ひみつ



明るい雰囲気の喫茶店に入り、人数を尋ねようとする店員に軽く手を振った僕は、きょろきょろと店内を見回した。
そうして目的の人を見つけると、自然に笑みが零れるのが分かった。
僕はその席へと歩み寄り、
「お待たせしてすみません」
と声を掛け、穏やかな笑みと共に振り向いたその人へ、
「みくるさん」
と呼びかけた。
「一樹くんにしては遅かったですね。何かあったんですか?」
「いえ、そういう訳ではないんです」
僕は苦笑しながら彼女の向かいの席に腰を下ろし、
「うっかり、目覚まし時計を止めてしまったようで、寝坊してしまって……すみません。お詫びにここは奢りますね」
「そうだったんですか? じゃあ、お願いしちゃいます」
楽しそうに笑いながら言った彼女は、オーダーを取りに来た店員に、紅茶のおかわりとケーキの追加を頼んだ。
それくらいには遠慮のない関係になっているのだなと思うと、やっぱり感慨深いものがある。
何故なら、本来僕と彼女はこうして二人だけでお茶をしていられるような関係ではないはずだからだ。
彼女の所属する団体と僕の所属する機関の見解は、真っ向からと言っていいほど対立している。
それは相容れがたいほどの違いであり、歩みよりは不可能だろうということくらいが相互に共通する見方だという、ある種絶望的な事態なのだ。
しかし、それは組織全体を考えた場合であり、僕自身は彼女と歩み寄ることは可能だと思っているし、実際そうしているからこそこうしているわけである。
ただ、お互いに自分達の組織について口にすることは基本的にタブーにしているから、個人的な会合にしかならないのだけれど、それでも彼女と過ごす時間は楽しい。
何より、
「みくるさんと一緒だとこういう店にも堂々と入れるのが嬉しいんです」
柔らかく口の中でとろけるようなチョコレートケーキを食べながら僕が言うと、みくるさんは笑って、
「男の人一人だとやっぱり恥ずかしいですよね」
「ええ。気にしなくていいとは思うのですが……みくるさんとは趣味も合いますし、本当に楽しいですよ」
「うふ、ありがとう。あたしも楽しいです」
「そう言っていただけると気が楽です。…いつもありがとうございます」
そう言って軽く頭を下げると、
「あたしこそ、ありがとうございます」
「…あなたのそういうところが、好きですよ」
優しくて義理堅くて、その上踏み込みすぎないところが。
するとみくるさんはころころと楽しげに笑った上で、
「それはあたしに言うべき台詞じゃないと思いますよ?」
と悪戯っぽく口にした。
その言葉に、僕は苦笑するしかない。
なんせ僕は、自分の想い人が誰か、なんてことまで彼女に明かしてしまっているのだから。
「一樹くんも困った人ですね。本当に好きな人には言えないのにあたしにはさらっと言えちゃうんだから」
「好きだからこそ、言えないんですよ」
「そういうものなんですか?」
と首を傾げる彼女には、恋愛感情が理解出来ないらしい。
それは別に、彼女がこの時代で人を好きになったりしないようにロックがかかっているとかそういう意味ではなく、単純に、彼女が恋をしたことがないからだ。
少なくとも、自覚的に恋をしたことがないらしい。
それを少なからず羨ましく思ってしまうのは、今現在、僕が恋に苦しめられているせいだろうか。
あるいは、恋を知る誰しもがそう思ってしまうものなのかもしれない。
しかし、知らない身である彼女としてはそれは大いに興味をそそるものであるらしく、
「ねえ、一樹くん、最近はどうなの?」
と軽く身を乗り出し、内緒話をするように声を潜めながら聞いてきた。
好奇心丸出しの態度は、場合によっては気を悪くしても仕方がないようなものなのに、彼女がそうすると嫌味の欠片もない。
むしろ、微笑ましくさえ思える。
これが人徳というものなのか、はたまた愛らしすぎる外見のせいなのかは分からないが、少なくとも悪いものではないだろう。
僕は一応苦い笑いを見せながらも、内心ではそれほど迷惑にも思わず、素直に答えた。
「どうも何も、変わりありませんよ。近くで見ていればそれくらいお解かりになるでしょう?」
「そうですか?」
きょとんとした顔で首を傾げるみくるさんは本当に可愛い。
彼がいつも手放しで褒め称えるのが理解出来るくらいには。
同時に、それに嫉妬心を覚えたりすることもないくらい、可愛らしいと思う。
「あたしには、キョンくんと凄く仲良くなってきてるように見えてますけど」
「……それなら、嬉しいんですが」
しかし、それはそれで嬉しくないとも思ってしまうのは、彼と友人として親しくなりたいのではなく、もっと踏み込んだ関係になってしまいたいと僕が願ってしまっているからだ。
