晴れやかな、それでいてどこか落ち着かない朝を迎えたのは、今日が月曜日であり二日ぶりに登校しなければならないからというよりも、昨日の彼とのことを思い出してしまうからだろう。 顔が赤くなりそうになるのを無理矢理抑えながら身支度を整え、僕は部屋を出た。 今日は一日、勉強もろくに進まないんだろうなと困りながら、それがどうしてか嬉しくて、思わず顔が緩む。 それでもどうにか表面上は平静を保ちながらみくるさんとのいつもの待ち合わせ場所に立っていると、 「よう」 と彼に肩を叩かれた。 「あ……」 一瞬反応が遅れたのは、やっぱり気恥ずかしさがあったからだ。 加えて、彼が昨日見せた艶かしい姿態が過ぎり、慌てて打ち消す。 「おはようございます」 「朝比奈さんはまだなのか?」 きょろきょろと辺りを見回す彼は小動物めいていて可愛い。 「ええ、そろそろいらっしゃると思いますよ」 「そうか。…じゃあ、朝比奈さんが来るまで一緒にいさせてくれ」 「一緒に登校してもいいと思いますが…」 「そういう訳にもいかんだろ。朝比奈さんのファンクラブがせっかくお前で納得してくれてるのに、俺なんかが邪魔してたら今度こそ俺が呼び出しを食らうところだ」 「そうですか?」 「そうだろ。…お前、呼び出されたりしてないのか?」 心底不思議そうに問う彼に僕は苦笑して、 「一度呼び出されましたよ? しかし、至って穏当な話し合いで終ってくださいました。やはりみくるさんのファンだからでしょうか。彼女の幸せを一番に考えてくださっているようで、」 と僕は声を潜め、 「それだけに、彼らに嘘を吐いてしまっていることが少々心苦しくも思うのですが」 「そこまで気にしてやることはないだろ」 あっさりと、いっそ冷たいほどに彼はそう言った。 「どちらにせよ、朝比奈さんはこの時代で誰かを好きになったりするわけにいかないんだろ? それなら余計な期待は持たせない方が親切ってもんだ」 「そうですね」 僕はそう同意を示したのだけれど、どうにも落ち着かず、視線をさ迷わせた。 彼の顔色は悪くない。 むしろ、先週よりもずっといいくらいだ。 口元に浮かべられたものは、少々悪意めいたものを含んではいるものの、柔らかな笑みであり、悔しげな表情ではない。 いつものようにだらしなく緩められた首元にも昨日の行為を思わせるものは見えていない。 あれだけ冷静には程遠い状況であっても、一応ちゃんと後のことを考えてはいられたらしいと自分にほっとしながら、さらに彼の観察を続ける。 と、そこで、 「…なんだよ、人のことジロジロ見たりして…。変な奴だな」 と言われてしまった。 「すみません」 反射的に謝った僕に彼は首を傾げながら、 「何か気になることでもあるのか?」 「えぇと……」 「あるんだな。なんだ?」 彼の察しのよさを喜ぶべきなんだろうかと思いながら、僕は小さくため息を吐き、仕方なく正直に言った。 「…腰とか、大丈夫ですか? 痛んだりしません?」 「っ!?」 ぱっと彼の顔が朱に染まる。 そうされると余計に昨日のことを思いだしてしまいそうだ。 昨日もこんな風に綺麗に顔を赤く染めながら、そのくせ酷く大胆に振舞って僕を翻弄してくれたんだった。 「――この、ばかっ! 思い出させるな!」 それはむしろ僕の台詞じゃないかなと思いながら、 「すみません、でも、少々不安に思いまして。……ちゃんとあなたを気遣えた自信もないものですから」 「うぅ…」 彼は唸りながら僕から目をそらすと、 「平気、だ、から、んな心配、するな。…余計に恥ずかしいだろ……」 としどろもどろになりながら答えてくれた。 そんな話し方も仕草も可愛くて、くらくらしてしまいそうだ。 許されるならこのままこの場で抱きしめてしまいたいくらい、可愛い。 「本当に大丈夫ですか?」 「ああ…」 呻くように答えた彼は、弾かれるように顔を上げると、 「朝比奈さんだ」 と呟くように言った。 その言葉に釣られて僕が朝比奈さんがいつも姿を見せる路地の方へ目を向けると、彼はそれとほとんど同時に、 「それじゃ、また放課後にな」 という言葉だけを残して走り去ってしまった。 朝比奈さんの姿はまだ遠い。 もう少し話していてもいいはずだろうにと思いながら、赤く染まった彼の耳を見て、そんな風に逃げ出したいほど恥ずかしかったんだろうかと首を傾げさせられた。 …昨日彼が平気な顔でしていたことの方がよっぽど恥ずかしいだろうに。 「おはよう、一樹くん」 いつもながら柔らかな笑みと共に言ったみくるさんは、 「キョンくんと一緒に来たんですか?」 