挨拶



「こんにちは。こうしてお目にかかるのは初めてですね。…初めまして」
そう言って俺の前に現れたのは、小柄ながらも凛として、どこか威圧感のある女性だった。
「古泉の秘書を務めております。森園生というものです。どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、初めまして」
などと俺が型通りの挨拶をしているのがどこかと言うと、すっかり我が家と呼んでも差し支えないんじゃないかというくらい世話になっている、古泉の家の応接間である。
久しぶりにスーツなんか着て、この森さんという女性を迎えたわけだ。
声なんかは度々聞いていたし、文書でのやりとりもそれなりにあったのだが、こうして実際に顔を合わせるのは初めてだ。
「それで、今日、わざわざ私を呼んだ理由をおうかがいしましょうか」
そう言って森さんは古泉を見据えた。
「前々からお話していた通りのことですよ」
「……本気だったんですか」
ぽつりと呟かれた言葉は本気に聞こえた。
…古泉。
「なんですか?」
「お前、本当にちゃんと説明してたのか?」
「してましたよ。心外ですね。ただ、」
「私が本気にしなかっただけです」
と森さんはため息を吐いた。
「まさか古泉が誰かを好きになるなんて思いもしませんでしたし、それが男性だなんて余計に冗談だとしか思えなくて……。それくらい、以前のこの子は酷かったでしょう?」
と言う言葉には、俺も苦笑しながら同意せざるを得ない。
「でも、古泉は変わってくれましたよ」
「…そうでした。それも、あなたのおかげだったんですね」
改めてそう言われると頷き辛いが、
「彼のおかげですよ」
と古泉にはっきりと肯定され、つい、笑みが零れた。
嬉しいだろ、ばか。
「それで、彼と結婚したい、と」
「ええ。いけませんか?」
「…スキャンダルは避けてもらいたい…と言いたいところですけど、あなたが頑張ってくださっているのは事実ですし、あまりにもスキャンダルがなさすぎて根も葉もないことを書きたてられるよりは、ここらで何かエサをやった方がいいかもしれませんね」
「…僕の結婚はエサですか」
不服気な古泉を意に介する様子もなく、
「エサでしょう。同性の、それも自分の直接の部下との結婚なんて」
そう嘆息した森さんは、しかし、小さく微笑んだ。
「でも、あなたにそれだけの情緒が芽生えて何よりです」
「森さん…」
「本当に、以前のあなたときたら、仕事熱心で優秀なのはいいけれど、人間らしい温かみというものに欠けていて、まるでアンドロイドでしたからね。それこそ、プランツの方が人間らしく見えるくらい」
俺はそうだろうと苦笑して、
「最近はどうです?」
「最近は…そうですね。部下の評判もいいんですよ。優しくなったって」
「それは何よりです」
「でも、」
と森さんはその表情を曇らせて俺を見つめた。
「あなたは、分かっているんでしょう? 古泉が命を狙われているということも、あなたもそれに巻き込まれる可能性があるということも」
「だからこそ、結婚したいと言い出したんです」
命を狙われて、それでたとえ本当に命を落としたとしても後悔はしない。
たとえそうなったとしても、結婚さえしていれば残せるものは多いとも思う。
「覚悟は決まっているようですね」
ほっとしたように、森さんは笑っておいて、少し意地悪く言った。
「…古泉の財産が目当て…なんてことはありませんよね?」
「だとしても、そう答える人はいないと思いますけど」
と俺は苦笑しておいて、ちゃんと答える。
「正直、こいつの財産に興味なんてないんです。どれだけあっても関係ありません。少ないなら俺も働いて稼ぐだけの話ですし、多いからと言って贅沢したいとは思いません。生まれつきの貧乏性なものですから」
「…そうですか」
森さんは優しく古泉を見つめた。
「いい方が見つかってよかったですね」
「それは違いますよ」
と古泉は答えた。
「彼に受け入れてもらえたことが、何よりの幸いなんです。…ねえ」
優しく見つめられて嬉しくないわけじゃないが、人前でそんな風に堂々とのろけられて、俺は盛大に赤くなり、ぎゅっと古泉の足を抓ってやった。

森さんは古泉の後見人のようなものでもある、ということであり、その他に古泉には身内があるそうなのだが、差し当たり、森さんに挨拶さえしておけばいいという話だった。
後はお披露目のパーティーがどうのという恐ろしい話が待っているそうなのだが、今は気にしないでおく。
そういうわけで、次に挨拶すべきはうちの家族ということになった。
それにしても…久々に帰ったと思ったら雇い主を連れていて、しかもそいつと結婚するなんて話をすることになるとはなぁ。
感慨深く、つまりは現実逃避めいたことを思いながら、俺は実家の前に下り立った。
SPさんたちにはそこで別れて、古泉の他は九曜と有希を連れて家に入る。
「ただいまー」
と声を掛けて玄関に上がり込んだ俺を、
「お帰り」
とお袋はなんでもないような顔で迎えたが、一応話の概要は伝えてある。
それでこの反応ってのは……悪くない、のかね?
