プロポーズをもう一度



本当に慌てて帰ってきてくれたのだろう。
古泉と有希は、想像以上に早く帰ってきてくれた。
ただし、古泉はこなすべき処理に追われて動けず、有希だけがさっさと最上階に上がって来たのだが。
ただいま、と言うように抱きついてきた有希に、
「お帰り。お前らは大丈夫だったか?」
と聞くと、小さくもはっきりと頷かれた。
「…九曜が、俺のことをしっかり守ってくれたんだ。後でいっぱい褒めてやってくれ。今は、疲れたらしくて眠ってるから」
こくんと頷いた有希は、そのまま、とたたたと軽やかな足音を響かせて九曜の眠る部屋に向かった。
着替えをするように指示する必要はないだろう。
俺は、綺麗に整った部屋の中を眺めて、ため息を吐いた。
今頃になって体が震えてくる。
あと一瞬、爆発が早ければ。
もし、もっと早く家を出ていたら。
ほんの少しのことで、俺の人生は違っていたかも知れないのだと思うと、無性に恐ろしく思えた。
何が怖いって、もし俺が死んでしまったら、古泉との繋がりを証立てするものはないに等しいということだ。
俺からあいつに残せるものもなければ、下手すればあいつは、社長として焼香することさえ出来ないかもしれない。
だって、そうだろ?
俺はただの社員で、あいつは社長なんだから。
今回、うちの社員が死んでいたとしても、あいつは自ら焼香になんて行けないだろう。
だったら、俺が死んでも同じじゃなければならない。
死んでからの婚姻、なんてロマンチシズムに溢れた馬鹿げたものがないわけでもないが、それだって、法的なものじゃない。
ただの慰めの行為だ。
生き残れた喜びよりも、もし今後何かあったらという不安で胸が塞いだ。
そうならないために、九曜と有希がいてくれはする。
だが、それだって確実の保証があるわけではないし、もし急病でどちらかが倒れたら二人に出来ることはないだろう。
何より俺は、二人に普通の少女らしくなって欲しいと願っている。
それなら、二人を頼ってちゃいけないだろう。
たとえ、何かあっても、何かあってあいつを残して死んでも、悔いの残らないようにしたいってのに、今のままじゃ悔いだらけだ。
だから、俺は決めた。
あいつが今度休みを取れたら、その時こそ、無理にでも俺のワガママでもいいから、あいつを連れて帰りたい。
連れて帰って、そうして、ちゃんと家族に紹介して、きちんと婚約したい。
これまで、俺の方もいくらかそれを避けていたような面もあったが、もうそれどころじゃない。
たとえ、誰にどう非難されてもいい。
とにかく古泉とのことをはっきりさせておきたい。
その思いが、傷跡のように疼いた。
俺は躊躇いながら端末に手を伸ばし、古泉に宛ててメールを書く。
すぐに読まなくていい、急ぎじゃないと前置きした上で、思ったことをそのままに書かせてもらう。
わがままを言うようだが、どうしても言いたかった。
何度も書いては消したそれを、決死の思いで送信し、ため息を吐きながらソファに身を投げ出す頃には、手の平にはじっとりと汗がにじみ、顔は酷く火照っていた。
酷く恥かしいことを書いた気がする。
返答次第では今のこの心地好い関係すら壊れてしまいそうで、緊張に心臓が過重労働を訴えるほどだ。
どうしようもなく震える体を自分の腕で抱いたところで、背後から小さな手に抱き締められた。
「有希……」
頷いた有希は、普段ならそんな行儀の悪いことはしないのだが、今は構っていられないとばかりにソファの背をよじのぼり、それを乗り越えて来ると、そのまま俺を強く抱き締めてくれた。
「…すまん、ありがとな」
ふるふると首を振って、有希は更に俺の体を撫でてくれる。
安心させるような手の動きが、有希から漂う甘い香りが、俺の心を少し落ち着かせてくれる。
「九曜は……まだ寝てるのか」
こくんと有希は頷く。
心配しているようには見えないから、おそらく大丈夫なのだろう。
とりあえずは安心だな。
それでも、俺はすっきりとは出来ない。
九曜がどうなのか分からないままだったのに、俺は自分のこと、自分と古泉のことしか考えられなかった。
他の何よりもあいつが重要なんだと思い知らされて、嗤うことも出来ん。
こんな状態で、あいつから離れるような事態になったらどうなるんだ?