「たまたまここでお会いしただけですよ。それより、昨日はすみませんでした」 みくるさんの手からカバンを取り、歩きだしながら僕が言うと、みくるさんは悪戯っぽく苦笑した。 「あたしは別にいいんです。一人でもちゃんと楽しめましたから。それより、一樹くんはどうだったの? あの後、ちゃんと仲直り出来たからさっきもあんな風に楽しく話せてたんだとは思うけど……」 あれだけ遠目だったのに、それでもお見通しなのか、と苦笑しながら、 「ええ、大丈夫です。ちゃんと話し合えましたよ。そもそも、仲違いというほどのことでもなかったんです」 と大雑把に答えた。 それは、具体的に話せば後で彼に知られたら、さっき以上に恥ずかしがられるだろうことが簡単に予想出来たからでもあるし、余りにもちゃんと話そうとすれば、昨日のことをありありと思い出してしまい、僕が非常に困ったことになってしまう可能性もあったからだ。 「なら、よかったです」 僕の少なすぎる説明に不満を持った様子もなく、みくるさんは言ってくれた。 「もしあのまま喧嘩しちゃったりしてたらどうしようかと思ってたんです。でも、昨日よりもずっと仲良くなれたみたいで、本当によかった」 ええ、全くその通りです。 喧嘩どころか、と思い出しかけて僕は慌ててそれを打ち消した。 「みくるさんとのことも、ちゃんと納得してもらえたはずですから、もう心配はないと思いますよ」 僕が言うとみくるさんはほっとした様子を見せた。 それでも、すぐにそれを引き締めると、 「だからって、もう二度とキョンくんを蔑ろにしたりしちゃ、だめですよ」 と僕に釘を刺してくれたけど、杞憂だと思いますよ? 予想通り、授業にろくろく集中出来ないまま、僕は放課後を迎えていた。 一度も当てられなかったのは不幸中の幸いという奴だろう。 残念ながら、クラスメイトには、 「今日はなんだか様子がいつもと違うね。いいことでもあった?」 と聞かれてしまったけれど、瑣末なことだろう。 僕は彼に会うべく、足早に部室へと向かっていた。 先週までと比べて、なんと足が軽いことだろう。 彼と顔を合わせると思うだけで気が重くなるばかりだったはずの道程が、今は、彼に会えると思うだけで酷く楽しいものに思えるのだから、人間というのは本当に現金に出来た、分かりやすい生き物だ。 軽くノックをすると、 「はぁい」 とみくるさんの返事が聞こえた。 僕はいそいそとドアを開け、みくるさんの肩越しに彼の姿を見つけて思わず微笑んだ。 「涼宮さんだけ、ですか? まだいらっしゃらないのは」 読書中の長門さんに会釈だけを一応して僕が聞くと、みくるさんは頷いて、 「そうなんです」 「掃除当番なんだよ」 と答えてくれたのは彼だった。 「ああ、そういえばそうでしたっけ」 「おかげで静かでありがたいな」 「またそんなことを言って…」 先週までは彼も僕同様に、涼宮さんがいないだけで重苦しくなる部室の空気にうんざりし、彼女の存在をありがたく思っていたはずなのに。 それにつけても、と僕は室内を見回しながら自分の席に腰を下ろした。 先週までと打って変わって、部室がとても明るくなったように思える。 あれほどまでに暗く感じさせたのはやはり心理的なものであるらしいと感じると共に、少なからず責任を感じ、申し訳ない気持ちになった僕の前で、彼がごそごそと身動ぎした。 座っていた椅子を軽く動かし、僕の真正面へとずらす。 それも、抑えきれないと言うような笑みと共に。 「やっぱり、お前の真正面じゃないと落ち着かんな」 「っ…!」 思わず絶句した。 何とも言いがたいほど彼が可愛くて仕方ない。 抱きしめてキスしたいくらいだ。 流石に自重したけれど、バカップルとしか言いようがない僕たちをみくるさんも長門さんも穏やかに見守ってくれていた。 そうだ。 「長門さん、」 僕は立ち上がり、長門さんの側に立って言った。 「本当に、ありがとうございます。色々と手を焼いてくださったようで…」 「…いい。私がそうしたくてしただけ」 彼もこちらへ来ると、 「繰り返しになるが、ありがとな。お前と朝比奈さんがいなかったらどうなってたか分からん」 そう、最悪のパターンはいくらだって予想出来るだろう。 無数のそれのどれにも陥らずに済んだのはひとえに彼女らのおかげなのだ。 改めて、 「ありがとうございます」 と頭を下げた僕に、長門さんとみくるさんは、 「気にしなくていい」 「そうですよ。そんなことしてるくらいなら、もっと嬉しい顔しててください。