おねこさま



思えば、非常に目立つことを繰り返してきた気がする。
彼とあからさまに喧嘩になってしまったこともあるし、公園なんていう公衆の場で彼と抱き合い、キスまでしてしまった。
デパートでの痴話喧嘩染みたやりとりも、その後ホテルに行ったことさえも、下手をすると全部筒抜けだったとしても不思議じゃないのに、未だに機関からは何も言われていない。
それがかえって不気味だと思った。
機関のことは、僕もよく分かっていない。
妙に肥大化してしまった組織だと言うことと、その徹底した秘密主義くらいだ。
僕に分かっていることは。
僕は、現場に立つ超能力者でありながら涼宮さんの観察者としてその身辺に送り込まれたせいで、非常に微妙な立場にいる。
末端とも、中枢に近いとも言いがたい、曖昧な位置だ。
加えて、彼との強い繋がりが出来てしまった。
機関の一部の考えからすれば、そんな僕を介して彼に影響を及ぼし、さらには涼宮さんに影響を与えようと考える動きが出てきたとしても不思議じゃないのにそれがない。
そうでなくとも、「神」の「鍵」たる彼と付き合っているなんてことが涼宮さんに知られてしまってはまずいと、注意や警告のひとつやふたつ、来てもいいはずだ。
なのに、それすらもない。
……まさかまだ気付かれていないのだろうか?
いや、それはないだろうなと、僕は即座にそれを打ち消す。
機関のことだ。
とっくの昔に気付いているに違いない。
みくるさんとの友人付き合いだって、早々に知られた上で、あくまでも個人的立場によるものであることを主張する破目になった上、最初の数回は接触毎に盗聴器を付けられ、報告書を書かされもしたものだ。
……途中からそうしなくてよくなったのは、僕たちが本気でどうでもいい話をしていたからなんだろうな。
機関が暗黙的に了解してくれた、ということは有り得るんだろうか。
現状からするとそうとしか思えないけれど、それこそ有り得ないものに思える。
既に涼宮さんに僕たちのことがばれていて、それを機関が知っている、なんてことでもない限り。
でも現実にそんなことはありえないわけで、謎は深まるばかりだ。
長門さんが何かしてくれているんだろうか。
そんなことを考えながら、機関への報告書類を作っていたら、
「まだか?」
と彼に伸し掛かられた。
背中に感じる体温も重みも愛おしくて堪らないけど、ここはぐっと我慢だ。
「すみません。もう少しだけ待ってください」
せっかく彼が来てくれているのに申し訳ないと本当に思う。
けど、だからと言って義務を放り出しては機関に対して隙を与えるだけだ。
彼も分かっていてくれているんだろう。
「ん」
と答えて、すっと離れていった。
そうしてくれるように頼んだのは自分のはずなのに、彼のいなくなった背中が妙にすかすかしているように思えた。
物足りないような、寂しいような、微妙な気持ちだ。
早く報告書を仕上げよう、と僕は分散しようとする意識をパソコンへと集中させた。
それでもやっぱり、同じ部屋にいる彼の動きは気になるもので、ついつい横目で伺ってしまう。
ソファに寝そべってテレビを観ている彼は、落ち着かない様子で寝返りを打ったり、ローテーブルの下を覗き込んだりしている。
時々はこちらをうかがい、それから台所に行って冷蔵庫の開け閉めを繰り返してみたりもする。
どこかそわそわしているように見える彼の様子に、僕は彼に気付かれない程度に首を傾げた。
落ち着かないんだろうか。
それとも何か気になることでも?
後で聞いて見てもいいだろうか、と思いながら僕はキーボードを叩き続けた。
そうして出来上がった報告書は誤字脱字のチェックもそこそこに保存し、暗号化して送信した。
よっぽど酷いミスでもない限りこれで大丈夫だろう。
ぐっと伸びをしたところで、
「終ったのか?」
と彼に声を掛けられた。
「ええ。お待たせしてしまってすみません」
「いや、いい。……それより、そろそろ飯にしないか?」
そう言われて時計に目をやると、既に夕飯の時間を過ぎていた。
「すみません。…先に食べていてもよかったんですよ?」
「いや、俺が勝手に待ってだけだから…」
決して僕の方を見ようとはせず、微妙に視線を外しながら言う彼に僕はにっこりと微笑み、
「ありがとうございます。嬉しいですよ」
「…ん……」
小さく頷いた彼の耳までほんのりと赤く染まる。
そんな彼を可愛いと思いながら、さっき抱いた疑問を口にした。
「……ところで、うちじゃ落ち着けませんでしたか?」
「へ?」
驚いたように彼は僕を見た。
落ち着かない様子だと思ったのは僕の勘違いだったのだろうか?
