涼宮さんがいないせいか、文芸部室内の空気が重い。 いや、それが涼宮さんの不在のせいでないことくらい、僕にもよく分かっている。 ただ、少しずつではあるものの、この重苦しい拷問のような時間が、「日常」になり果てつつあるせいで、彼女がいないから空気が重いと感じてしまうようになっているだけだ。 涼宮さんがいれば、少しは空気の重さが緩和され、表面上はこれまでとほとんど変わらないような状況が続く。 けれど、彼女がいなければ、誰一人口を開かず――あるいはそうすることも出来ず――、ただこの時間の終るのを黙って待つだけになってしまう。 もっとずっと、楽しかったはずの時間と空間が、辛いものに変わってしまった。 その責任は間違いなく僕にあり、僕がこうして嘆く筋合いなどはない。 むしろ、みくるさんと長門さん、それから彼に謝るべきなのだろう。 そんなことは出来ないけれど、もしそうするだけの勇気が僕にあったとしても、今のこの部屋には、謝罪を口にすることさえ許されないような空気が満ちていた。 たとえば、何らかの目的があって設立された組織があったとする。 そこには本来その目的の達成のためにだけ人がいて、そのためだけに尽力する以上、個々人の問題は活動に何ら影響を与えないはずだ。 しかし実際には、プライベートな厄介事が起きることでその個人だけでなく、組織全体にまで悪影響を及ぼすということは少なからずある。 今のSOS団の状況は、その典型的事例のように思えた。 だから涼宮さんは、色恋沙汰なんてものは余計なものとして切り捨てるんだろうか。 だとしたら、その判断は正しいに違いない。 恋愛感情なんて面倒なものがなければ、こんなことには決してならなかったのだから。 その涼宮さんも、今の状態に違和感や、あるいは閉塞感を持っているのだろう。 部室に寄り付かないと思ったら、何かこの空気を一変させるような手段を求めて、あちこち駆けずり回っているらしい。 彼女も面倒見がよくなったということだろうか。 それとも単純に、自分が面白くないからなのかもしれないけれど。 ため息を吐くことすら躊躇われるような空間で、僕はそっと目を伏せる。 そうすると余計に、僕の正面からやや斜めにずれた位置に陣取った彼の姿はほとんど見えなくなる。 見えるのは、僕を見ないように体の角度をずらし、しかもなかなかページをめくることもされない雑誌を、開いたままぼんやり眺めている彼の、肘の辺りくらいだ。 彼のように本を読むことも、あるいはそうするフリをすることも出来ない。 勉強にも身が入らないので、今度の試験は間違いなく悲惨な結果となることだろう。 彼と目も合わせず、言葉も交わせず、一緒にゲームをすることもないという、ただそれだけで、日々が酷く色褪せて見える。 虚ろで、悲しく、このままなくなってしまえばいいとさえ、思ってしまいそうになるのを留めるのは、まだ僕が彼を愛しているからで、しかし苦しみを感じるのもまた、それが原因なのだ。 なんでこんな面倒な思考を持ってしまったんだろう、僕は。 自分で持て余すほど大きくて、どう対処したらいいのかも分からず、誰に聞いても答えてくれないような感情なんて、余計なだけなのに。 笑顔を作ることも出来なくて、「古泉一樹」らしからぬ表情だけでも隠そうと、僕が俯いたところで、不意に頭に手を載せられた。 「一樹くん」 困惑と覚悟の入り混じったような不思議な笑みを浮かべたみくるさんが、僕の頭を撫でながら言う。 「何があったのか分かりませんけど、」 というのは彼の目の前だからだろう。 実際は僕の心情など僕以上によく分かっているに違いない。 「落ち込んでばかりじゃだめですよ」 「それは…そうかもしれませんが……」 「だから、」 みくるさんは今度こそ、悪戯っぽく、同時にとても楽しそうな微笑を見せ、 「あたしと、お出かけしましょう」 「お出かけ……ですか」 「はい」 どうして彼の神経を逆なでするようなことをみくるさんがしようとするのか分からなかった。 今も、彼は余計に表情を暗くして、雑誌を持つ手を震わせているのに、殊更に、彼に聞かせるようにするのが分からない。 しかし、 「…そうですね」 と僕が頷いたのは、先日の、みくるさんの発言を思い出したからだ。 『あたしを信じてくださいね』 という言葉と、何か企んでいるようにしか思えない笑みを。 みくるさんはほっとしたように、 「よかった。じゃあ、明後日の土曜日、駅前のいつもの場所で待ち合わせでいいですか?」 「ええ。時間も…いつも通りでいいですか?」 「はい」 頷いたみくるさんは何か思い出したように、 「…楽しみにしてますね」 と付け足した。 