その方があたしたちも嬉しいです」 と言ってくれた。 それでもなんとなく席にも戻り難く、互いに顔を見合わせた僕たちに、長門さんが言った。 「……そろそろ涼宮ハルヒも来る」 「それでは、ちゃんといつも通りにしていた方がよさそうですね」 苦笑しながら僕は席に戻り、彼も席に戻りかけて、棚の前で足を止めた。 「古泉、ゲームでもするか?」 なんて、これまでなら彼からは言ってもらえなかったような言葉をもらい、僕は嬉しさに顔をほころばせた。 「ええ、喜んで」 「何がいい?」 「あなたにお任せしますよ」 「それじゃ…」 と彼が取り出したのはチェスだった。 てっきり、オセロでも持ってくるかと思ったんだけれど。 「オセロよりチェスの方が好きなんじゃないのか? わざわざ持ってきたくらいだったから、そうかと思ってたんだが」 「特にそういうわけじゃありませんよ。単純に、ずっと同じゲームではあなたの方に飽きられてしまうかと思っていただけで」 と返しながらも、僕は胸が喜びに暖まるのを感じた。 もう随分と以前のことを彼がそんな風に覚えていてくれて、しかも僕が好きだろうからとチェスを選んでくれたなんて。 それだけのこと、と言ってしまえばその通りかもしれない。 でも、僕にとってはとてつもなく嬉しいことで、 「ありがとうございます」 と言ったところで、彼は軽く頬を赤くしながら、 「別に、俺から誘ったから、お前が好きなゲームの方がいいかと思っただけだ」 と照れ隠しでもするように、不貞腐れた表情で言った。 ああもう本当に可愛い人だ。 ちまちまとチェスピースを並べる手を握り締めてしまいたくなったところで、ドアが開いた。 「やぁっほーう!」 いつにも増して上機嫌に見える涼宮さんは、晴れやかな笑顔と共に登場した。 「こんにちは」 「ハルヒ、お前もう少し静かに入って来れないのか?」 呆れたように言った彼の言葉にも、彼女は傷ついた様子は見せなかった。 むしろ楽しげに、 「別にいいでしょ。ここんとこ暗かったから、跳ね飛ばしてやろうと思ったのよ。でも、」 僕たちをぎくりとさせるような言葉を言って、彼女は笑った。 「もう大丈夫みたいね。ちゃんと仲直りしたの?」 ここでとぼけても仕方ないだろう。 僕は作り笑いを崩さないようにしながら、 「ええ、ご心配をお掛けしてしまってすみません」 「というか、お前、気がついてたのか?」 むしろそっちの方がよっぽど無神経に思える言葉を言った彼に、涼宮さんは軽く眉を寄せて、 「あんた、あたしを何だと思ってるのよ。あたしだってちゃんと見てるんだから分かるわよ。――それで、」 ニヤリ、と人の悪い笑みを見せた彼女は、 「結局キョンがみくるちゃんを諦めたの? それとも、みくるちゃんが身を引いたわけ?」 今度こそ、僕たちは絶句した。 彼女が僕たちの間がぎこちなくなっていた理由を見抜いていたなんて。 それも、当事者である僕たちすら誤解していた奇妙で複雑な三角関係まで把握しているような言葉に、誤魔化す言葉さえ失った。 そんな僕らを笑って、 「――なんてね」 と彼女は面白がるように言った。 え、と呟かなかった自分を褒めてやりたい。 それくらい、気が抜けた。 そんな僕に気がついているのかいないのか、彼女はにこにこと、 「キョンがちゃんと諦めたんでしょ? そうじゃなかったらみくるちゃんがこんなに楽しそうにしてるはずないし、大体、古泉くんだってキョンとみくるちゃんなら当然みくるちゃんを選ぶわよね」 どうやら、ただの冗談だったらしい。 だとしたら僕たちのさっきの反応はまずかっただろうか。 内心でかなりうろたえる僕とは逆に、彼はほっと息を吐き出すと、 「驚かせるな。妙なことを言い出すから心臓が止まるかと思ったぞ」 「何かやましいことでもあるからそうなるんじゃないの? で、結局どうなの?」 「お前には関係ないだろ、どうであっても」 うわ、またそんなことを言ってわざわざ機嫌を損ねなくても、と慌てかける僕とは逆に、彼女は楽しげな様子を保ったまま、 「それもそうね」 と言った。 唖然とするほど驚いたのは、どうやら僕だけだったらしい。 彼は特に驚いた様子もなくチェスピースを並べている。 「キョンもみくるちゃんも古泉くんも悲しんでなくて、楽しそうならそれでいいわ」 そう本当に嬉しそうな声で言った彼女に、僕は何も言えなかった。 彼女はこんな人だっただろうか。 