前触れ



一週間の帰省を、俺は俺なりに楽しんだし、寂しいと思ったりもしなかったつもりでいたのだが、ビルの最上階にあるあの家に帰るとなにやらほっとしたし、俺たちより一時間ほど遅れて、古泉と有希が帰ってきたのを見ると、なにやら泣きたいような気持ちになったのだが、それを顔に出すより早く、
「ただいま帰りました」
と泣きそうな声で言った古泉に抱き締められていた。
「…お帰り」
その肩に頭を埋めると、いつもとは少し違う匂いがした。
だが、それでも古泉の匂いだし、暖かさだった。
「あなたに会いたくて仕方がありませんでした」
「…俺も…そうだったみたいだ」
ぎゅうと力を込めて抱き締めたのに、
「…みたいってなんですか?」
と拗ねた声がする。
「…しょうがないだろ、別に気にならなかったんだから。だが…今、こうしたら、お前のことが恋しくてたまらなかったんだなって…思うから……許せよ」
「嫌です、と言ったら?」
「……そういう台詞はもっと厳しい声で言ってくれ」
笑いながら、俺は顔を上げ、すぐ近くにある唇に自分のそれを重ねた。
「飯はどうする?」
「今帰ったばかりでは忙しないかも知れませんが、どこかで食事でもいかがです?」
「出てくのもしんどいだろ。それくらいならデリバリーでも頼もうぜ」
「それもいいですね」
頷いた古泉を連れて居間に入る。
途中、古泉の堅苦しいスーツのジャケットを奪い、ついでにベルトも引き抜いてやったら、
「誘ってますか?」
なんて言われたが、
「んな訳ないだろ。有希と九曜の前で何言ってんだ」
と額を引っ叩いてやった。
しかし、だ。
誘ってやりたいような気持ちがない訳でもないので、こっそりと小さな声で、
「それは後に……な」
と囁いてやった。
ぴくと反応した古泉が嬉しそうな顔で頷くと、俺までやっぱり嬉しくなる。
べた惚れ過ぎて恥かしいくらいだが、他人が見てるところでやらかしてはないんだから、許してもらいたい。
古泉をソファに座らせ、俺は端末を引き寄せる。
その間に九曜と有希がソファに陣取り、有希が俺の、九曜が古泉の隣りに座る。
珍しい座り方だが、しばらく顔を合わせなかったのが誰か、ということを考えると自然だろう。
「お父さんのお守が大変だっただろ。有希、お疲れさん」
と頭を撫でてやると、有希が気持ちよさそうに軽く目を細めた。
俺は古泉に端末を見せつつ、
「何が食べたい?」
「和食がいいですね。…しばらく食べられなかったので」
「今時どこでも同じかと思ったが、そうでもないんだな」
「パーティーや何かの社交の仕事のために行くと、どうしても行った先の地元のものを食べることになりますからね」
そう苦笑して、古泉はさり気なく俺の腰を抱き寄せつつ、
「あなたは何か希望は?」
「なんでもいいぞ。…こういうのも久しぶりだから、少しくらいお高くても目をつぶってやる」
にやりと笑った俺に、古泉は優しく微笑を返し、
「里帰りは楽しかったですか?」
「里って程、遠くもないけどな。実家は実家で楽しかった。久しぶりに友人にも会えたし、九曜にもいい刺激になったんじゃないか?」
「それは何よりですね」
そう言っておいて、古泉は俺の頭に顔を寄せる。
「…汗臭いだろ」
「いい匂いですよ。…あなたの匂いがします」
「ばか。ほら、いいからとっとと食うもんを決めろ。弁当か? それとも寿司か? ちょっと加熱するくらいならしてやるから、鍋のセットなんかでもいいぞ」
「精をつける、ということでうなぎなんてどうですか?」
という言葉に含みを感じないでもないが、先に誘ったのは俺だったな。
俺は小さくため息を吐いて、
「しょうがないな」
と頷いてやる。
手早く近くの店にうな重の注文を出し、端末を放り出す。
そうしておいて、
「着替えて来いよ。くたびれてるんだろ。ついでにシャワーも浴びて来い」
と古泉に言ってやると、
「あなたも一緒に…」
なんて言いやがるが、
「それは断る」
「なんでですか」
へにゃりと情けない顔になって言う古泉に俺は苦笑して、
「そんなことしてたら長くなるだろ。疲れてるんだったら無茶すんな。…そういうのはゆっくり出来る時にな」
「はい」
にこりと嬉しそうに言う辺り、こいつも単純で可愛いよな。
古泉を風呂においやり、俺はというと着替えを取りに行く。
