もてる



現国の授業が終り、伸びをする。
どちらかというと理系クラスの中では文系に近いタイプの僕としては、こういう文系の授業の方が楽しいのだけれど、そうでないクラスメイトも多いらしい。
やっと終ってくれた、とばかりにため息や呟きが微かに聞こえてくる。
ひとつひとつはとても小さいのに、それが重なるとちょっとしたさざめきのようになるのが面白くて、小さく笑いが零れた。
さて、あまりのんびりしていてもいけないだろうから、荷物を片付けて部室に行こうかな。
そう考えるだけで、余計に顔が緩む。
彼には、
「いつもへらへら笑ってて、しんどくないか?」
なんて心配もされるのだけど、笑っていることは僕にとって、そう大変なことじゃない。
毎日、とても楽しいから。
楽しくないのに笑うのは辛いし、苦しいけれど、今の僕は本当に日々を楽しんでいる。
それは彼のおかげであり、みくるさんのおかげであり、涼宮さんや長門さんのおかげでもある。
ありがたいことだとしみじみ考えながら、カバンに荷物を詰めようとしたところで、
「古泉くん、」
と声を掛けられた。
声を掛けてきたのは、緒田という名字の男子生徒だった。
恥ずかしいことでもあったのか、少しばかり顔を赤くして、
「ちょっと、いいかな?」
「何かありましたか?」
僕が質問に質問で返すと、緒田くんは更に恥ずかしそうにして、
「えぇと……実は、さっきの授業でちょっと分からないところがあったんだ。古泉くん、確か、文系も強いよね? もしよかったら、少し教えてもらいたいんだけど……」
「そう…ですね……」
僕は呟きながら時計を見る。
さっき携帯を確認したけれど、召集のメールも何も入っていなかった。
ということは、少しばかり遅れても大丈夫だろうと見当をつけ、僕は頷く。
「構いませんよ。僕でよろしければ、お手伝いします」
「あ、ありがとう…」
照れくさそうに頬を染めた緒田くんのために、隣りの席から椅子を借りて引き寄せる。
隅の方の席だから掃除の邪魔にはならないだろう。
特に今週の当番は真面目に掃除をするタイプじゃないし。
仕舞った教科書とノートを再び広げて、
「どこが分からなかったんですか?」
と聞くと、彼は自分のノートを開きながら、
「この文の解釈なんだけど……」
と教科書の一文を指差す。
今日やったのは小説の読解だ。
理系らしく、こういうところが苦手らしい。
多分、活用を覚えたりするのは得意なんだろうなと思いながら、僕は簡単に説明をする。
とは言っても、僕の説明だから例示を交えているうちに、段々と話がそれていく。
元の場所に戻るのにまた手間取って、それからやっと、
「…ということなのですが、分かりましたか?」
と聞くと、緒田くんはどういうわけかぼんやりした顔で僕を見ていた。
「……あの…?」
「…っ、あ、ご、ごめん! ぼーっとしてた」
そのようですね、と口の中だけで呟いて、僕は苦笑した。
恥かしいのか、彼は顔を赤くしている。
「いえ、僕の話が長くなりすぎましたから」
「そんな……、僕が悪いんだから、気にしないでよ」
そう言いながら彼は目をそらした。
「読解が苦手ですか?」
僕が聞くと、彼は照れ臭そうに頷いた。
「でしたら、やっぱり、このような付け焼刃の学習よりは、読書を重ねた方がいいと思います。なんでもいいのでいくつもの本を読むことで経験的に身につく部分も多いですから」
「それは分かるんだけど…なかなか、小説とかは読む機会がないんだよね」
うちのクラスの人間ならそんなものだろう。
勉強で手一杯だったりする人も多いから。
「勉強の息抜きとして、軽いものでもいいので読むようにするといいと思いますよ」
「ん………そうだな、古泉くんのおすすめってあるかな?」
「僕のおすすめ…ですか」
そう言われて考え込む。
「僕は推理小説が好きですけど……現国の勉強のためとしてはおすすめし辛いですね」
「なんでもいいって言ったのは古泉くんだろ? 古泉くんが面白いと思うなら、僕も好きかも知れないから」
「では、」
と僕はいくつかの推理小説のタイトルと作家の名前を挙げた。
「リーディングの練習も兼ねて、英書で読むのもいいかもしれません」
と言い添えて、いくつかの平易な作品の名前も挙げる。