「いえ、…なんだかそわそわしているように見えたものですから」
「ああ、そういうことか」
と彼は笑って、
「そういうんじゃない。ただ、」
そっと伸ばされた彼の手が、僕の体に巻きつく。
「…ただ、我慢してただけで」
はにかみながらそういう彼に、
「お待たせしてしまってすみません」
と繰り返し、僕は彼を抱きしめ返す。
そうして、僕の膝に彼を引き寄せたところで、彼にキスされた。
触れるだけで離れていこうとしたそれを引き止めるようにもう一度口付ける。
柔らかな唇を舐めれば、それは僕を待っていたかのように開かれ、舌が触れ合う。
「ぁ…ん……ふ…」
水音と共に唇の間から零れる彼の声がとても艶めいていて、このまま止まれなくなるんじゃないかと思ったのに、
「…飯にするか」
とギリギリのところで止められてしまった。
これが彼の手なら、本当になんて駆け引きがうまいんだろうかと呆れながら賞賛しなければならないところだ。
それとも、これだけ待たせた分、僕も焦らされるということなんだろうか。
苦笑しながら、先に行ってしまった彼を追ってキッチンに向かう。
手早く作れるもの、ということで二人がかりでパスタをゆで、市販のソースを掛けて席につく。
「いただきます」
と二人手をあわせて食べ始めるのもくすぐったいくらい嬉しくてにやけていると、
「顔が緩みすぎてるぞ」
なんて怒られてしまったけれど、
「だめですか?」
「…だめ、とは言わんが……」
「なら、いいじゃありませんか。……幸せなんです。あなたのおかげですね」
「…ずるいぞ」
拗ねたように呟きながら、嬉しそうな顔をした彼に、
「今日は、泊まっていかれるんですよね?」
と問えば、恥ずかしそうに俯いて、
「そのつもりだ。…いいんだろ?」
「ええ、勿論です。……あなたが泊まってくださるというだけでも、嬉しいですよ」
「そんなもんか?」
「ええ。……一人は、寂しいですからね」
僕はずっとひとりでいた。
超能力なんて手に入れる前から。
家族も友人も、皆騙していた。
心から打ち解けられる人間なんて誰ひとりいなくて、それでいいと思いながら、寂しかった。
苦しかった。
だから僕は、みくるさんと親しくなれたんじゃないかと思う。
お互いに、ひとりの寂しさも苦しさも知っていたから。
みくるさんはこの時代ではひとりで、しかも未来の記憶も大部分を封印されているらしく、寄る辺ない身だった。
あるいは、涼宮さんが僕を選んだ理由もそれに起因しているのかもしれない。
一人は寂しいということを知っていると、違うものだ。
彼とせっかく楽しく過ごしていたのに、つい余計な一言を呟いてしまい、後悔した。
「すみません、いきなり妙なことを言ってしまって…」
そう言うと、彼はくしゃりと微笑みながら僕の頭を撫で、
「寂しくなったらいつでも言えよ。すぐに駆けつけてやるから」
「…本当ですか?」
「ああ」
「……ありがとうございます」
嬉しくて泣きそうだ。
たったそれだけ、誰にだって言えそうな簡単な言葉なのに、彼に言われただけでこんなにも嬉しい。
「あなたも、そうしてくださいね」
涙を堪えながらそう言うと、
「……そうだな。とりあえず、」
彼は悪戯に笑って、
「放っとかれて寂しかったから、かまえ」
と言った。
「…そんなに寂しかったんですか?」
「当たり前だろ。…せっかく、お前と一緒にいられるってのにお前は忙しそうにしてるし、邪魔しちゃ悪いとは思うのに我慢出来なくて結局邪魔しちまうし。……これでも凹んでたんだぞ」
そんな必要なんてないのに。
「すみません。明日は休みですし、食べ終わったらいくらでもお相手しますよ」
「よし、その言葉を忘れるなよ」