……考えたくもない。
想像しようにも闇しか出てこなかった。
何もかも飲み込むような深い闇だけだ。
恐ろしさに震える俺を、有希は優しく抱き締めていたがそれだけでは足りないとでも判断したのか、俺の頭をかき抱く。
更に、俺の頭を上向かせ、その薔薇色をした小さな唇が俺の額に触れた。
「………慰めて、くれてる、のか…?」
有希は小さく頷いて、その綺麗な澄んだ瞳に俺の姿を映す。
…酷い顔だな。
有希の前で、こんな顔してちゃいかんだろ。
俺は笑おうとして表情筋に力を込めたのだが、瞳に映ったそれはどう贔屓目に見ても失敗していた。
有希は俺の頭を繰り返し何度も撫でている。
懸命に、どこか不安げに。
「…すまんな。心配掛けて…」
ふるっと小さく首を振り、有希はまた頭を撫でてくれる。
眠れとでも言うのか、そっと俺の瞼を押さえてくる。
「…寝ろってか?」
こくんと頷いた有希は俺からちょっと離れ、ソファに座ったかと思うと、ぽんぽんと自分の膝を叩く。
「……そうだな」
寝た方がいいかも知れない。
少なくとも、建設的ではない考えに頭を支配されるよりはずっといい。
俺は有希に礼を言って横になり、その膝に頭を乗せて目を閉じた。
俺の背中を有希が規則正しいリズムで軽く叩くうちに、俺は本当に眠り込んでいた。
自分で分かるほど、精神的に参っていたし、自分で思う以上に疲れてもいたのかもしれない。
ふと薄目を開けた俺は、目の前にあったのが有希の顔でないことに驚いて一気に目が覚めた。
「大丈夫ですか?」
口元に笑みを湛えて聞いてきた古泉に、
「お前……いつの間に……。いや、仕事はどうしたんだ?」
「大体終らせてきました。本当は出張していたはずなので、他の仕事はありませんしね。今回は事態が事態ですので、いつもはお断りしているこちらへの連絡も許可してあります。ですから、急に呼び出されたり、仕事が回ってくる可能性もあるのですが、」
と言って古泉は小さく微笑み、
「…あなたの側にいたくて」
それだけで、視界が歪んだ。
熱くなった涙腺から涙が溢れてくる。
悔しくても止まらない。
「…怖かったでしょうね」
優しく言ってくれる古泉に抱きついて、泣きじゃくる。
「古泉…っ、」
「はい」
「…お、れは…、もう、っ、だめだ…」
お前がいないと嫌だ。
離れて暮らすことなんて考えたくもない。
俺でない誰かがお前と暮らすことなんて尚更だ。
離れたくないくらい、愛しくて、何かあったらと思うだけで気が狂いそうになるくらい、お前が必要なんだ。
だから、
「辞めるな、って、言ったのは、訂正する…っ。お前が、社長を辞めなきゃ俺と結婚も出来ないなら、それでもいい…。お前にまともな仕事が出来るかは分からんが、いざとなったら俺が養うから、だ、から…、っ、……俺と、…結婚して…くれ……」
古泉は嬉しそうに笑ってくれた。
「あなたからのプロポーズなんて、夢のようですよ」
そう囁いた唇が俺のそれに重ねられ、触れるだけで離れて行くってことは、
「…いいん、だな……?」
「ええ、でも、僕としてはあなたは家事にむいていて、僕は家事能力が非常に低いので、僕があなたを養いたいと思っていますから、どうにかならないか、頑張らせてください」
「本当に、いいんだな? 俺はもう、絶対にお前を離さんと言ったんだぞ? お前に酷く執着してて、それで、…っ、お前に、嫌われるんじゃないかって思うほど、お前が、好きで、仕方ない…のに…いいんだ、な…?」
「嫌うわけがないでしょう?」
むしろ嬉しいです、と古泉は俺にキスしてくれる。
「好きです。あなたが好きです…」
「俺も、…っ、お前が好き、だ、から……」
「ええ、一生側にいてください」
「…ん……」
俺は自分から古泉にキスをして、その首に腕を絡める。
そのままキスが深くなり、それでも、抱き締めあうだけで何故だか酷く満たされた。
「愛してます」
俺を膝の上に乗せて、古泉は甘く囁いた。
その合間にもキスを寄越しながら、
「好きです。……あなたが無事で、本当によかった…。九曜がいてくれて、よかった…」
「……そうだな」
少しばかり苦いものを感じながら俺が呟いたことに気がついたのか、古泉は苦笑して、
「でも、九曜に頼りっ放しというのも嫌ですよね」
「…ああ」
「分かりました。なんとか手を打ってみます。…というか、一応既に色々手を回してはいるんですけどね。なかなか力及ばず、申し訳ありません」
「いや、お前のせいじゃないだろ? …ありがとな」
言いながら、頬にキスを落とす。
「……いつか、必ず、あなたと有希と九曜と、四人で幸せに暮らせるようにしてみせますから…」
「ああ、いつまでだって待ってやるから…」

いなくならないで。