涼宮さんの反応は意外とあっさりしたものだった。 それは僕たちが彼女に問われる前に、彼女に二人の交際を報告したからかもしれない。 「すでに噂が耳に入っていらっしゃるかもしれませんけれど、この度みくるさんとお付き合いさせていただくことになりました」 と団長席に座った彼女に言うと、視線の端で彼が身動ぎするのが分かった。 みくるさんはどこかおっかなびっくりと言った様子で涼宮さんの反応をうかがっていたが、涼宮さんはにやっと笑った後、 「もうっ、一体いつ報告に来るのかと思ってたんだからね!」 と言うと、小さく声を上げて竦み上がったみくるさんへどこか優しい笑みを向け、 「まあ、許してあげるわ。古泉くん、みくるちゃんのことを泣かせたりしたら承知しないからね!」 と明るく言い放ち、 「みくるちゃんも、古泉くんに泣かされたりしたらすぐにあたしのところにくるのよ? あたしがみくるちゃんに代わってお仕置きしてあげるから!」 「えええ…」 困った様子で声を上げるみくるさんに目を細めながら、 「大丈夫ですよ。泣かせたりなんてしませんから。ね」 と僕が言えば、涼宮さんも笑って、 「そうね。あ、あと古泉くん、高校生らしく、ちゃんと節度は守るのよ!」 「心得ております」 僕がそう答えるのとほぼ同時に、部室のドアが開いて閉まった。 ばんっ、と乱暴な音が響き渡り、僕も思わず身を竦め、みくるさんは、 「ひぅっ!」 と小さく悲鳴を上げた。 背後で何が起こったのかと考える必要はない。 涼宮さんが眉を寄せながら、 「もう、キョンったら何考えてるのかしらっ。まさか分不相応にもみくるちゃんのことが好きだったなんてこと、ないでしょうね」 と文句を言うのを聞けば分かる。 彼がいきなり飛び出して行っただけだ。 「古泉くん、キョンにだけじゃなくて他の男子にも、闇討ちされたりしないよう気をつけるのよ」 冗談めかしてそう言った涼宮さんに頷きながら、僕はずきずきと痛む胸を押さえた。 やっぱり彼は本気でみくるさんが好きなのだろう。 それだけ彼に思われているみくるさんが羨ましくて、ここまでみくるさんに迷惑を掛けておきながら彼女に嫉妬してしまう自分の醜さに苛立ちながら、それを胸の中だけに留めた。 僕がいつもの席に戻り、彼のいない空間を横目で眺めながらチェス盤とプロブレム集を広げていると、みくるさんが柔らかな笑みと共にお茶を差し出してくれた。 「はい、一樹くん」 「ありがとうございます」 彼女に釣られて笑みを浮かべると、彼女は引っ張ってきた自分の椅子に座る形で僕の真正面に座った。 彼の席に座らないのは僕への配慮なのだろうか。 別にそこまで気を使ってもらわなくていいのだけれど。 「あたし、ちょっとほっとしました」 涼宮さんがパソコンに夢中なのを確かめて、みくるさんは小さな声で言った。 「昨日はあんなこと言いましたけど、でも、もしも涼宮さんが許してくれなかったらって、ちょっと、怖かったんです。涼宮さんと一樹くんがケンカになったりしたら、嫌だったから……」 「たとえそうなっていても大丈夫だったと思いますよ。僕は彼女に手出し出来ません。それこそ、花嫁を頂戴しにその実家を訪問したかの如く、大人しく殴られたでしょう」 「ダメですよ」 咎めるように小さく唇を尖らせたみくるさんは、 「あたしは、一樹くんが怪我をするのも、涼宮さんが誰かを傷つけるところも見たくないですから。それに、」 と一層声を潜め、 「……一樹くんは、そういうところがいけないんだと思うんです」 「そういうところ……とは、どういうところでしょうか?」 本当に分からなくてそう聞いたのに、みくるさんは目を大きく見開いて、 「分からないの?」 「分かりません」 みくるさんはそっと眉を寄せた。 どこか傷ついたように、あるいは憤りを感じたかのように。 その表情が、なぜか彼と重なって見えた。 「……一樹くんを責めちゃ、だめですよね。