うそ



放課後、僕はみくるさんが着替え終えるのを待って部室に戻った。
僕が部室の外でみくるさんを待っていたことを咎める人はいない。
涼宮さんはそもそも部室に来なかったし、長門さんはさっさと帰ってしまっていた。
彼も、僕と目を合わせないようにしながら慌ただしく部室を飛び出して行ってしまっていた。
数日前なら、みくるさんが着替え終わるのを待ちながら雑談をして過ごしたはずの時間は、幻の如く消え失せてしまった。
それが悲しく、苦しい。
ため息をつきながら椅子に座りなおせば、みくるさんが僕の向かいに腰を下ろし、
「一樹くん、大丈夫なの?」
と心配そうに尋ねてきた。
僕は曖昧な笑みを浮かべながら、
「よく、分かりません。思ったほどダメージは受けていないような気もするのですが、感覚が麻痺してしまって分からないだけ、という気もするんです」
「…重症ね」
ほうっとため息を吐いたみくるさんだったが、
「一樹くんは、どうしたいの?」
「どう……というのは?」
「あたしと噂になったせいで、キョンくんと気まずくなっちゃったって、一樹くんも思ってるんでしょ?」
「それは…そうです」
「それなら、もういっそのことあたしとはただのお友達で、キョンくんが好きなんですって言っちゃったらどうですか?」
「なっ…、なんでそうなるんですか!?」
驚いてそう声を上げると、みくるさんはきょとんとした顔で、
「おかしいですか?」
僕ははっきりと頷き、
「気まずくなってるのに、どうして更にそれを悪化させるようなことが出来るっていうんです?」
これ以上彼に嫌われるようなことなんてしたくない。
いや、違う。
この先どんな方法を選んでも、彼に嫌われてしまうことは必定だ。
僕はただ、彼に思いを告げ、それを否定されてしまうことが怖いのだ。
だから、言えない。
言いたくない。
自分の臆病さを笑うことも出来ず頭を抱える僕を、みくるさんが優しく撫でた。
「じっくり考えていいですよ。あたしは、この際とことん一樹くんに付き合いますから」
「…いいんですか?」
「だって、あたしはどうせ誰かを好きになったり出来ませんし、あたしが誰かと付き合ってる、なんてことになっても、キョンくんとは違って涼宮さんの逆鱗に触れたりはしないでしょ? そりゃあ、どこの誰か分からないような人とお付き合いしますって言ったら、涼宮さんが相手の方とケンカしたりするかもしれませんけど、一樹くんだったらその点は大丈夫でしょうし」
「いえ、それでも……男と噂になるなんて、決していいことではないでしょう? あなたはそれでいいんですか?」
「はい」
あっさりと、しかも笑みさえ見せてみくるさんは頷いた。
「あたしは、いつも何も出来ないで見ているだけだから、あたしでも手助け出来るのなら、それが凄く嬉しいんです。だから一樹くんもあたしに遠慮なんてしないで、あたしのこと、頼ってくださいね」
「……ありがとうございます」
本当に、ありがたい。
こう言うと語弊があるかもしれないが、みくるさんがいてくれてよかったと、ここまで強く思うのは初めてだと思った。
「じゃあ、お言葉に甘えて、相談させてもらいますね」
「はい、どうぞ」
にこにこと微笑むみくるさんを前に、少し考えた後、僕は口を開いた。
「正直なところ、もうどうすればいいのか分からないんです。彼に…誤解されてしまって、こうして避けられるまでになってしまったことが悲しくて、苦しいのですが、いい機会だとも、思うんです。彼のことを諦めるのであれば」
「諦めちゃうんですか?」
驚いたように言うみくるさんに、僕は頷いた。
「そうするしかないでしょう? もとより、そうしなければならない、間違った思いなんですから」
「…そう、でしょうか」
軽く目を伏せながらみくるさんは呟くように言った。
「キョンくんのことを話してる一樹くんは本当に楽しそうで嬉しそうで、見てるあたしも幸せになれるような気がするのに、そんな表情が出来るような思いが、本当に間違ったものなのかしら。人を好きになることはいけないことでもなんでもないはずなのに」
「それは、理想論ですよ」
まだ恋も何も知らないみくるさんにこう言ってしまうのは少々心苦しかったが、そうでも言わなければ僕の方が耐えられない気がした。
「実際には、倫理的なものや社会的な状況で好きになってはいけない相手というものは存在します。僕にとっての彼がそうであるように…」
「でも、一樹くん、」