九曜と有希は居間で黙ったまま、なにやら話し合っているようだったが、俺にはよく分からなかった。
二人の言葉――そういうものがあるとしての話だが――は、俺には分からないのが残念だ。
それを微笑ましく見ながら今を横切り、脱衣所に着替えを持って行く。
「着替え、置いとくからな」
「ありがとうございます」
風呂場特有の反響してどこかくぐもった調子で、古泉の声が返ってくる。
ただそれだけのことがなんでだか妙に嬉しくてくすぐったい。
だから、と俺は足を止め、
「九曜ってな、結構人見知りみたいだぞ」
と帰省中のことを口にした。
「そうなんですか?」
シャワーの音に紛れてもくっきり聞こえる声に、つい顔が緩む。
「ああ。…俺の友人に懐くまで、ほとんど一週間かかってたな。最終日になってようやく慣れたみたいだったが、それまでは俺が離れると慌てて俺の所に来たりして、可愛かった」
「それは可愛らしいですね」
と笑った古泉に、
「有希はそういうことはなかったのか?」
と尋ねると、古泉は少しの間黙り込み、
「…なかった……と、思います」
「その歯切れの悪さはなんだ。……って、ああ、そうか」
うっかり失念していたが、以前の古泉は有希に対してそういう感心を持ってはいなかったんだった。
ということは、そういうことがあっても覚えてないだろうし、そもそも有希の方だって、最初からなんとか頑張ろうと無理をしていたかも知れない。
「情けない話です…」
少しばかり声を沈ませる古泉に、可愛いなんて思っちまいながら、
「それがよく、今みたいな子煩悩な親バカになれたよな」
と返すと、
「あなたのおかげですよ」
「そうかい」
「ええ、」
その言葉と共にシャワーの音が止んだと思ったら、すぐにがらりと戸が開いた。
「…あなたのおかげです」
ともう一度繰り返した古泉の笑みに、俺も笑みを返す。
「お前はことあるごとにそう言うが、ある程度は元々お前が持ってたものなんだからな。俺はただ、それを出しやすいようにしてやれたってだけだろ」
「そうでしょうか?」
「ほら、いいからとっとと体を拭け」
ふかふかのバスタオルを広げて古泉の顔面に押し付けてやる。
そうして脱衣所から逃げ出すと、有希と九曜が端末を手に駆け寄ってきた。
「ん? どうした?」
見れば、今日の晩飯がもうそろそろ到着するということらしい。
こういうデリバリーを頼むと、秘書室の方に届くことになっているので、そちらまで取りに行っておかなければ持って来られてこちらが恐縮する破目になる。
俺は自分が見苦しい格好をしていないことを確認した上で、
「受け取りに行ってくる」
と古泉に一声掛けて、家を出た。
何か音がする、と思って上を見上げると、どうやら雨が降り出しているようだった。
温室になっているこの庭では関係ないことだが、雲の黒さといい、随分と激しく降りそうだ。
このところ天候を気にすることもあまりなかったなと自分の引きこもり生活を反省しながらエレベーターに飛び乗った。
すぐ下のフロアに下りると、もう終業時間は来ているだろうに、森さんがまだ仕事をしていた。
「こんばんは、お疲れ様です」
と言うと、森さんは静かに頭を下げ、
「こんばんは」
と微笑した。
この人の笑い方は古泉の作り笑いと似ている気がする。
もっとも、森さんの方がよっぽど巧みに見えるのだが、それは俺が古泉の作り笑いをそれだと見分けられるようになったから、そう思えるだけのことなんだろうか。
「どうかしましたか?」
森さんがそう尋ねるのへ、
「出前を頼んだので、取りに来ただけなんですよ」
と苦笑を返すと、
「そうでしたか。よろしければ、」
と彼女は傍らのサーバーに手を伸ばし、
「コーヒーでもいかがです?」
「すぐ来ると思うので、少しだけ」
そうして、応接セットの一人がけのソファに腰を下ろした。
「古泉が鬱陶しかったでしょう?」
そう言った森さんは、さっきとはまた微妙に違った笑みを浮かべていた。
「出張の間中ずっと、あなたに会いたいとうるさかったくらいですから」
「鬱陶しいというほどでもありませんよ。…多少べたつかれはしましたけど、許容範囲内です」
「それは何よりです」
と微笑した森さんは、少し真面目な顔をして、
「…あなたのことを、改めて調べさせていただきました。事後報告ですみませんけど」
