おもい



彼と一緒に店を出て、どこか落ち着いて話せる場所を求めて歩きながら、僕は横目で彼を見た。
見慣れない服装は、もしかすると変装のために長門さんが用意したのだろうか。
かっちりとしたシャツにベスト、細身のネクタイに加えて、キャスケット帽と小さな丸いサングラスまで身につけていて、ぱっと見、彼とは気付けないくらい、いつもと雰囲気が違う。
白と黒のモノトーンだけで構成された服装からは硬い印象を受けてもいいだろうに、今の彼はどこか頼りなく、儚げにさえ見えた。
ほっそりとした肩が今もまだ震え、赤いままの顔を隠そうとキャスケット帽を目深に被っているのが可愛い、と思いかけて、僕は慌てて頭を振った。
そんな場合じゃないだろう。
「そこの、公園のベンチにでも座りましょうか」
なんとか平常心を保とうとしながら口にした言葉は、ぎこちなくかすれていて、失敗したと僕は思ったのだが、彼の方にはそんなことを気にする余裕もないらしく、黙ったまま、こくんと頷いた。
本当に、どうしたのかと聞きたくなる。
いつになく弱々しく見える彼は、余計に庇護欲を煽り、僕はそのまま彼を抱きしめたくなるのを抑えるのに必死になるしかない。
だから、余り近くに彼を感じたくなくて、少しだけ離れ気味にベンチに座ると、先に座った彼がびくりと体を竦ませるのが分かった。
一声掛けるべきだったんだろうか、と思いながら横目で彼をうかがう。
相変わらず耳まで真っ赤になって小さく震えている彼は、普段とは似ても似つかないほど頼りなく見える。
服装のせいだろうか。
それとも、本当はこんなに弱々しい人なんだろうか。
なんと声を掛けていいのかも分からず、黙ったまま、僕は彼の様子を探り続ける。
彼も同じなのだろうか。
時折ちらりとこちらに視線が向けられたかと思うと、ぱっとそらされる。
それを何度も繰り返した後、先に口を開いたのは彼だった。
「…お前、朝比奈さんと、付き合ってんじゃ、なかった、の、かよ…」
ずっと黙っていたからか、それとも彼も緊張しているのか、彼の声が震えていた。
泣いているんじゃないかと思うほどに。
それでも向けられる瞳は濡れてはおらず、真っ直ぐ僕を見つめていた。
その強さに、もう嘘は絶対につけないと思った。
たとえ、さっきのやりとりを聞かれていなかったとしても。
大体、僕の方ももう限界だったのだ。
彼にこれ以上の嘘は吐きたくないし、吐けなかった。
「すみません。…嘘を、吐いていました。みくるさんは、ただの友人です」
ただの、と言ってしまうには随分親しくさせてもらっているけれど、それでも友人という範疇から出るものではない。
「俺のこと、好き、っての、は…?」
「……本当、ですよ」
そう言ってしまうと、安堵した。
重たいものを捨てられたような思いさえ、した。
でも、それは捨てたんじゃない。
彼に渡してしまったのだ。
そんな、重たくて苦しいものを。
実際、彼はまたもやしばらく黙り込んでしまった。
その顔から赤味が引くこともない。
赤面症のように真っ赤になったままのその頬に触れたいと、思ってしまった。
持ち上げてしまいそうになった手を、彼の手が包むように握りこみ、胸がざわつく。
彼の手は暖かくて、かすかに震えていた。
「…っ、俺は、お前と朝比奈さんが、付き合ってると思って、だから、諦めなきゃ、ならんと思って、それで…苦しくて、辛くて、堪らなかったん、だぞ…。何度も、噂を聞いたし、一緒にいるところも、見た、から……。苦しくて、苦しくて、…長門に、慰めてもらったり、しちまう、くらい…」
「すみません」
「食欲も、なくなって、勉強なんかも出来なくなるし、俺が、不眠にまで、なって…それくらい、辛いのに、諦められなくて……」
「そんなに…」
僕よりもよっぽど酷い状況じゃないかと驚いてそう呟けば、彼はこくりと頷いた。
そのまま、うな垂れるように顔を伏せてしまう。