いささかのわざとらしさを感じないでもなかったが、僕は無理矢理作った笑みと共に、 「僕も、楽しみにしてます」 と、恋人としての演技として、付け足した。 正直なところ、みくるさんとも会いたくないくらい、僕は疲れ切っていた。 今、長期の休みに突入したらそのまま引きこもりになって、頭にカビが生えるに違いないというくらいには。 だからかえって、そうして無理をしてでも出かけるのはいいことなのかもしれない。 そう、なんとか自分を納得させながら、僕は必死に彼を視界から排除し続けた。 彼がどんな顔をしているか、彼が震えているのかどうか、彼が誰を見ているのか。 どれも、知りたくなかった。 約束した時間より20分は早く待ち合わせ場所に行ったのだが、そこには既にみくるさんがいて、驚かされた。 彼女は決して遅刻しがちというわけでもないが、僕のように不必要なくらい早くやってくるということも少ない人だ。 それなのにどうして、と戸惑う僕に、 「ちょっと先に済ませる用事があったんです」 と笑ってそれだけ言ったみくるさんは、 「今日はどこに行きましょうか」 と僕に尋ねた。 そういえば、そんなことも決めていなかったんだっけ。 僕はどこに行こうと構わないので、みくるさんの好きにしてもらえればいいのだけれど。 「だめよ。一樹くんを元気にしてあげたいんだから、一樹くんの行きたいところに行きたいんです」 「そう言われましても……みくるさんの好きにしてください」 困り果ててそう言った僕に、みくるさんは悲しげな顔をした。 そんな顔をさせたいわけじゃないし、彼女がそんな顔をした理由も分からなくて、僕は何も言えなくなる。 「……分かりました」 ため息が混ざったような声でみくるさんは言い、僕の手を握った。 「じゃあ、甘いものでも食べてすっきりしましょ? 一樹くんも、甘い物好きだから、それなら少しは気分も晴れるんじゃないかなぁ?」 「…ええ、そうですね」 そうだといいんだけれど、多分無理だろうなと思いながら、僕は彼女に引かれるまま、歩きだした。 今の僕は、ちゃんと恋人らしく振舞えているんだろうか? こんな風に彼女のこともろくに考えられないまま、自分の感情だけで手一杯になっているのに。 演技も出来ないのなら、やっぱり今日は家に引きこもっているべきだった。 「一樹くん?」 信号で足を止めた僕の顔を見上げながら、心配そうな顔を見せるみくるさんに、笑みを返す。 「なんでもありませんよ」 「……嘘ばっかり」 そう言ったみくるさんは、今度こそため息を吐き、 「あたしにくらい、もう少し一樹くんの本当の気持ちを聞かせてくれてもいいと思いませんか?」 「そう…しているつもりですよ?」 みくるさんは今更何を言い出すんだろう。 僕は自分でも呆れるくらいみくるさんに頼って、情けないところばかり見せているのに。 「…もう……、なんで、なんで一樹くんはそうなんですか?」 くしゃりと顔を歪ませたみくるさんの目元に水滴が滲む。 どうして。 「それが一樹くんの仲間のせいなんだとしたら、そんなの、仲間じゃないです。一樹くんがこんな風になっちゃったのに、気がつかないで、何もしてあげないなんて」 今にも泣き出しそうになりながら、みくるさんは僕のことを抱きしめた。 まるで、泣き出しそうなのは僕だと言わんばかりに。 「もう、大丈夫ですよ。今は、あたしたちがいます。一樹くんのことを考えて、なんとかしたいって思う仲間が、ちゃんといるんです。だから、だから…っ、自分にまで、嘘、吐かないでください…」 「……すみません」 そう言うことしか僕には出来なかった。 何故なら、僕にはみくるさんが何を言いたいのか、ほとんど分からなかったのだ。 分かったのは、みくるさんが、僕と機関について、あるいはその関係について、なんらかの不満があり、しかもそれは義憤とでもいうべきものだということくらいだ。 みくるさんは僕のために怒ってくれている。 僕でさえ、分かっていないことについて。 それが、嬉しく、ありがたかった。 だから、 「ありがとう…ございます……」 と付け足したのだが、みくるさんは余計に悲しげな顔をして、よりいっそう強く、僕を抱きしめた。 一度青になったはずの信号がまた赤に戻っても、僕達は動けなかった。 「……ごめん、なさい」 しゃくり上げるような声になりながら、みくるさんは言った。 僕から離れ、恥ずかしそうに顔を赤らめて。 「こんなこと、言うつもりじゃなかったんです。一樹くんのせいじゃないって、分かってる、から。