「初めまして、お邪魔します」
と古泉は頭を下げ、お袋を見た。
お袋はと言うと困ったような顔で、
「初めまして。うちの息子がいつもお世話になってます」
と型通りの挨拶をする。
「いえ、僕の方がお世話になりっ放しで……」
そう苦笑した古泉の表情は、なんとも言い難い。
家にいる時ほど寛いではいないが、かといって、社長として外に出てる時よりは柔らかい。
どこか不安定にも見えるのは、どうしたらいいのか分からず戸惑っているというところだろうか。
そう固くならなくてもいいんだが、今日の話の内容からすると仕方がない部分もあるか。
そんなことを考えながら、俺は有希と九曜を自分たちの後ろから引っ張り出し、
「こっちが有希でこっちが九曜。二人とも可愛いだろ」
と紹介すると、お袋の顔も緩んだ。
「あら本当。可愛いわ」
にこにこしながらしゃがんで、有希と九曜を見つめる。
有希は微動だにしないが、九曜は恥ずかしいのか、ちょっとだけ有希の後ろに隠れた。
まあ、パーティーなんかに付き添う有希と、俺と家に篭りきりの九曜とじゃ、慣れ方が違うから当然か。
「よろしくね」
にこやかにお袋が言うと、有希は行儀よく頭を下げ、九曜は有希に促されてそうした。
俺は二人の頭を軽く撫でて、
「ん、よく出来ました」
ほっとした様子を見せる二人に、お袋も古泉も目を細める。
「ああ、いつまでも玄関先じゃ悪いわよね。さあさあ早く上がって」
促されるまま俺たちは家に上がり、リビングに転がり込んだ。
そこには親父もいて、話の準備は出来てるらしい。
「母さん、妹は?」
「帰ってるわよ」
「じゃあ、有希と九曜はあいつに遊んでもらったらいいな」
ちょっと待っててくれ、と俺は古泉に言って、二人を伴って二階に上がる。
妹の部屋のドアを叩くと、
「どうぞー」
と相変わらずお気楽そうな声が返ってくるのには苦笑した。
「入るぞ」
ドアを開けると、もう高校生のはずで、体つきなんかはぐっと女の子らしくなったくせして、伸びない身長同様にどこか幼さの残る顔をした妹がベッドに座ってた。
「キョンくん久しぶりだね」
「そうだな」
「本当に旦那さんつれてきたのー?」
「まだ結婚してないんだから、旦那とは言わんだろう」
実質的にはそんなもんだが。
「そっかー。キョンくんも結婚とかしちゃう歳なんだねー」
妹のくせに年寄り臭いことを言う奴である。
その妹は、ドアの陰からこっそりと様子を見ていた有希たちに気がついたらしく、
「キョンくん、その子たちが?」
「ああ、俺の子供みたいなもんで、プランツ・ドールの有希と九曜だ」
「プランツなんて、初めて見たー」
そう言った妹に、
「俺たちが話をしてる間、こいつらの面倒を見てもらって構わないか? 別に同席させても構わないんだが、お袋たちが気にするかも知れないし、せっかくだからお前と遊ばせてやりたくてな」
「うん、いいよー。よろしくね、有希ちゃん、九曜ちゃん」
「ほら、有希も九曜も入って来い」
そう促してやっと、二人は部屋に入ってきた。
どことなく緊張しているように見えるが、流石にうちの妹も、小学生の頃みたいな無茶はしないはずだから、安心していいんだぞ?
