罠あるいは試練



雨に濡れるのも久しぶりだと思いながら、歩き出す。
行くあてはない。
ああタンカを切った以上、実家に戻ることも誰か友人を頼ることも出来ない。
無一文でいっそのたれ死んでしまえばいいと思う程度には自暴自棄になっていたのだが、何か足音がついてきているような気がして振り向いた。
古泉が追ってきてくれたんだろうか、なんて馬鹿げた期待をした訳じゃないのだが、そこには誰もいなかった。
「気のせいか…」
どうかしてる、と頭を振り、もう一度歩き出す。
……やっぱり足音が聞こえる。
それもどこか軽くて小さな音だ。
路地を曲がり、いきなりぱっと振り向くと、そこにはなんと、九曜が立っていた。
「九曜? ついて来ちまったのか?」
見つかったから、というのか、びしょ濡れになった九曜はとととっと駆け寄り、俺に抱きついた。
「九曜……」
心細そうに俺を抱き締めはするが、帰ろうと促す様子はない。
「…つれてけってことか?」
こくんと強く頷いた九曜を無理に帰らせることは出来ないだろう。
どうしてもというなら、自分が戻らなくてはならなくなる。
仕方ないと諦めて、俺は九曜の手を握った。
「…行くか」
こくんと頷いて、九曜はしっかりと俺の手を握り返す。
決して離さないと決意しているような姿がいじらしくも心強かった。
そのまま、どこかで時間をつぶすことにしたのだが、所持金はゼロだし流石に夜中にはショッピングセンターの類も閉店しちまう。
そもそも、そういう商業施設がまるでないビジネス街のど真ん中である。
金を持っているビジネスマンが時間をつぶすのにはいいコーヒーショップやカフェ、バーなんかはあったが、当然金がなくては入ることも出来ない。
そして、アーケードどころか軒すらないような高層ビル街では、雨宿りの場所にも困り、真っ黒な空の下、辛うじて残る街灯を見つめながら、雨の冷たさに震えることになった。
実際にその雨が冷たかったのかは分からない。
ただ、振り続ける雨はじわじわと俺の体温を奪い、少しずつ冷えて行く体は濡れそぼった溝鼠よりも情けない姿になってきた。
濡れたシャツの上からでも分かる貧相な体。
ピカピカのビルの大理石に映る顔だって、ぱっとしないものなのに。
嫉妬なんてするだけ馬鹿げてる。
「……古泉の、阿呆…」
小さく呟くと、九曜が俺を見上げ、小さな腕で俺を抱き締めてくる。
俺が体で庇っている分、九曜はあまり濡れていないが、その柔らかくて上等な服がしっとりと重くなっていることはうかがえた。
古泉のことだ。
きっと雨が降っていることにも気付いていないに違いない。
気付いていたら、きっと、必死になって探してくれると思いたいのは完全に俺のわがままだし、妄想だろうが。
そうでも思わなければやりきれなかった。
大体、あいつの方こそ妄想に囚われているとしか思えない。
何をどう勘違いすれば、俺がそんなにもてるように思えるっていうんだ。
自慢じゃないが、俺はこれまでに彼女がいたようなこともなければ、今後出来る予定も自らなくしたような奴だぞ。
それに、たとえ冗談でもハルヒとキスなんてしたら、まともに古泉と話したり抱き合ったり出来るような厚かましさも持ち合わせてない。
自分でも要領の悪さを呆れるくらいだってのに、そんな器用な真似が出来るものか。
ため息を吐くと余計に体温が失われたような気がして、ぶるりと身を震わせた。
「…さみぃ……」
どうにかしてくれ、と縮こまるように座り込んだ時だった。
目の前に最新式の高級車が止まり、窓が開く。
「おい、どうした。急病人か?」
今時珍しくも親切な奴が乗っていたらしい。
その声に顔を上げると、そいつはなんだか分からんが驚いたような顔をした。
警戒するように、九曜は俺の前に出て、そいつを見つめる。
「病人じゃない…」
カチカチと歯が鳴るほどに震えながらもそう返すと、そいつは眼鏡の向こうで眉を寄せた。
「病人じゃないにしても、そんな状態の奴を放っておけるか。来い」
音を立てることなくドアが開き、そいつはわざわざ車から降りて来た。
「いい、放っといてくれ」
と抗おうとするが、
「そうは行くか。ここで野垂れ死になんてされるとこっちの寝覚めが悪くなる」
と腕を掴んだ手が暖かく思えた。
「どれだけ雨の中にいたんだ? すっかり冷え切ってるじゃないか」
「う……」
迷惑を掛けたくないとか、こんな怪しい奴についていけるかと思っていたはずだってのに、そうやって引き寄せられ、抱きかかえられると力が抜けてどうしようもなくなった。
体に力が入らない。
「無理するな。…多分お前が自分で思ってるより相当酷い状態だと思うぞ。顔なんか真っ青だし、呼吸も……医者がいるな、こりゃ」
独り言のように呟かれる言葉を聞きながら、俺は意識を失ったようだった。

暖かくて気持ちがよくてふわふわした心地のよさに包まれているのに、俺の心の中は酷く冷えていて、寂しくて、悲しくて、泣きそうだった。
撫でてくれる手は優しく、泣いていいと告げる声は慈悲深いのに、俺の心はちっとも休まらない。
何かが違うと叫び続けているようだった。