でも……言わずに、いられなかったんです」 「いいんです。…ありがとうございます」 「…分かってないくせに」 拗ねたように言った彼女は、軽く僕の腕を抓ると、 「……いつかは、ちゃんと分かってくださいね」 と笑って見せた。 僕を勇気付けるように。 同時に、今はこのことで悩まなくていいと言うように。 結局みくるさんに連れて行かれたのは、ケーキバイキングの店だった。 ファンシーな内装もさることながら、小さくて多種多様なケーキが揃えられたその店は、みくるさんと一緒でもなければ入れないような店で、僕としては喜んだっていいはずなのに、なかなかそうはなれなかった。 どうやら僕は、自分で思っている以上に落ち込んでいるようだった。 ヤケ食いも出来ないくらい、胸が重くて、苦しい。 小さなケーキを2つばかり食べただけでフォークを止めてしまった僕を前に、5個目のケーキを平らげながら、みくるさんは言った。 「……そんなに苦しいなら、はっきり好きって言ったらいいと思います」 「ですから…、それは出来ないと何度言えば分かっていただけるんです?」 いい加減、辟易しそうだ。 相手がみくるさんで、これまでの恩がなければ今すぐ席を立ってしまいたいくらい、苛立ってしまう。 そんな自分に余計に嫌悪感が増して、ああ、悪循環だなと思った。 「でも、諦められないんでしょ? それくらい、本気で、本当に、好きなんでしょう? リスクとか、いろんなこと考えても、止められないくらい」 「……当たり前ですよ。忘れたくても、忘れられません。いつもいつも彼のことを考えて、彼と口も聞けず目も合わせてもらえない、今の状況に、僕がどれだけ参ってると思うんです?」 「それくらい、言われなくても分かります。分からないのは、それなのに黙ってる一樹くんです」 怒ったように言って、みくるさんは6つ目のケーキにフォークを付き立てた。 「そんなに辛いなら、言っちゃったらいいのに」 「言えません」 「立場がなんだって言うんですか。そんなものより、自分の心や体の方が大事でしょ。…一樹くんは気付いてないかもしれないけど、最近やつれてきてるでしょう。涼宮さんも心配してるんですよ」 「……え…」 そんな、まさか。 いや、やつれているかはともかく、体重の減少くらいは自覚している。 でも、そんなちょっとした変化にほかの人が気付くなんて思ってもみなかった。 ましてや、あの涼宮さんが僕なんかを心配するなんて、あるわけがない。 「冗談でしょう…?」 思わずそう言うと、みくるさんはきゅっと眉を寄せ、 「本当です。あたしや涼宮さんだけじゃないです。ほかの人だって、一樹くんのことを心配してるのに、どうして分からないんですか?」 だって僕は、誰かに心配してもらえるような人間じゃない。 僕は汚くて、嘘吐きで、身勝手で、誰かに厚意を向けてもらえるような人間じゃない。 「そんなことありません!」 みくるさんは苦しげに声を荒げた。 「一樹くんは優しくて、純粋で、だからこそ、悲しいくらい自分のこと、押し隠しちゃう人じゃないですか。なのにどうして、そんなこと言うんですか」 今度こそ泣き出しそうになりながら、みくるさんは気丈にも僕を睨みつけた。 「一樹くんは、もっとワガママになっていいんです。他の誰がなんと言おうと、あたしは、あたしたちは、それでいいって言います。認めます。一樹くんのワガママなら、受け入れます。それくらい、あたしたちはいつもお世話になってるでしょう…?」 「そんなことは…」 「嘘ばっかり…っ。あたしと長門さんにはあたしたちと敵対するようなものとのことしか任せてくれないくせに、自分はなんでも引き受けて、この時代の色んな人たちからあたしたちみんなを守ってくれてるのに。お金のかかることとかも、みんな、」 それは、機関がいるからだ。 僕個人の力じゃない。 「でも、そうしようとしてくれてるのは、一樹くんでしょう? ちゃんと、知ってるんです…」 「しかし、僕だけで出来ることなんて、何もないんです。僕は中途半端な力しか与えられていないんですから。でも、だからこそ、僕は…」 「それは、あたしたちだって同じです。なのに、どうして一樹くんだけそんなに自分を犠牲にしなきゃいけないんですか…?」 もう、何を言っているのかさえ分からなくなってきた。 みくるさん自身もそうなのだろう。 うまく言えない自分に苛立ちながら、それでも一生懸命何かを伝えてくれようとしてくれている。 その全てを分かってあげられない自分がもどかしくて、嫌になる。 ただ、少しだけ分かったのは、みくるさんは結局、彼に告白しろと言いたいのだろうということと、僕の自由を認めてくれるということらしい。 