「キョンくんの娘なら、あたしの姪っ子ってことだよね。叔母さんだよー。よろしくね!」
嬉しそうに自分で自分を叔母さんと言うのもそうとうおかしいと思うが、どうやら喜んでいるらしい。
にこっと笑った妹に、少しは安堵したか、二人がそろそろと近づく。
「それじゃ、頼んだぞ」
そう言い置いて、俺は足早にリビングへと戻ったのだが、古泉は既に話を始めていた様子で、それも大体のところは終わっているようだった。
「俺が戻るまで待てなかったのか?」
拗ねるわけじゃないがそう咎めるようなことを言った俺に、
「すみません」
と古泉は苦笑を返し、
「待ちきれませんでした」
「正直に、沈黙に耐え兼ねたとでも言え」
「はは」
人前だというのに、古泉が声に出して笑うのも珍しい。
話をした感触が悪くなかったということか。
俺は古泉の隣に腰を下ろし、話の続きを促そうとしてやめた。
二組の目が、珍奇なものでも見るような目でこちらを見ていたからだ。
「……なんだ」
答えたのはお袋だった。
「あんたがそんな風にでれでれするのなんて初めてだと思ったのよ」
……そう言われるほどでもなかったと思うのは、普段がもっと酷いということだろうか。
「幸せそうね?」
「…そりゃ、な」
同居ならぬ同棲生活をして、幸せでないなら結婚なんて話にはならんだろう。
「そんな顔されたら、反対なんて出来ないわよね」
という苦笑混じりのお袋の言葉に、親父も頷いてくれた。
「じゃあ、」
と身を乗り出す俺に、
「ただ、な」
と釘を刺すような真似をしたのは親父だった。
「当分、公式には関係を伏せておきたい、というのはどうなんだ?」
じっと観察するような眼差しを注がれても、古泉は怯みやしなかった。
「訝られるのももっともだと思います。しかし、少しばかり厄介なことがありまして、拙速に事を進められないんです」
すみません、と深く頭を下げる古泉は、十分に誠意を尽くしてくれていると思うのだが、うちの親共はどこか納得行かない顔をしている。
本当のことを全部話していないことを察しているんだろうか。
しかし、たとえそうだとしても、馬鹿正直に命を狙われる危険性がどうのなんて話は出来ない。
そうして心配をかけるのも、それで反対されるのも嫌だからな。
そもそも、それを理解してもらえるとも思えない。
俺だって、自分の目で見てなけりゃ、なんの冗談だと怒っただろう。
それくらい、遠い世界のはずだったんだよな。
古泉と打ち合わせをした時、ぼやくようにそう呟いた俺に、古泉は不安丸出しで、
「……躊躇われますか?」
と聞いてきた。
「んなわけないだろ」
そう俺は一蹴した。
世界が遠くても踏み込めるし、古泉自身は遠くなんかない。
何より、これくらいのことで躊躇うような、安易でやわな考えで決めた訳じゃないし、その程度の軽い気持ちでもない。
迷ったり、人に説得されて諦められるような時期はもう過ぎて、俺は既に腹をくくっている。
だから、
「頼む。許してくれ」
俺も一緒になって頭を下げると、二人は顔を見合わせ、何やら小声で審議した後、お袋が俺に尋ねた。
「あんたは信じるのね?」
「ああ」
「……だったら、私たちもあんたを信じるわ」
その言葉にほっとした。
「ありがとう」
「ありがとうございます」
古泉も嬉しそうに、もう一度頭を下げる。
そのまま二人で顔を見合わせ、微笑した。
とりあえずこれで、またひとつ結婚に近づけたってことだよな?