雨降って



目を覚ました時、自分がどこにいるんだろうかと一瞬戸惑ったものの、すぐに思い出せた。
俺はあの会長とやらのところに世話になってるんだったな。
自分の感覚では、一晩寝たくらいの気分なんだが、実際どれくらい時間が経っているんだろうか。
のそのそと布団から這い出した。
見覚えがないものの、着心地のいいパジャマには、一体いつ着替えさせられたのだろうか。
せめて九曜がそうしたんならいいんだが、と思いながら窓に向かう。
カーテンを開くと、雨は上がっていて、抜けるように青い空、とでも言えばよさそうな色彩が広がっていた。
「…おお……」
いい天気だな。
……というか、ここは一体どれだけ高いところなんだ?
周りのビルが下に見えるばかりなんだが、これじゃ古泉のところと張る高さじゃないか。
呆れているとドアがノックされた。
「どうぞ」
まだ喉が痛いものの声が出たのでそう答えると、重厚なそれが開き、会長と九曜が顔を出す。
まさか九曜が懐いたんだろうか、と戸惑う間もなく、九曜は俺に駆け寄り、ぎゅっと抱きついてきた。
「ああ、九曜、心配掛けたな」
よしよしと撫でていると、
「勝手にベッドから出て出歩いているのはどうかと思うが、大分よくなったみたいだな」
と会長に言われた。
「ええ、おかげさまで」
「まあ、ただの風邪だったしな」
「お世話になってしまってすみません」
そう頭を下げておいて、
「…今はいつですか?」
と聞くと、会長はちらりと時計を見て、
「午後二時を過ぎたところだな」
「そうじゃなくて、」
「お前を拾ってからまだ二日しか経ってない」
「…二日経ってたら十分ですよ。長いことお世話になってすみませんでした」
そう俺が言うと、会長は整った眉を寄せ、
「まるで出て行くような台詞だな」
「え?」
「もう出て行くのか?」
「…あまり、迷惑を掛けても悪いでしょう?」
「別にお前らくらいどうってこともないんだがな」
うそぶくようにそう言って、会長は意地悪く唇を歪める。
「……帰さない、と言ったらどうする?」
「………は?」
なんだって、と訝る俺に、会長はなんでもないような調子で、
「あの古泉が夢中になるような人間だ。俺も興味がある。それに、お前が無一文でいなくなってて、あいつが探してないってことは、もういいってことだろ?」
人の傷をえぐるような言葉を軽く放った会長に、俺は問い返す。
「あいつは探してもいませんか」
「さあな。……だが、あいつが本気で人探しをやろうと思えば、造作もないことだろ。あいつがここに来られないはずもない。それなのにまだ駆けつけてないってことは…」
最後まで言わなかったのは優しさなどではなく、ただ俺の不安を煽りたかっただけなんだろう。
俺は眉が寄ってしわを刻むのを感じながら、
「だからって、あなたに世話になるようなつもりはありません。出て行かせてもらいます」
「出て行って、どうする? 金も何もないんだろ。こんなビルのど真ん中で野垂れ死にでもするつもりか?」
「それは……」
「悪いことは言わん、しばらくここにいろ」
「けど、」
「お前はあいつが探し出すって信じてるんじゃないのか?」
「……それは…」
確かにどこかで期待してはいる。
しかし、そんなことはないんじゃないかとも思えてくる。
やっぱりあいつには俺みたいな人間がいたってどうしようもないんじゃないかとか、冷静に考えればそんなことはないと否定出来そうな考えがどうしようもなく湧き上がってくる。
言葉も出ないほど不安で、苦しくて、おかしくなりそうだ。
黙り込んだ俺に、会長はさっきとは少し違った笑みを浮かべた。
柔らかく、ちょっと似合わないくらい優しい笑み。
その笑みはどこか古泉のそれと似ていて、なるほど親戚というのも本当なのかも知れないと思えた。
「さっきは意地の悪いことを言いはしたが、あいつのことだ、お前を探し出して迎えに来るに決まってるだろ」
そう優しい声で告げる。
「気になるなら根拠までちゃんと話してやるから、まずはベッドに戻れ。食事を用意してやる」
という言葉に大人しく従ったのも、そのせいかもしれない。
俺がベッドに潜りなおすと、九曜もくっついてきた。
九曜なら風邪がうつることもないから構わないかと隣りに寝かせ、その長い髪を撫でてやる。
少しばかり艶がなくなっているのは、俺がこんな状態にあるからなんだろうか。
「ちゃんとミルクを飲ませてもらってるか?」
九曜は少し躊躇った後、首を振った。
「……もらってはいるんだろ?」
という問いかけには頷くということは、
「…飲みたくない、か」
申し訳なさそうに、九曜は小さく頷いた。
「……俺が用意したら飲めそうか?」
九曜はしばらく考えていたが、小さく首を傾げるに留めた。
なんとも答え辛いのだろう。
俺はため息を吐きそうになるのを堪え、
「…お父さんがいないとやっぱりだめか」
と九曜の頭を撫でながら、こっそりと内緒話をするように顔を寄せる。
「……お母さんも、だめみたいだ」
首を傾げる九曜に、小さな声で話して聞かせる。