と何か言いかけたみくるさんは、言葉をうまく見つけられなかったかのように言葉を途切れさせると、
「……あたしの、思い違いかもしれないから、言っていいのかどうか分からないけど……でも……多分……」
「…みくるさん?」
「……っ、」
意を決したように、みくるさんは僕を見据えると、
「キョンくんも、一樹くんのことが好きだと思うんです」
「――あり得ませんよ」
自分でも驚くほどに冷淡な声が出た。
みくるさんがびくりと体を竦ませるのが分かっても、取り消せない。
「そんなことは、あり得ません。みくるさんの勘違いだと思います」
間違いなくそう言える。
彼は別にホモセクシュアルでもなければバイセクシュアルでもないはずだし、そもそも僕に関しては冗談半分でなのだろうが憎まれ口ばかり叩いているから、そこになんらかの恋愛感情があるなんてことはありえない。
あっても、友情とかそういう程度の好意くらいだろう。
それだって、僕の身に余るような幸せなのに。
「…そう、かなぁ……」
小さく縮こまるようにしてそう呟くみくるさんに頷き、
「むしろ彼は、みくるさんのことが好きなんだと思いますよ」
それが恋愛感情といえるほど強いものかは分からないけれど、間違いなく、憧憬の念は抱いている。
僕がそう言うとみくるさんは軽く顔を赤らめて、
「そうでしょうか…。でも、あたしは……」
「ええ、それは彼も分かっているんでしょう。だからこそ、僕とみくるさんが噂になっていることに戸惑い、憤っておられるのではないかと思います」
「……そう、かもしれませんね。…あたしは、誰かを好きになったことなんてないから、あたしがそう思っても、ただの勘違いかもしれませんし……」
そう言いながらもみくるさんはまだどこか自分の考えを捨てられないでいるようだった。
「みくるさん、」
話題を少しばかりそらそうと、僕は口を開いた。
「――僕は、どうしたらいいと思いますか?」
「どうしたらって……えっと…」
「彼に好きだとは言えません。でも、だからと言って噂を放置するのも事態の悪化を招くだけだと思うんです。ですから、噂を否定するのか、それとも肯定するのかだけでも、あなたと相談して決めたいと思っているんです」
「そう……ですね…」
困惑しながらも考え込んだみくるさんは、
「…あたしは、どちらでもいいんです。だから、一樹くんが決めてください」
「……本当に、いいんですか?」
「はい。あたしは一樹くんを信じます。それに、どちらにしろ変わらないって、さっきも言ったじゃない」
と微笑む彼女は見た目や言動以上に強い人に思えた。
それはきっと間違いじゃない。
彼女は僕よりも遥かに強くて優しい人だ。
それに甘えさせてもらっていいのだろうかと思いながらも、僕は彼女につられるように笑みを浮かべ、
「それなら、お願いします。噂を肯定してしまいたいんです」
「…それで、いいんですか?」
「ええ。……あなたと付き合っているということになれば、誰かに告白されることもなくなるでしょうし、一緒に出かけたりしても不自然ではないでしょう? それに、――そうして、彼に嫌われるか憎まれるかすれば、僕も彼を好きでいられなくなってはくれないかと、期待もしてるんです」
僕が胸の奥底で感じた痛みを感じ取ったかのようにみくるさんは切なげに顔を歪めると、
「…本当に、いいの? 一樹くんは、そうやって自分の想いを隠して、押し殺し続けて、それで、いいんですか……?」
泣きそうな声で言ったみくるさんに、僕ははっきりと頷いた。
「それが、一番いいんです」
「…分かりました。約束ですから、あたしは協力します。でも、一樹くん、」
みくるさんは潤みかかっている目を僕に向け、
「本当に辛くなったら、無理も、意地を張るのも止めて、自分に正直になってくださいね」
「……」
「それだけ、約束してください」
「……分かりました」
守れるはずのない約束をしてしまったことに罪悪感を感じながら、僕はその後みくるさんと今後の計画を立てた。

翌朝、僕は通学路の途中に立ってみくるさんを待っていた。
特に何もない道の合流点が、僕の通学路とみくるさんの通学路が重なる地点だったからなのだが、どうやら妙に目立つらしく、人の視線が少々痛かった。
そうしているうちに道の向こうからみくるさんの姿が見え、彼女も僕を見つけたらしい。
歩く足を速め、ぱたぱたと小走りになりながら近づいてくるみくるさんに、転ばなければいいのだけれどと思いながら見ていると、
「おはよう、一樹くん」