しばらく泣きじゃくっていたみくるさんは、やがて顔を上げると、 「……一樹くん、そんなに、自分の希望を言えないんですか?」 「……」 言えるはずがない。 僕は既にワガママ過ぎるほど身勝手に振舞って、いろんな人を傷つけてしまった。 それなのにどうして、これ以上のことが言えるのだろうか。 そうしろと言うみくるさんも分からない。 「…だったら、これは、あたしの、あたしたちの、ワガママです」 みくるさんはまだ潤んだままの瞳で僕を見つめた。 「――キョンくんに、ちゃんと、好きって言ってください。そうしないと、あたしたち、このまま壊れちゃいます。あたしは、絶対に嫌なんです。SOS団のみんながばらばらになったり、今みたいに、部室にいるのが楽しくないなんて、そんなの、嫌なんです…」 「だったら、余計にそんなことは…」 「ううん、ちゃんと、言って。そうじゃないと、だめです。それに、キョンくんにも、失礼だと思いませんか。今のままだと、キョンくんは一樹くんの嘘の姿ばかりしか知らないことになっちゃうでしょ。仲間なのに、そんなのって、ないと、思いませんか…?」 「……」 そう、なんだろうか。 「もし振られたって、いいんでしょう? 一樹くんが本当に、自分で言うように考えてるんだったら。キョンくんだって、一樹くんに告白されたなんてことを吹聴しないでしょうし、少なくとも涼宮さんの前ではこれまで通りでいてくれると思うんです。それなら、ね?」 「……そう、ですね…」 それでみくるさんが納得してくれるなら。 それに、もし、それで本当に、表面上だけでも前と同じようになれるのなら、僕はそれだけでも十分幸せだ。 「それくらいには……僕は、彼が好きなんです」 「分かってますよ」 ほっとしたように笑ったみくるさんは、それから珍しくも人の悪い笑みを浮かべて、 「…キョンくんが好き、なのよね?」 と確認を求めてくる。 僕はそれに笑みを返しながら、 「ええ。好きですよ。愛してます。他のどんなものよりも、彼が好きです」 彼に告白する練習のようにそう呟けば、思ったよりも楽に口から言葉は零れ出た。 そうする時を待っていたかのように。 「彼のことを想うだけで、苦しくなるほど、彼が愛おしいんです。苦しいけれど、でも、それが不快じゃなくて、そんなことさえ幸せに思えてしまう時もあるんですよ。僕はもうずっと…誰のことも好きになれないと思っていましたから。だから余計に嬉しくて、愛しさが募って、……けれどそれを告げられないからまた苦しくなって、どうしようもなくなるんです」 「我慢するからそうなっちゃうんですよ。一樹くんは我慢のしすぎです」 明るくそう笑ったみくるさんは、突然椅子から立ち上がると、ソファのようになったその椅子の背の向こう、隣りのテーブルを覗き込むようにして言った。 「長門さんもキョンくんも、そう思うでしょ?」 「――え」 思わず、絶句した。 絶句するしかない。 ちょっと待ってくださいとも、一体どういうことですかとも言えないまま、僕は慌てて椅子から立ち上がり、途中でテーブルに脚を強かにぶつけながらも隣りのテーブルへ回り込む。 そこには、ぱくぱくとケーキを食べ続けている長門さんと、その向かいの席で、つまりはみくるさんの真後ろの席で、真っ赤になって頭を抱え、小さく震えている彼がいた。 「……一体、これはどういうことなんですか…?」 やっとの思いでそう呟くと、長門さんがフォークを止め、 「SOS団の活動に支障を及ぼし始めている現状は、涼宮ハルヒの観察という目的にも問題を引き起こしかねないため、私の介入が認められた。私は朝比奈みくるの協力を求め、彼の説得を行った。あなたにも、早急な事態改善を求める」 と説明だか要請だか分からないことを口にした。 「あたしが長門さんに頼まれてお手伝いしたんです。一樹くんが本音を言って、それをキョンくんが聞けるように」 会心の笑みを浮かべるみくるさんに、またもや唖然とするしかない僕の袖を、彼がそっとつまむようにして引いた。 「……説明、しろ…っ」 僕の方こそあなたに説明してもらいたいことが山積みなんですが、と思いながら、 「……とりあえず、出ましょうか」 場所を変える間に、少しでも自分の考えや何かを整理したいと思った僕に、彼も同じ思いだったのか、意外と素直に頷いてくれた。 「じゃああたしたちはまだここで食べてますから、頑張ってくださいね」 「…健闘を祈る」 気楽そうな二人に見送られる、というよりもむしろ、その二人から逃れるように、僕達は店を出た。 |