丁寧にそれをメモしている緒田くんに、
「…ああ、そこはつづりが違いますね」
指摘しようとして、そのメモを指差そうとしたところで、彼の指に僕の指が触れると、彼は潔癖症かと思うような勢いでびくりと指を引いた。
「すみません、驚かせてしまいましたか?」
「え、あ、いや…ううん、そういうんじゃ、ない、んだけど……」
かあっと顔を赤くしている緒田くんに僕が首を傾げたところだった。
「おい、古泉」
いつになく不機嫌な、彼の声が響いたのは。
「お前何やってんだ?」
ずかずかと、機嫌の悪さを如実に表しているような足音を立てて近づいてきた彼が、じろりと机の上に広げたものを見ながら、
「ハルヒが早く呼んで来いと唸ってたぞ」
と言う。
「すみません」
言われて時計を見れば、なるほど、呼びに来られても不思議でないような時間になっていた。
「早く片付けろ」
と苛立ちも露わに急かす彼を待たせながら、僕は緒田くんへ、
「すみません、部室へ行かなければならないので、これで…」
「あ、いや、僕の方こそ長々と付き合わせてごめん。また教えてもらえるかな?」
「ええ、都合が付けば、いくらでもいいですよ」
と返すと、
「古泉」
と彼が唸る。
僕は慌ただしく荷物をカバンに詰め込み、彼に手首を掴まれて教室を出た。
ぐいぐいと連れて行かれることにも違和感を感じ、人気のない部室棟の階段に着いたところで、
「あの、どうかしたんですか?」
と声を掛けると、彼はいきなり足を止め、そのままその場にしゃがみこんだ。
「あの……?」
本当に、一体どうしたんだろう。
訝る僕に、彼はしゃがみこんだまま小さな声で、
「…すまん……。見損なっただろ…?」
と言う。
「いえ、見損なったりしませんよ?」
と言いますか……本当に、どうしたんですか?
「お前な……」
呆れきった声で呟いた彼が顔を上げ、僕を睨み上げる。
「…鈍いにも程があるだろ」
「……そう…言われましても……」
鈍い鈍いと何度も言われれば、僕だって流石に自覚は持つけれど、だからと言って何に気がついていないのかまでは分からない。
分かっても、精々自分がまた何かやらかしてしまい、しかもそれに気がつけていないらしいということくらいだ。
「あの…何か気に障ったん、です…か…?
怖々聞くと、彼は深いため息を吐き、
「……妬いたんだ」
「……え…」
妬いたって……一体どうして。
「同じクラスの、しかも男性と話していただけですよ?」
それが女性ならまだ分からないでもないのに、と戸惑う僕に、彼は眉を寄せながら、
「男だけど、あいつ絶対お前に気があるだろ」
「そんなことはないと思いますが……」
「鈍い奴は黙れ」
と一睨みで黙らされた僕に、彼はもうひとつため息を吐く。
「…全く……俺は女だけじゃなくて男にも妬かなきゃならんのか…?」
なんて、嘆かわしげに呟いている。
「ええと…あの、つまりはあなたも一緒に勉強したいんですか?」
「誰がそんなことを言った?」
呆れきった声で言いながらも彼はやっと笑ってくれて、
「…でも、そうだな。お前ん家で二人きりでなら、いいぞ」
「……何か、別のことをしてしまいそうですね」
僕が思わず苦笑すると、彼はまた眉を寄せ、
「文句でもあるのか?」
「いいえ、滅相もありません」
笑ってそう言うと、軽く叩かれてしまった。
くすくす笑い合いながら部室に行くと、既に涼宮さんも来ていて、
「おっそい! 一体どこでいちゃついてたのよ!」
と怒鳴られてしまった。
他愛もない冗談のつもりなんだろうけれど、僕たちとしてはびくつく他ない。
「すみません、少々話し込んでしまいまして」
「まあ、いつも早く来てる古泉くんだから許してあげるけど」
と言いながらも涼宮さんはどこか機嫌が悪い。
唇を尖らせながら、
「どこかで女の子に捕まってるとかだったら、許さないところだわ」
「ご心配なく。僕はそこまでもてませんから」
と、これは本心から口にしたのに、彼には睨まれ、みくるさんには苦笑され、涼宮さんには軽蔑にも似た呆れを頂戴してしまった。
「古泉くん…あなたねぇ……」
「はい?」
何かおかしなことを言っただろうかと首を傾げる僕に、涼宮さんはそれ以上何も言わず、部室の中にいくつかのため息が重なって響いた。
……やっぱり僕って、鈍いんだろうか。