愛くなんかない! つうかお前こそ、いきなりなに言い出すんだ…!』
「だって、そうじゃないですか。…可愛いです。そんな可愛らしいことを言ってくださるのでしたら、電話じゃなくてきちんと向き合って言うべきでしたね」
『…そしたら、あんなこと言えるかよ……。俺にだって羞恥心くらいあるんだ…』
よく分かってますよ。
それだけに、
「電話越しでも、言ってくださって嬉しいです。明日も、楽しみにしてますね」
『…ん、俺も』
「……愛してます」
『俺も、愛してる』
くすぐったそうに言った彼と明日のことについていくつか打ち合わせをして、僕は速やかに電話を切った。
そうでなければいつまでも長々と会話を引き伸ばしてしまいそうだったし、そろそろ夕食の時間も近づいていたからだ。
胸の鼓動は、落ち着いているとは言い難い。
でも、狂おしいほどではなく、むしろ心地好い。
彼を好きになって、思いを通じ合うことが出来てよかったと、改めて思いながら、僕は明日の支度にとりかかった。

待ち合わせ場所に現れた彼は、以前僕を尾行した時のような服装をしていた。
キャスケット帽を目深に、でも愛らしく被り、シャツを着て、軽くジャケットを羽織っていると、いつもの彼とはあまりにも印象が違う。
変わらないのはその愛らしさくらいじゃないだろうか。
この年で、サスペンダーなんてものが似合うのは、もういっそ犯罪の域じゃないかと思うんですけれども。
「前にも思ったんですが、似合いますね。可愛らしくって」
でれでれとだらしのない顔になってしまうのを自覚しながら、それでもどうしようもなくてそのまま思ったことを口にすれば、彼は見る間に顔を赤く染めて、
「かっ、可愛いとか言うな!」
と照れた様子で怒って見せたけれど、それも可愛い。
「可愛いですよ」
怒られるかもしれないと思いながらもう一度そう繰り返したのは、僕がそう言いたかったからでもあるし、みくるさんからの忠告があったからでもある。
したいことをちゃんと伝える。
したいことをする。
言いたいことを言う。
そうしても大丈夫だと分かっていても、まだ怖い。
でも、怖がっているばかりではだめだということも痛いほどよく分かったから。
実際彼は、
「だから…っ」
と文句を言おうとしたものの、真っ赤に染めた顔をくしゃくしゃに歪めて僕を睨んだだけだった。
その顔を見れば、くすぐったくて、照れているだけなんだと、僕にでも分かる。
「可愛いですよ。でも、白黒だけじゃ寂しいですね。いっそのこと明るいチェックの服とか着てみてくれません?」
「それは流石にないだろう」
「そうですか? あなたならきっと似合うと思いますが」
「お前の目がおかしいんだろ」
ふいっとそっぽを向く彼に、僕は小さく笑う。
「そうかもしれませんね。あなたなら、きっとどんな格好をしていても素敵に見えてしまうと思いますから」
「…あほ」
毒づいてから、
「ほら、さっさと行くぞ。いつまでこんな目立つところに突っ立ってるつもりだ」
と言って歩き出そうとした彼を、
「ちょっと待ってください」
と呼び止める。
「なんだ? まさか朝比奈さんを呼んであるとか言わんだろうな?」
「そんなことしませんよ。するわけないでしょう? せっかくの…デートなんですから」
「そこで変に恥らうな、気色悪い」
そんな風に酷い言葉を投げつけられても平気なのは、それが照れ隠しだと分かっているからだ。
でも彼は、これまでの僕の所業のせいで心配になったのか、言ってから慌てて僕を見た。
大丈夫かと確かめるように。
そんな仕草さえ愛しくて思わず微笑すると、彼は余計に苛立った様子で顔を背けた。
…可愛い。
「ねえ、手を繋いでもいいですか?」
「はぁ!?」
驚きの声を上げる彼に、僕はお願いする。
「お願いします。あなたとデートするなら、手を繋いだりしたいって、ずっと思ってたんですよ」
「だが…人に見られるだろ」
「噂が立ってもいいと言ったのは誰でしたっけ?」
からかうように言うと、彼が眉を寄せた。
でも、怒っているわけじゃないと分かってしまうと、それすらくすぐったい。
「困るのは、お前だろ?」
「大丈夫ですよ。少しくらい。それとも……僕なんかと手を繋ぐのは、お嫌ですか?」
「……狡い」
というのが彼の返事だった。
難しい顔をして僕を睨み上げて、
「そんな風に言ったら俺が断らないって分かってやってるだろ?」
「ふふ、気づかれちゃいました?」
「お前な」
呆れた声を出しながらも、彼は優しく笑ってくれる。