友人として扱われるだけでも身に余る幸せだと思うのに、彼との距離が縮まれば縮まるほどそれを限りなくゼロに近づけてしまいたくなる。
しかもそれは余計に速度を上げているようにさえ思えるのだ。
おまけに、僕への警戒心が薄れたのか、はたまた僕を既に仲間として認めてくれたのかは分からないが、彼が以前にも増して親しげな素振りや無邪気な表情を見せてくれるものだから、余計にその衝動が止められなくなる。
「…いっそこの理性を褒めてやってください」
思わず頭を抱えてそう唸ると、みくるさんは笑って、
「うん、よく頑張ってると思います。偉いですね、一樹くん」
と僕の頭を撫でた。
「……頑張ってると思いますか?」
「はい。だって、本当は言いたいんでしょう? キョンくんが好きって」
「…言ってしまえるものなら、言いたいですよ。あなたが好きですと言えたら、どんなに楽になるか……」
「そんなに苦しいんですか?」
「苦しいですよ。でも、」
僕は何も分かっていないらしいみくるさんに苦笑しながら言った。
「それでも、諦められないくらい好きなんです」
「大変ですね」
よしよしと頭を撫でてくれる手は、ほっそりとして綺麗で、白くて、彼のそれとは似ても似つかない。
けれどその優しさが、どこか似ているようにも思えた。
「みくるさん」
「はい?」
「付き合ってください」
「いいですよ。今日はどこにお買い物に行きたいんですか?」
僕の行動パターンなど完全に掌握しているらしいみくるさんがくすくすと楽しげに笑いながら言い、僕も笑みを浮かべることが出来た。
「服でも買いに行きませんか。散財してやりたい気分なんです」
服なら経費で落とせるから僕の懐は痛まないし、と笑えばみくるさんも笑いながら、
「悪い子ですね」
と言いつつも僕を止めようとはせず、
「じゃあ、あたしもお洋服見に行こうかなぁ。一樹くんも、時間はたっぷりあるんでしょ?」
「ええ、今日は閉鎖空間でも発生しない限り応答しませんと伝えておきましたから」
「あたしも、定期連絡はしてありますから、大丈夫なはずです」
僕達は顔を見合わせて笑った。
それが共犯者の笑みであることは言うまでもない。
残っていたケーキを惜しみもせずに平らげると、僕達は手を繋いで喫茶店を出た。
「あ、あたしお茶も見に行きたいです。一樹くんもボードゲームが見たいんじゃないですか?」
「いえ、ボードゲームはお茶とは違ってなかなか新しいものも出ませんからね。時間があったらで構いませんよ」
「そうですか? でも、あたしばかり付き合わせちゃうのも悪いから、ボードゲームも見に行きましょうね」
と微笑むみくるさんに手を引かれ、僕は歩きだした。
こんな普通の友達付き合いさえ、僕には久し振りのもので、手放し難いほど楽しく、心地好い。
それが久し振りになってしまった原因は言うまでもないけれど、こんな風にみくるさんと親友と言っていいような関係になれて、しかも彼と出会えたんだから、決して悪いばかりではないと思う。
長門さんも涼宮さんも含めて、僕はSOS団が好きになっている。
それは悪いことではないはずだ。
ただ、少しばかり困ってしまうのは、だからこそ彼に何も言えないままだということがあるからかもしれない。
SOS団が心地好い場所になってしまったからこそ、僕はそれを壊すような真似が出来なくて、彼に思いを告げられないという面も、確かに存在するからだ。
それくらいには僕はSOS団が好きで、だから、あんなことになるなどということは少しも予想していなかった。
自分がそこまでの影響力を持っているということにさえ、気がついていなかったのだ。
だからこそ僕は愚かな振る舞いをしてしまい、結果としてとんでもない事態を招いてしまうことになったのだけれど、この時の僕はまだ、何も知らずにいた。

週明けの月曜日、いつものように正門へ続く上り坂を登りながら、僕は軽く首を傾げた。
いつにも増して視線を感じる気がする。
それも、好意的というには余りにも敵意が感じられるような、あるいは羨望にも似た視線だ。
さて、何かしてしまいましたかね、と思いながら教室に入ったところで、
「古泉くん」
と声を掛けられた。
声を掛けてきたのは同じクラスの女生徒だ。
どこか複雑な面持ちからはいまひとつ感情をうかがい知ることが出来ない。
彼女自身も自分の感情を把握しかねているのではないかと思わせるような表情をしていた。
「おはようございます。どうかされましたか?」
営業スマイル、というわけでもないのだが、すっかり習慣化してしまった作り笑いを浮かべながら問うと、彼女は一瞬怯んだようだったが、それでも耐えかねたように口を開いた。
「朝比奈先輩と付き合ってるって噂、本当なの?」
「……」
今日感じた視線の理由はこれで分かったが、一体どう答えたものか、と僕は考え込んだ。