「はい」
くすくすと笑いあいながら、僕たちは食事を終えた。
食器の片付けもしないで、僕は彼に聞く。
「どうして欲しいですか?」
「んー……」
と小さく声を上げて可愛らしく考え込んだ彼は、椅子から立ち上がると僕のことを抱きしめた。
「抱きしめたい」
「抱きしめられたい、じゃないんですか?」
「それもあるけど、今はまだいい」
そう言った彼が僕の膝に腰を下ろす。
僕の頭をすっぽりと腕の中に抱きしめ、僕の髪に彼が鼻を埋めている気配がする。
僕はと言うと、彼の肌から立ち上るあまやかな薫りに色々と持っていかれそうな気分だ。
彼の胸に、首筋に、口付けたい。
食後のせいでいくらか体温が上がった肌はかすかに赤味を帯びていて、舐めたら美味しそうだと思った。
「ねえ、」
声を掛けると、どこかぼおっとした声で、
「ん…?」
と答えられた。
あの、寝ないでくださいね。
「寝れるか、こんな体勢で」
そう笑って彼は僕の額に口付ける。
くすぐったいのに、もっと彼に触れたくなる。
そうなるのは、彼がそうされたいと思っているからだと、思ってもいいんだろうか。
「触っても、いいですか?」
僕が言うと、彼は悪戯っぽく笑って、
「もうちょっと待てよ。もう少しだけ……お前を抱きしめさせろ」
「どうしたんです?」
彼はしばらく迷うように黙り込んでいたが、やがて小さな声で言った。
「お前の好きにさせたら…お前ばっかり大変だろ。俺だって、お前のこと触りたいとか気持ちよくしてやりたいとか思うのに、そんなもん、あっという間に吹っ飛んじまうし、結局俺ばかり気持ちよくされて、お前はどうなのかとか全然分からなくなっちまうし。そんなんじゃ……嫌なんだ…」
「何を仰るかと思えば、そんなことですか」
くすぐったい言葉に思わず笑いながら言えば、
「そんなことってのは何だよ」
と睨まれてしまったけれど、悪い意味で言ったわけじゃない。
「あなたばかりが気持ちいいなんてはず、ないでしょう? 僕も十分気持ちいいんです。それを言うなら僕の方こそ、あなたにばかり負担を掛けてしまって申し訳なく思っているんですよ」
「負担なんて、そんな…」
「ええ、分かってます。あなたが、それも含めて受け止めてくださっていることくらい。でも…僕も同じだとは思ってくれない人なんですよね? あなたは」
優しすぎる人だとずっと思ってきた。
いいことがあったらそれを人に分け与え、苦しいことや辛いことは全部ひとりで引き受けようとするような人だと。
でもどうせなら、なんでも分け合いたいと思う。
「苦しい時や悲しい時も、僕に分けてはくださいませんか。勿論、喜びも分け合いたいですけど、たくさんの喜びを分かち合うことよりも、苦しみを分かち合い、支えあうことの方が難しくて、でも、重要なことのように思えるんです」
「…そう……だな」
頷いた彼が、僕の頬に口づける。
「俺も、そうしたいから……お前も、俺にちゃんと色々話してくれよ?」
「ええ、勿論です」
「…本当だろうな?」
いきなりドスの効いた声を出されて、僕は反射的に身を竦ませそうになった。
「本当ですけど……ええと、なんか…怖いんですが……」
「お前にやましいところがあるからじゃないのか?」
憤然として言った彼は僕の耳に唇を寄せ、
「絶対だぞ。朝比奈さんじゃなくて、俺に、相談しろ。分かったな?」
と言って僕の耳に噛みついた。
「っ…!」
甘噛みなんてものじゃないそれに声を上げそうになった僕に、彼は悪戯に微笑み、
「俺はもっと痛いんだから、それくらい分け合ったっていいだろ?」
と言ってのけたのだった。

絶対にこの人には勝てないと、僕は一体何度悟ればいいのだろう。