「構いませんよ。そういうこともあるだろうとは思ってましたから」
だからと言って何か気をつけたりもしなかったが、それで問題があるとも思えない。
俺にやましいところはないからな。
「本当に、古泉とは違う育ち方をされたんですね。勿論、いい意味で、ですよ」
しみじみと彼女は呟いた。
「あの子に、暖かな家庭を作れるなんてまるで思えませんでしたけれど、あなたならきっと大丈夫なんでしょう」
そう言われると照れるが、
「森さんのように、あいつを暖かく見守ってくれる人がいるなら大丈夫でしょうね」
と返させてもらった。
そんな風に話していると、小さなカップに半分ほど注いでもらったコーヒーが空になったところで、頼んだうな重が届き、俺はソファから腰を上げた。
「それでは、また今度。…よろしければ、古泉が留守にしている時にでも、遊びに来てください。そろそろ庭の花も見ごろですから」
「ありがとうございます」
と森さんは言ったが、おそらく来てはくれないのだろうと思った。
家を出てから帰るまで、それほど長い時間がかかったとは思わないのだが、どうやらその短い間に何かがあったらしい。
「ただいま」
と帰った俺を古泉が迎えに出て来ないと思ったら、見たこともないような荒んだ目をした古泉が居間で俺を待っていた。
泣きそうな、暴れたいような、あるいは喚き散らしたいような、妙な顔だ。
俺は一体何があったんだろうかと危ぶみながら、とりあえず荷物をテーブルの上に下ろし、
「どうした?」
と声を掛けた。
「どうしたもこうしたもありませんよ」
返って来た声はいやに冷たかった。
冷ややかと言ってもまだ足りない。
刺すように冷たい声だった。
「古泉…?」
「これはどういうことでしょうか」
と言った古泉が見せたのは、端末の手の平大の画面いっぱいに映る、俺とハルヒが喫茶店でお茶を飲んでるところの写真だった。
「……なんだこりゃ」
いつの間に撮られたんだろうか、と思いながらそれを見ていると、古泉が次の写真に進めた。
「…なっ……!?」
そこには、俺とハルヒがキスをしているとしか見えない写真が載っていた。
「どういうことです?」
先程より鋭さのある声で言った古泉に、
「俺の方が聞きたい」
と返す他ない。
「なんでこんな写真が……」
「こういうことを、したんですか」
眉を寄せる古泉に、俺はむっと胃の中で何かが暴れるような感覚を抱きながら、
「するわけないだろ。こんなもん、合成か何かだ。ハルヒとキスなんて、罰ゲームでもしねえよ」
「ハルヒ、というんですか、この人は」
「ああ。俺の幼なじみだ」
「…この人が」
そう言って古泉は恨めしげに写真を睨みつける。
「……お似合いですね」
と呟かれて、今度こそ頭に血が上った。
「それはどういう意味だ」
苛立ちも露わに問いかければ、古泉はぎこちなくも薄く笑って見せた。
「そのままの意味ですけど?」
「お前にそういう自虐趣味があったとは知らなかったな。お似合いも何も、俺はハルヒと付き合ったことはないし、これから先も有り得ん。ばか言ってないで、そんな合成写真、始末しちまえ」
「本当に、合成なんですか?」
「なんだと?」
「僕がいない間に、ご実家に帰られて、こういうことがあったんでは、」
古泉が最後まで言葉を口に出来なかったのは、俺が思い切り古泉の頬を引っ叩いたからだった。
「そんなに俺が信じられんか」
そう言い放ち、呆然としている古泉の目の前で、俺はポケットから財布を引っ張り出す。
どうせ中身はほとんどこいつの金だとかカードの類だ。
そのままぽんとテーブルに放り捨て、ほかにも家の鍵だとかここへ入るためのカードや自分の端末なんかも投げ出してやる。
「何を…」
ようやく放心から我に返った古泉に背を向け、短く吐き捨てる。
「出てく」
「……」
「言っておくが、ハルヒのところに走ったりする気はないからな。実家に戻るつもりもない」
「…じゃあ、どこに行くんです?」
「知るもんか」
むしゃくしゃするのをぶつけるように廊下を蹴り、家を飛び出した。
そのままエレベーターに乗って、一階まで下りる。
通行証になってるカードを放り出した以上、外に出ちまえばもう戻れない。
それでも構うものかと思った。
外はおあつらえ向きに土砂降りで、生温い雨がいっそ気持ちいいくらいだった。