「諦め、られねえのに、だからって、割って入るようなことは、もっと、出来なかったんだ。それくらい、幸せそうに、見えた、から……」
「…すみません。全部、お芝居だったんです。だから、もう、苦しまなくていいんですよ」
そう言いながら、僕は彼の手を握り締める。
こうして触れられるのは最後かもしれないと思いながら。
「みくるさんのことを、幸せにしてあげてください」
僕はもう満足だ。
彼に思いを知ってもらえたから。
それだけで、十分だ。
これ以上の幸せなんて、望んではいけない。
そう、本気で思ったのに。
「…っ、違う!」
恥ずかしさよりも怒りに顔を赤く染めて、彼が僕の肩を痛いくらい強く掴む。
「この、馬鹿! 違うんだよ。というかお前はどれだけマイナス思考なんだ!?」
そう怒鳴りながら、彼の腕が僕の肩を過ぎ、背中に回される。
体が密着する。
暖かいと感じるより早く、彼が叫ぶように、けれど大きく出すことも出来なかったような掠れた声で言った。
「…俺の、好きなのは、お前だ…っ!」
――世界が停止したかのように思えた。
少なくとも、僕にとっての世界は、一瞬、終ってしまったんじゃないだろうか。
これまでの自分の価値観も人間関係も全てを破壊され、再構成されるように感じるのは、別にこれが初めてじゃないけれど、前の時よりもよっぽど劇的な変化に思えた。
「ほん…とう……ですか…?」
「冗談で、言えるか…!」
そう言った彼の声はもう完全に涙声になっていた。
「お前が、好きなんだ」
はっきりと告げた彼が、すがるように僕を抱きしめる。
数日前、長門さんにそうしていたように。
あるいは、その時よりもずっと強く。
それにしても、いいのだろうか。
こんな風に目立つ場所で、こんな風に抱き合って。
「あの、少し、離れませんか? 今のままだと目立ちますし、目を見て話すことも出来ないのですが…」
なんとかそう提案したものの、彼は僕の背中に痛いほど爪を立てた上で、
「んなもん、知るかっ。人目なんか、気にしてんじゃねえよ。あと、頼むからこっち見るな。見られたく、ないっ…」
彼の方こそ、人目を気にする人のはずだった。
たとえ相手が女性であっても、こんな風に街中で抱き合ったりすることを躊躇うような人のはずだった。
それなのに、こんな風に必死になっている。
僕の、ために。
「…本当に……そんなに、僕を…?」
彼の言葉を疑うわけではない。
ただ、彼が僕を好きだと告げてくれることが信じられなかった。
僕は、彼に思われるような人間じゃなくて、それどころか、彼の隣りにいることを許されるような人間でもないのに。
「好きだ…っ、好き、なんだ…」
愚かな僕に言い聞かせるように彼はそう言ってくれた。
そうして、すすり泣きながら、
「噂を、聞いた時はまだ、お前に嫉妬したと、思ってたんだ。朝比奈さんへの憧れは自覚してたからな。…けど、そのうち、おかしいって、思って…、朝比奈さんと一緒にいるお前じゃなくて、お前と一緒にいて、お前に幸せそうな顔をさせられる朝比奈さんに、妬いてるんだって、気付いちまったんだ…」
ぐす、と啜り上げる音が響く。
それさえ、耳障りには思えなくて、むしろ心地好く思えた。
一体何人が彼のこんな姿を見て、こんな声を聞いただろう。
決して多くないだろうそれに自分が含まれることがくすぐったく、嬉しかった。
「一緒に登校してるところとか、親しく話してるところとか、見ちまうだけで、苦しくて、辛くて、嫌で、…っ、どうしようも、なく、なって、今日も、お前がデートするんだと思ったら、じっとして、らんなくて、気がついたら家を出てたんだ…。それで、朝比奈さんを見つけて、後をつけようとしてたら、長門に声、掛けられて、お前に見つからないようにしてもらって……」
それではやはり服は長門さんが用意したんだろう。
他にも何か細工をしたとしか思えない。
そうでなければ、誰かにつけられていればそうと分かったはずだ。
どうしてそこまで、と思いながら、そうしてもらえたことがありがたい。