「…だが……まあ、そうだな。ぐだぐだぐずぐずされるよりは、こっちの方がいくらか分かりやすくていい」
「あまり甘やかし過ぎると、調子に乗りますよ?」
「お前が調子に乗ったってたかが知れてる」
そう馬鹿にするように笑った彼に、僕は笑みを返す。
「じゃあ、いいんですね? 手を繋いでも」
「…勝手にすればいいだろ」
明確な返事をくれないのは、彼なりの照れ隠しだ。
「ありがとうございます」
笑顔でそう言って、僕は彼の手を取った。
いくらか汗ばんだ手の平は、それなのに少しも不快じゃなくて、むしろしっとりした肌が吸い付くように思えた。
思えば、こんな風に手を繋ぐのだって、初めてじゃないだろうか。
一方的に手首や腕を掴まれたりすることはあっても、こんな風に手を重ねあい、絡めあうようなことは初めての気がする。
そう思うと余計に嬉しくて、くすぐったくて、
「…嬉しいです」
と思ったままを呟けば、彼が口の中でもごもごと何かを呟いた。
多分、同意してくれたんだろうと思う。
顔の赤みがいつまで経っても引かないことさえ可愛くて、愛しくて、
「今日はどこに行ってみましょうか?」
とわざと耳元で囁いてみると、彼がびくんと体を震わせて僕を睨み上げた。
「おま…っ……」
「どうかしました?」
しれっと問い返せば、彼は僕のことを本当に鈍感だと思い込んでいるらしい。
それはある意味で正しいのだけれど、僕だっていくらか成長するし、良くも悪くも変わると言うことを計算に入れていないところがちょっとばかり甘くて、可愛い。
彼は不貞腐れた顔で、
「…買い物ってことしか決めてなかったが、何かいるものでもあるのか?」
「正直、僕はあなたと一緒に過ごせたらどこでもいいんです。何をしても」
「そうかい」
照れくさそうに苦笑しながら、彼は言う。
「じゃあ、ゲーセンでも行ってみるか?」
「ゲームセンターですか。初めてです」
「初めてって……」
呆れたように呟いた彼の顔に、ほんの少し、案じるようないたわるような色が滲む。
もう、大丈夫ですよ。
そう告げる代わりに僕は笑って、極々普通のことを話すように、
「ゲームセンターに行ったことがないくらい、真面目に過ごしてきたんですよ、これでも」
「これでもって、お前は十分真面目だろ。堅物かと思える時もあるし」
ほっとしたように笑って話に乗ってくれる彼の、さりげない優しさが好きだ。
「そうですか? だったらきっと、生まれ持った性分ってやつなんでしょう」
『生まれ持った』なんて言葉を軽く使える日が来るなんて、ずっと思っていなかった。
それくらい、僕は自分の『生まれ』が嫌だった。
でも、もう大丈夫だ。
彼がいてくれるから。
平気で、無理せず笑っていられる。
僕は笑顔のまま、言葉を続けた。
「だから、涼宮さんに振り回されるのは大変でも、案外楽しんでるんですよ。これまでなら、考えもしなかったようなことを実践させていただいてるわけですからね」
「ああ、それでか」
と彼が笑う。
なんとなく引っかかる納得の仕方だ。
「お前、最初の頃はもう少し固かっただろ。緊張してただけかと思ってたんだが、ただ単になれてなかっただけだったんだな」
「…はい」
そんなことまで覚えてくれているのかと思うと、嬉しくてくすぐったい。
「段々楽しそうになってきてるのも、納得した」
そんな風に細かく、彼らしくもなく丁寧に心情を伝えてくれるのは、鈍感な僕のためだと思うと、堪らなく嬉しい。
僕は握り締めた手に力を込めて、
「…好きです」
と小さな声で告げた。
虚を突かれたように目を見開いた彼の顔に、引いていたはずの赤みが戻ってくる。
「っ、な、に、脈絡もなく……」
「言いたくなってしまったんですよ」
小さく笑えば、彼も笑って許してくれる。
「…頼むから、せめて態度か何かで予告してくれ。いきなりすぎて心臓が止まるかと思った。それか、幻聴かと思えるだろ」
「幻聴ですか?」
何でそんな風になるんだろうと思えば、彼は赤い顔で教えてくれる。
「言われたい言葉が唐突に聞こえたら、聞き違いか幻聴に思えないか?」
「…思えますね。僕もよく、思いますよ」
そう笑えば、彼はじっと僕を見詰めて、それからふわりと微笑んだ。
「古泉、」
「はい?」
「好きだぞ」
「……はい」
嬉しいです、という思いを込めて頷けば、彼はわざと唇を尖らせる。
「なんだその間は。嫌だったのか?」
「そんなわけないでしょう? 感激しただけですよ。お願いですから、そういじめないでください」
明るく笑って答えに代えた彼は本当に魅力的に映った。