「さっきはあんなことを言ったし、あれで不安になったりもしてるんだけどな、それでもやっぱり、お父さんがいないと嫌だ」
あれだけ怒ったのは俺だったのに、虫がいいといわれるかも知れないし、俺を信じてなかったのかと思うと泣きたくも怒鳴りたくもなるのはあまり代わらないのだが、
「信じてもらえてなかったなら、これから信じてもらえるようにすりゃいいんだよな。…あいつがああ見えて疑い深いというか、自分に妙に自信がないのだって、今に始まったわけでもなし、ショックを受けるだけ俺が未熟だったってことでもある」
だから、と俺は九曜を抱き締め、
「ちゃんと風邪が治ったら、お父さんのところに帰るか」
九曜は勢いよく頷き、俺にしがみついてきた。
それから少しして、会長がわざわざ自分の手で病人食を運び込んで来てくれた。
その香りだけでも食欲をそそる、上品な雑炊だったのはいいのだが、
「……まさかあんたが作ったとか言わないよな…?」
「これくらい簡単だろ。出汁はパックで売ってるやつで、具も刻んである冷凍のやつだ」
「はー…」
ベッドの上に起き上がり、頭側の棚に背中を預ける形で姿勢を安定させる。
それからようやく綺麗な陶器に盛り付けられたそれをお盆ごと受け取り、膝に乗せた。
レンゲを取り、慎重に吹き冷まして口に運んでもまだ熱かったが、それも含めておいしい。
「おいしいです…」
「それはよかった。お前が料理上手だと散々聞かされたから、口に合わなかったら悪いかと思ったんだが」
「俺は普通ですよ。家事をちょっとやってたって程度ですし」
「それがよかったんだろうな」
しみじみと呟いた会長は、傍らの椅子を引き寄せてきたかと思うと、行儀悪く背もたれに向かって座り、こちらをのぞきこんでくる。
「…食べながら話を聞くか?」
「……お願いします」
「ちゃんと食えよ」
そう小さく笑って、会長は少し考え込んだ。
何から話そうかと選ぶような顔をしていたが、ややあって口を開いたと思うと、
「あいつはな、本当に散々惚気やがったんだ」
という話から始まった。
「……はあ」
「お前の料理がうまいとか、ぴかぴかに掃除してくれるとか、遅くなっても帰りを待っててくれるだとか、そりゃもうあらゆることを惚気てくれた。俺がうんざりしてるのも分かってるくせにとめなくってな」
うなざりしたと言う割に、会長は愉快そうに笑っていて、
「だが、あんな幸せそうな古泉は初めて見た」
「……」
「大抵俺には愚痴るのがいいところで、それすら出来なかったことも多い。それが、あれだけにこにこして、もういいってのに喋り続けるなんてのも初めてだった。ようやく、いい相手を見つけたんだなと嫌でも分かった」
そうかもしれない、と思っている俺に、会長は少し声を小さくして、
「あいつな、」
と打ち明け話をするように言う。
「好きになったのが初めてだから、どうしたらいいのか分からない、でも、幸せで堪らないんだなんて言ってたぞ」
「……そこまで…?」
そう思っていてくれただろうとは思わないでもなかったが、実際その通りだと思うと恥かしい。
それを人の口から聞くと尚更だ。
顔がどんどん赤くなる。
会長はにやにやしながら、それでも最後まで言ってくれた。
「極めつけはこれだな。……お前がいてくれるだけで、それだけで幸せなんだと」
「……あいつ…」
ばか、と口の中で罵っていても、顔がにやけてどうしようもない。
「ま、慣れてない分だけ不安にもなるし、ついむきになったりもするんだろ。あいつのことは子供だとでも思って、堪えてやってくれ」
「……あんたは、古泉のことが可愛いんだな」
思ったままを口にすると、会長は心底嫌そうに眉を寄せ、
「あいつの機嫌が悪いと仕事に差し支えるってだけだ」
と言い捨てた。
それがいかにもとってつけたような言い訳で、俺は苦笑するしかない。
「…笑うな」
「すみません。……でも、おかげでちょっと落ち着きました」
と俺は会長を見つめ返し、
「あいつが子供だってことを、うっかり忘れてたみたいです。それか、もう大丈夫かと思ってたのかもしれません」
「それが大きな間違いだな」
とニヒルに笑っておいて、会長は端末を取り出し、
「あの馬鹿を呼びつけてやろうか?」
「……お願いして、いいですか?」
「悪けりゃ言わん」
そう言って慣れた様子で端末を叩き、
「ああ、古泉か? ……それどころじゃない? まあそうだろうな。…………うるさい、文句を言う筋合いはもうないんじゃないのか?」
なんとなくやりとりが伺えるような言葉に俺は笑っていたのだが、会長の言葉に肝が冷えた。
「今、お前の大事な嫁さんが、俺のベッドで赤い顔をして待ってるんだが、お前も来るか?」
「のあぁ!?」
何を言い出すんだと思わず絶叫すると、会長は顔をしかめて通話を終了させた。
「向こうまで叫びやがった」
「そりゃ叫びますよ…」
「俺は間違ったことは言ってないぞ?」
間違ってはないかもしれないが、あんないかがわしい言い方をすることはないだろう。
余計に煽っただけじゃないのか?
「まあ、これでだめになったら、それこそ俺が責任取ってやるよ」
そんなことはあり得ないとでも言うように、会長は笑った。