一樹くんが悪いんじゃないんだもの」 と、まるきり独り言のように呟くと、 「そんな風にして、自分さえ我慢すればって思って、本当に我慢しちゃうのが、一樹くんのいけないところだと思います」 質問に答えてもらったのに恐縮だけれど、それのどこがいけないのだろう。 別に、いけないことでも何でもないと思うのだが。 みくるさんはくしゃりと顔を歪めると、耐えかねたように椅子から立ち上がり、長机の上に身を乗り出した。 そうして、僕の頭を胸に押し付けるように抱きしめる。 「あ、あの…っ?」 みくるさんは何も答えない。 言葉が見つけられないかのように黙ったまま、泣きそうな顔をしていた。 どうすればいいのだろう、と困り果てたところで、 「みくるちゃぁん? あんまり見せつけないでくれる?」 とからかうような――というか、実際からかっているのだろう、涼宮さんの声がして、 「ふぇえ!?」 と声を上げたみくるさんが飛び退いた。 「あ、や、やだ。あたしったら……。ご、ごめんなさい」 その謝罪は僕へのものなのか涼宮さんへのものなのか。 僕は苦笑しながら、 「いえ、」 と答え、涼宮さんも、 「気にしなくていいわよ。付き合い始めたばっかりなんでしょ。煩そうなキョンもいないんだし、じゃんじゃんやっちゃいなさい」 なんてことを笑いながら言った。 本当に今日の涼宮さんは機嫌がいい。 また何か楽しいことでも思いついたんだろうか。 出来れば、あまり大変なことじゃないといいのだけれど、と僕は祈った。 その、数日後のことだ。 その間も彼は相変わらず、僕とは口を聞かないどころか、ろくに目も合わせてくれない。 当然、ゲームだって付き合ってはくれないし、何よりもまともにこっちを見てもくれない。 それが、酷く辛かった。 いないものとして扱われるのとは違う。 それよりはずっとマシだとも思う。 彼は間違いなく僕のことを意識していて、意図的に僕を見ないようにしていると分かるから。 けれど、そんな風にして彼が必死に抑えつけ、押し隠すものがみくるさんへの恋情であり、僕への嫉妬心だと思うだけで、胸が痛んだ。 実際には、彼とみくるさんの間にある障害なんて、みくるさんが未来人であるということくらいだというのに、そうでないように見せかけている自分が嫌になる。 同時に、彼がみくるさんを本気で好きなのだとしたら、彼が彼女に告白したり、彼女と付き合ったりすることが、僕がこうしていることで絶対になくなったのだと思うと、嬉しくさえ思ってしまう自分の浅ましさには、嫌悪感なんて言葉では済まされないようなものを感じた。 それでも、止められない。 僕は本当に彼が好きで、彼を諦められなかった。 もう少し時間が経てば諦められるのだろうか。 あるいは、彼が徹底的に僕を嫌ってくれたなら、直接僕へ怒りを向けてくれたなら。 そう思いながら部室のドアを開けた僕はそのまま硬直することになった。 部室の中には長門さんと彼だけがいた。 みくるさんと涼宮さんはどこに行ったんだろうなんてことは考えられない。 何故なら、いつものようにパイプ椅子に腰掛けた長門さんの、ほっそりとした腰に抱きつき、いつもなら本が乗っているはずの長門さんの膝に、彼が顔を押し付けるような形で、彼が床に座り込んでいたのだから。 今日はちょっとした用事があってここに来るのが遅れた。 それでも、精々三十分というところだ。 その短い間に、一体何があったのだろう、と戸惑いながら僕は数歩だけ足を進めた。 やけに大きく響いた足音に、彼がびくりと身を竦ませたことだけが分かった。 「…あの……一体、どうなさったんですか?」 おずおずとそう尋ねれば、長門さんから射るような視線を向けられた。 「あなたには関係ない」 短い言葉が胸に突き刺さる。 「今日の活動は中止。涼宮ハルヒも朝比奈みくるもすでに帰宅した。……あなたも、帰って」 そう言われても、僕は動けなかった。 長門さんと彼に一体どれほどの関係があるのかとなじるように問い詰めたくなるのを必死で堪えながら、 「少しくらい、説明していただいてもいいと思うのですが」 と言いはしたものの、返事は予想通りで、 「必要ない」 いつになくきっぱりとした一言だった。 