勿論、全く予想だにしていなかったなどと馬鹿なことを言うつもりはない。
ただ、驚くと共に躊躇っていたのだ。
前々から、みくるさんとはいざという時のことは相談してあった。
みくるさんとしては、どうあってもこの時代で誰かと付き合ったりすることは出来ない以上、また自分はいずれ帰還する身である以上、僕と噂になっても構わないと言ってくれていた。
むしろ、そうなってくれた方がこれ以上誰かに告白されるたびに断り、誰かを傷つけなくて済むから嬉しいとも。
けれど、僕としてはたとえどのような事情があったとしても、彼女にそんな噂が立つのはよろしくないと思っていた。
彼女は妙齢の女性であり、もし万が一にも白い目で見られたりしてはならないと思うからだ。
だから僕は返答に窮し、ただ少しの困惑を笑みに混ぜ、
「そのような噂が立っているんですか?」
と問いかけに問いかけで返した。
「え、…う、うん」
戸惑うように頷いた彼女にわざと聞かせるように、
「そうですか。……それは困りましたね」
と独り言めいた言葉を呟いた。
「あの、古泉くん、やっぱり……?」
「すみません、僕の口からはなんとも……」
当事者のくせにそんなことを言って黙り込むなんていうのは、我ながらタチが悪いと思う。
しかし、やはり僕には彼女に不名誉な噂を立てるようなことは出来ないと思った。
そんなものは、恩を仇で返すようなものだろうから。
せめて、もう一度彼女と相談して、少しでもいい対処法を決めたい。
そんなことを思いながら、みくるさんを探して歩いていた昼休みに、僕はばったりと彼と遭遇してしまった。
こんなのは滅多にあることじゃない。
そもそも彼が昼休みにそうして廊下をぶらついていることからして珍しいくらいだ。
彼は大抵、時間があると居眠りをするか、そうでなければ自分の友人らと話して過ごしているから。
噂が彼の耳にまで届いてなければいいと願いながら僕は、
「こんにちは」
と精一杯の笑みを浮かべて言ったのだが、彼は僕に声を掛けられて初めて僕に気がついたというように一瞬こちらを見ると、すぐに顔をそらしてしまった。
そうしてそのまま踵を返し、逃げるように立ち去ってしまった彼に、僕は言葉も失った。
噂が彼の耳にも入っていたのだろうと思う。
そうでなければ、説明がつかない。
彼は理由もなく人を避けたりしない人だ。
そして、彼がみくるさんに憧憬を抱いている以上、僕を嫌うのは不思議でも何でもない。
みくるさんと二人で会ったりしていることが彼に知られたらこうなることくらい、予想済みだった。
それなのに、どうしてだろう。
こんなにも胸が痛くて、苦しくて、堪らない。
泣き出しそうになるのをぐっと堪えながら、僕は誰にも見られないような場所まで逃げて、目を押さえた。
彼に、あんな表情をさせてしまった。
傷つき、悲しみ、そして憎むような表情が、目に焼き付いて取れそうにもない。
あんな顔をされるくらいなら、いっそ面と向かって罵倒される方がマシだ。
やっぱり僕は、何も分かっていなかったのだ。
みくるさんとの関係についても、それを知られた時に周囲がどうなるかなんてことも、全く分かってなかった。
だから、軽はずみなことばかりしてしまった。
友人付き合いなんて、望んではいけなかった。
僕はもうただひたすら、自分の役目を全うするだけでなければいけなかったんだ。
悔やんでも悔やみきれないまま、僕はみくるさんにお別れを告げなければならないということと、自分の役目を果たすために、放課後、部室に向かった。
本当なら行きたくない。
また彼のあんな表情を見るくらいなら、仮病でも何でも使って逃げ出してしまいたかった。
でも、それではダメだと思うから、体を緊張に強張らせながら部室のドアをノックした。
「はい」
といつもより少し暗いみくるさんの声がした。
びくつきながらドアを開けば、部室の中にはいつもと変わりない長門さんと、心配そうな顔をしたみくるさん、それから憂鬱というよりもむしろ沈痛と言っていいような面持ちをした彼がいた。
涼宮さんはいないらしい。
「こんにちは」
いつも通りを装いながら、僕は僕の席につく。
彼は頷き返すこともせず、物思いにふけるばかりだ。
まただ、と僕は思った。
さっきと同じ。
いっそ怒ったり、当り散らしたりしてくれればいいのに、ひとりで考え込み、傷つきながら抱え込んでしまっている彼が、見ているだけで痛々しい。
不機嫌というよりもむしろ落ち込んだ彼に掛ける言葉を見つけることも出来ず、僕達は息苦しい時間を過ごした。
いつもなら楽しいはずの部室での時間が、こんな些細なことでこんなにも重く、嫌なものに変わってしまうことが驚きで、そうしてしまったことが申し訳なくて堪らなかった。