苦しくて堪らず目を開けると、まず見えたのは白い煙だった。
ゆらゆらと揺れて消えて行くそれを見つめ、ああ、煙草かと思ったものの、身近に喫煙者がいない俺は、それが誰のものなのか分からなかった。
「う……」
「起きたか。…ああ、無理はするなよ。酷い熱だからな」
「…え……?」
聞き覚えのない声を訝り、顔をそちらに向けると、そこには指先で眼鏡を弄びながら紫煙をくゆらせる男がいた。
「……誰…だ……。…九曜は…?」
「しゃべるな。喉も相当痛むだろ」
その通り、小さく何か言うどころか、大きく息をするだけでも喉がひりつくほど痛い。
頷き返すと、ついでに咳も出た。
「典型的な風邪だそうだ。あの大雨の中、びしょ濡れでどれだけつっ立ってたか知らんが、肺炎を起こしたりしてないだけマシだったな」
皮肉っぽく薄く笑って言った男を、
「またそんな憎まれ口を聞いてるんですか?」
と穏やかで笑みを含んだ女性の声がたしなめた。
「お願いですから、社員の前でそういうことを言うのはやめてくださいね、会長」
「人前ではちゃんとしているだろう? 十分過ぎるほどに」
クッと喉を鳴らして笑った男は会長と呼ばれ、社員を抱えているような人間らしい。
「俺は、」
とそいつは名前を名乗ったものの、
「まあ、会長と呼んでくれ。半分以上あだ名みたいなもんだ」
と意外と人好きのしそうな笑みを浮かべて言った。
「わたしは会長の秘書で喜緑江美里と申します」
そう名乗った女性は、俺の顔をのぞき込みながら、
「あなたの連れていたプランツは別の部屋で休んでいますから、安心してください」
と言ってくれた。
その穏やかな笑みを額面通りに受け取れるような素直さは生憎ない俺だが、この人たちはとりあえず信じていいように思えた。
彼女はそれだけを伝えておこうと思ったようで、
「では、わたしは彼女についていますから。…会長、病人の側で煙草はやめてくださいね」
と言って部屋を出て行った。
苦しいながらも首をめぐらせると、この部屋がなかなか立派な寝室であることが分かった。
今時珍しく重厚な内装といい、ふかふかで広々としたベッドといい、贅沢なもんだ。
古泉の家と勝るとも劣らない。
「お前、古泉一樹の嫁さんだろ」
不意にそう言われ、ぎょっとした。
俺と古泉のことはまだ公けにされておらず、知っているのも一部の関係者だけだ。
それなのにどうして、と戸惑う俺に、ようやく煙草の火をもみ消した会長はにやにや笑いながら、
「古泉からたっぷりのろけを聞かされた。お前とお前の連れてたプランツ・ドールの写真も見せられてたから、お前だと分かって、余計に見捨てられなくなったんだ」
「…あんたは……」
「しゃべるなって」
俺の唇に指先を当てて言葉を遮り、会長は柔らかく目を細める。
「俺は、あいつの大甥だ。そういう言葉があるのかどうか知らんが、まあそうなるんだろ」
とよく分からんことを言う。
「つまり、俺の爺さんの弟があいつで、あいつの兄の孫が俺ってわけだ」
言葉を弄ぶようにそんなことを言った男は、古泉とさほど年が違うようにも見えなかったが、古泉に年の離れた兄や姉が何人もいるらしいことから考えると、不思議でもないのかも知れない。
しかし、古泉は親類関係にはあまりいい印象をもっていないようだったし、そちらから好意的なアプローチを受けたという様子もなかったのに、どうして俺を助けるつもりになったのだろうかと首を捻ると、
「俺は既に財産ならそれなりのものがあるし、これ以上あの旧態依然でトップが馬鹿みたいに忙しくしなきゃならんような会社までほしいとは思わんからな」
と皮肉っぽく笑った。
「それよりは、あの感情欠落人間にのろけを言わせるような人間の方に興味がある」
と言われ、びくりと身を竦ませた俺に、会長は興味深げな眼差しを投げかける。
「どう見ても普通だな。お前に関して調べた資料を親父共に見せてもらったこともあるが、それにも特筆すべきものはこれといってなかった。……だからこそ、あいつにはよかったんだろうが」
と会長は唇を歪め、軽く目をそらした。
「詳しくは話さんぞ。どうせあいつから聞くか、聞いてないにしても察してるだろ」
という言葉には頷かせてもらう。
「あいつの会社とうちが、このところ同じプロジェクトに関わってる分、一緒に仕事をさせられることも多かったんだが、前とは比べ物にならないくらい表情やなんかがよくなってたな。……あんたのおかげなんだろう」
そう他人にまで言われると思わなかっただけにくすぐったくなるが、ろくにしゃれない状態では反論も出来ない。
ただ苦笑した俺に、会長は小さく、
「おかげで、一緒に仕事をするにしてもやりやすくなった」
本当だろうか。
「本当だ」
…だとしたら嬉しかった。
精々家事くらいしか出来ない俺でも、古泉の役に立てるということが。
「……もう少し寝ろ」
話しすぎたとでも思ったんだろうか。
どこか照れ臭そうに言った会長は俺のまぶたをそっと閉じさせ、その上から優しく撫でる。
さっきの手もこの人だったんだろうかと思いながら、そのひんやりした手が気持ちよくて、俺は再び眠り込んだ。