彼の顔が押し当てられた肩が、じんわりと湿り気を帯びてくるのが分かる。
人前でそんなにも泣く彼なんて、今こうして腕の中に抱いていても想像出来ない。
「ずっと、俺はおかしいんだと、思ってたんだっ……。絶対、誰にも言えないと、思って、て…。それで、どうにかなっちまいそう、に、なってたら、長門が、なぐさめてくれたんだ…」
「ああ…先日のことですね」
こくん、と彼が頷いたのが肩に触れる感触で分かった。
「…僕も、苦しくなりましたよ。あの時……」
「…嘘だろ……?」
「本当です。あなたには長門さんがいるんだと思ったら、長門さんに嫉妬して、酷いことをいくらでも言ってしまいそうになったくらいです」
「じゃあ…俺も、おかしく、ないのか…? お前のことを好きで、こんな風に、嫉妬して、どうしようもなく、なっちまって、いいのか…?」
「嬉しいですよ」
彼が落ち着いてきたのを確認して、僕は自分のことを話し始めた。
「僕も、ずっと諦めなければならないと思って来たんです。あなたは涼宮さんに選ばれた人ですし、それ以上に、あなたの評判に傷をつけるような真似をしたくありませんでしたから。だから、みくるさんと噂になったのをいいことに、彼女にも嘘を吐いてもらって、諦めようと思ったんです。あなたに徹底的に嫌われてしまえば諦められると思って…」
全てはどうやら逆効果だったようだけれど。
「…お前、バカだろ」
呆れ返った様子の彼の声が耳に痛い。
「そんな風にして諦められるのかよ。大体、そうやって俺や朝比奈さんや長門まで振り回してどうするんだ。お前、そんな奴だったか?」
「すみません。でも、それが一番だと思ったんです…」
「……今は?」
「…はい?」
「今はどう考えてるんだ? まだ諦めようとかバカなこと思ってるんじゃないだろうな?」
僕は拗ねたような彼の口ぶりに苦笑しながら、正直に答えた。
「もう、思ってませんよ」
そんな風に諦められるものではないと分かったし、彼も僕を好きだと言ってくれた以上、諦められるはずなどない。
「それにしても……そんなことのために、ああやって一緒に帰ったり出かけたりしてたのかよ」
「すみません…」
「抱き合ったりも、してただろ」
それはみくるさんが僕を慰めようとしてのことだし、
「あれはただのハグですよ」
と答えたのだが、彼は不機嫌さを丸出しにするように沈黙した。
まずいことを言ってしまったか、と慌てながら、
「あの……」
と声を掛けると、
「どういうことまでしたんだ?」
厳しい口調で問われた。
「どういうことまでって……」
「それ以上のことも偽装工作としてしたりしたのかって聞いてるんだ」
「してません。ハグまでですよ。それ以上のことなんて、まさか、」
「――じゃあ、」
僕の言葉を遮った彼が、少しだけ体を離した。
やっと見えた彼の顔はやはり不機嫌そうにしかめられていたのだが、それがもう一度近づいた、と思うと唇に何かが触れた。
それが何かなんてことは考えなくても分かる。
分かるのだけれど、理解しかねた。
どうして、と戸惑い、赤くなる僕に向かって、
「これで俺の勝ちだな」
と得意げに笑う彼は本当に可愛い。
でも、
「勝ち負けの問題じゃないでしょう?」
そう僕が笑えば、彼はうるさい、と小さく毒づいた後、もう一度至近距離まで顔を近づけ、
「それより、何か言うことがあるんじゃないのか?」
拗ねた子供みたいに言った。
そんなところも可愛い、と思いながら、僕は笑って、
「あなたが好きです。僕と付き合ってください」
と告げた。
ここまできてどうしてと思うほどドキドキして、胸が痛いくらいだ。
すぐさま破裂してしまいそうなほどなのに、彼はこれまで散々酷い目に遭わされたお返しのようにしばらく黙り込んだ。
意地悪な笑みを浮かべながら。
それでも、そんな表情さえ愛おしい。
「いいだろう」
たっぷり気を持たせた挙句そう告げて、彼は僕を抱きしめなおし、もう一度キスをしてくれた。