こんなに柔らかな声で、優しい言葉を口にするような人だったのか? その驚きを納得に変えられないままだった僕はつまり、ゲームに集中出来たはずもなく、久しぶりのゲームでかなり酷い負け方をしてしまったのだった。 帰り道をみくるさんと彼に挟まれて歩きながら、僕がそんな疑問を口にすると、彼は呆れたように僕を見た。 「お前な…。ハルヒとどれだけの付き合いだと思ってるんだ?」 「精々一年ちょっとですが」 「それだけありゃ十分だろ。あいつは結構単純で分かりやすいんだから」 お前のがよっぽど分からん、なんてぼやきながら、 「あいつはあんなもんだ。…お前の立場とかを考えると仕方ないのかも知れんが、そう見くびってやるなよ」 とお説教をくれた。 「そうですね。……でも、本当にビックリしました」 僕がそう正直に口にすると、 「あいつはお前が思ってるほどガキでもないだろ」 そう断言する彼と涼宮さんの関係にちょっと妬けそうになりながら、僕は頷いた。 「それより、」 と彼は落ち着かない様子で身を捩ると、 「三人で帰ったりしていいのか?」 と不安げに口にした。 「今更何を言い出すんです? あなたが、そうしたいと仰ったんでしょう?」 みくるさんが着替え終わるのを待っている間にこっそりと、 「俺も一緒に帰るからな」 と耳打ちしたのは間違いなく彼だ。 僕としては彼を誘おうかどうしようかと迷っていたところだから一も二もなく了解したのだけれど、それでもまだ不安要素があるというのだろうか。 「やっぱり変に思われたりしないかと思ってな…」 そう言ってため息を吐く彼に、 「堂々としていればいいんですよ」 と僕が言えば、みくるさんも笑顔で、 「そうですよ。あたしも、キョンくんと一緒に帰るのって新鮮で嬉しいですし」 彼はみくるさんの言葉に安心した様子で、 「ありがとうございます」 「あたしこそ、お邪魔しちゃってごめんなさい」 いいんですよ。 「いいんですよ」 僕と彼の言葉が綺麗に揃い、僕たちは思わず声を立てて笑った。 こんな風に笑えることさえ幸せに思える。 と、その笑い声を聞きつけたのだろう。 十m程度先を進んでいた涼宮さんがこちらを振り返り、 「なんだか知らないけど楽しそうね。あたしも混ぜなさいっ! ほら、有希も!」 と駆け戻ってくる。 「みくるちゃん、キョンがいたら邪魔でしょ。あたしが先に連れて行ってあげよっか?」 なんてお節介を言ってみたりしながら、僕たちは久しぶりに5人そろって楽しい気持ちで下校した。 そのこと自体が嬉しくて、幸せで、――逆に不安になりかけるのは、僕の癖というしかない。 幸せになり過ぎると逆に不安になってしまうのだ。 これを失った時、僕はどうなってしまうのかとか、いつまでこれが続くのだろうかとか、今考えたところで仕方がないことばかり考えてしまいそうになる。 そんな僕の思考を見抜いたように、みくるさんは軽く僕の額を突くと、 「また余計なコト考えてるでしょ」 勿論、涼宮さんとは別れた後で言われたのだけれど、それでもどきりとする。 そんなに僕は分かりやすいだろうか。 涼宮さんに気付かれたりしてないだろうか。 戸惑う僕に彼も苦い表情を見せ、 「朝比奈さんの仰る通りだ。嬉しいなら素直に喜んでればいいだろ、バカ」 と叱ってくれる。 ああどうしよう。 それも嬉しくて、幸せに思える。 「…はい、すみません」 込み上げてくる笑みと共に素直にそう言ったのに、彼は余計に顔をしかめ、 「怒られて喜ぶな、キモイ」 と冷たい言葉をくれた。 「いったい僕にどうしろって言うんですか…」 少しだけれど悲しくなりながらそう呟いた僕に、みくるさんはうふふと楽しげに笑いながら、 「キョンくんは照れてるだけですよ」 と言った。 「違いますっ!」 慌てて叫び返す彼の顔は赤くなりかけていて、みくるさんの言う通りだろうか、なんて自分に都合のいいことも思えてしまえる。 「うふ、可愛い」 なんて言ったみくるさんには、心の底から同意を示しておいたことは言うまでもない。 この幸せが、本当に日常になるよう、僕は祈った。 何に祈るのかなんて分からなかったけれど、とりあえず涼宮さんに祈っておいたらいいような気もする。 それは僕のただの思い違いなのかもしれないけれど、彼女なら何でもどうにだってしてくれるように思えたし、いるのかどうかも分からない神よりも、身近な、頼りになる人に祈る方がいいはずだから。 現に、僕たちを幸せにしてくれたのは身近な人たちだ。 だから僕は彼女らにも感謝し、また祈った。 この幸せが続きますように、と。 欲張りかもしれないと思いながら。 |