それでもまだ、彼と長門さんを二人きりにしたくなくて、出て行けない僕に、彼が言った。 「…帰って、くれ」 無理矢理絞り出したような声は力なく震えていて、らしくもなく弱いものだった。 長門さんの前で彼がそんな声を出し、彼女にすがるのが驚きだった。 そんなにも打ちのめされているのか。 ――僕の、僕のワガママの、せいで。 痛む胸を押さえながら、 「…失礼しました」 とだけ言い、部室を出た。 そのまま逃げるようにしてその場から駆け出す。 実際僕は逃げたのだ。 彼を悲しませてしまったことを直視したくなかった。 彼が長門さんを頼るのを、見たくなかった。 逃げ出しながら、僕は胸の内で呟いた。 ――ああ、そうか。と。 彼はそんなにみくるさんが好きだったのか。 あんな風にして人前で悲しむほど。 そして、傷ついた彼を長門さんが慰めて……もしかして、彼と長門さんがうまく行くのかもしれない。 そうなったとしたって自業自得、あるいは、それが涼宮さんの逆鱗に触れないのであれば、それを喜んだっていいはずなのに、僕にはどうしたってそんなことは出来そうになかった。 長門さんが羨ましいのか、彼を取られて悔しいのか、それすら、分からない。 長門さんに対して失礼だと思いはしても、腹の中で彼女を罵ることが止められなかった。 繰り返し何度も何度も、同じようなことを考え、彼が本当にみくるさんを好きだったのだということを自分に言い聞かせようとするのは、そうすることで彼への分不相応な感情をなくしたいからだ。 あるいは、そうすることで自分に罰を与えたいのかもしれない。 罰せられれば罪悪感は薄れる。 そうして僕はまた身勝手に、自分のことだけを考えてしまうのだ。 今だってまた、ひとりでこの醜悪な感情を抱えていることに耐えかねた僕は、携帯をポケットから引っ張り出すと、みくるさんに電話を掛け、 「…っ、今すぐ、会いに行ってもいいですか……?」 と聞いていた。 『な、何かあったんですか?』 慌てる彼女に、 「ちょっと、した、ことなんです…っ、でも、耐えられ、なくて…」 恥ずかしげもなく泣きじゃくりそうになりながら、涙をこぼすことだけはなんとか堪えてそう言うと、 『分かりました。あたしの部屋に来てくれますか?』 というキリリとした彼女の声が返ってきた。 それにほっとしながら、 「すみません…」 『いいんですよ』 電話の向こうで、みくるさんが優しく微笑んだのが分かった。 それから僕は、急ぎ足でみくるさんの部屋に向かったのだが、突然訪問し、何の前置きもなく泣き出した上、みっともなく泣きじゃくりながらその理由を説明した僕に、みくるさんは嫌な顔ひとつしなかった。 それどころか、優しく僕の頭や背中を撫でながら、辛抱強く聞き取り辛い話を聞いてくれた。 そのことが、他の誰にも頼れず、相談も出来ない僕には酷く嬉しくて、泣きながら何度も謝り、お礼を言った。 「ねえ、一樹くん。そんなに苦しいんだったら、嘘を吐くの、やめにしませんか?」 「…それは……どういう……」 「キョンくんに、ちゃんと好きですって言ったらいいと思います」 「無理ですよ…」 もう何度目だろう、と思いながらまたあれこれ言い募ろうとした僕の唇を指先でちょんっと押さえて、みくるさんは笑った。 「少しは前向きに考えてみたら? もしかすると、うまく行くかもしれないでしょ?」 「ありえません…っ」 「…もう、一樹くんにも困っちゃいますね」 そう苦笑したみくるさんは、 「あたしは、一樹くんのこと、応援してます。だから、あたしを信じてくださいね」 「どういう意味ですか…?」 みくるさんは明るい笑みを見せ、 「禁則事項です」 と悪戯っぽく言った後は、どう聞いても答えてくれなかった。 一体何を企んでいるんだろうか。 予想も出来なくて少々不安になりはしたものの、僕はみくるさんのことを信じている。 だから、それ以上何も聞かず、ただ、小さく頷くにとどめた。 |