と言った直後の彼女がバランスを崩して転びかけた。
小さくか弱い悲鳴を上げる彼女を、慌てて抱きとめる。
「…大丈夫ですか?」
「大丈夫です…。朝からごめんね」
「いえ、これくらいどうってことはありませんよ」
むしろ微笑ましい気持ちになりました、と言えばみくるさんは恥ずかしそうに赤くなって、
「もう、一樹くんったら。あたしの方がお姉さんなんですよ?」
と可愛らしいことを言うので、僕は笑いながら、
「ええ、分かってます。それより、また転ばないでくださいね」
と言って彼女の手を取った。
そのまま手を繋いで高校まで歩きつつ、小声であれこれ話した。
内容は、いつも二人で会う時と同じようなものだ。
この前見つけたお店の雑貨が可愛かったとか、新商品のお菓子がどんなに美味しいかとか、そういう話ばかりだ。
恋人同士という演技にぴったりくる内容かどうかは分からないが、それでも傍目にはちゃんとそう見えたのだろう。
その日の昼休みにはあれこれ声を掛けられるまでになった。
祝福に似た言葉もあれば、夜道に気をつけたほうがいいだろうかと検討したくなるようなものもあったけれど、これくらいは予想の範囲内だ。
何より怖いのは、涼宮さんと彼の反応だと思いながら、廊下を歩いていると、中庭にみくるさんと彼の姿が見えた。
どうしたんだろう、と足を止めて見ていると、みくるさんが困ったような笑みを浮かべた。
彼は身を乗り出し、必死に何かを尋ねているらしい。
らしくもなく、テーブルを拳で叩くのが見えた。
あんなに強く振り下ろして、手が痛まなかっただろうか。
みくるさんの手ほどか弱くもないけれど、それほど強くもない彼の手だから、赤くなったりしているのだろう。
そんなことを思いながら、僕は無理矢理視線を引き剥がした。
これ以上見ていても仕方がない。
みくるさんが困っているのなら、助けに行こう。
僕はそう思い、中庭に向かった。
先に僕を見つけたのは、背中を向けていた彼ではなく、みくるさんだった。
「あ…一樹くん……」
ほっとしたように僕を呼んだことからして、やっぱり困っていたらしい。
彼がびくっと身を竦ませるようにして僕を振り返る。
僕はみくるさんに笑みを向けながら、彼に向かって、
「こんにちは。珍しいですね。あなたとみくるさんが一緒にいるなんて。涼宮さんに見つかったらどうなるか分かりませんよ?」
わざと嫌味ったらしく言えば、彼はくしゃりと顔を歪めた。
そのまま何か言いたそうに口を開いた彼だったが、それを閉じると、
「…っくそ」
と小さく毒づいてそのままどこかへ行ってしまった。
彼らしくない。
本当に、彼らしくない。
彼のことだから僕がひとつ嫌味を言えばその何倍もの言葉を返してくると思ったのだけれど、それもなくなってしまった。
この調子だと、今日も部室で口を聞いてもらえないのだろうな。
自分で仕向けたことながら、なかなか堪える。
僕が彼の座っていた椅子に腰を下ろすと、
「助かりました…」
とみくるさんが安堵の息をつきながら言った。
「何をそんなに困ってらしたんです?」
「色々、聞かれて困ってたの…。あたしじゃうまく言えなくて、キョンくんもあたしにはどう言ったらいいのか分からないみたいで、うまく会話にもならなくて……」
「彼がですか?」
会話にもならないなんて、そんなに彼は必死になっているということなんだろうか。
僕は驚きながら、
「一体何を聞かれたんです?」
「一樹くんと付き合ってるのかどうかってこととか、誰かを好きになってはいけないんじゃなかったんですか、とか、それから、本当に好きなんですかとも、聞かれました」
そう言ったみくるさんは視線を伏せながら、
「一応、決めてた通りちゃんと答えたつもりですけど」
もごもごとそう付け足した。
「でも、キョンくん、本当に辛そうでした…」
そう言われ、僕は何も言えなくなった。
そんなに彼はみくるさんが好きだったのだろうか。
ただの憧れだというのは僕の勝手な思い込みで、本当に彼女を好きだったのかもしれない。
そう思うだけで、胸がずきずきと痛んだ。
僕はまだ、彼を諦めきれずにいるらしい。
早く諦めなければならないのに、どうしてこんなにも思うようにいかないのだろう。
そっとため息を吐いた僕にみくるさんが、
「一樹くん、大丈夫ですか?」
と心配そうに尋ねてくるのへ笑みを作り、
「大丈夫ですよ」
とだけ答えた。
本当は少しも大丈夫じゃないくせに、と内心で自分を嘲笑いながら。