大切なもの
  お題:イタリア コンビニ こねこ



ここに通い、そして住むことになってからそこそこの年月が過ぎたのだが、いつまで経ってもこの摩天楼の天辺での生活と言うのには慣れることが出来そうにないというのが俺の結論になりつつある。
そう言うと一樹が泣きそうな顔をするのが目に見えているから黙ってはいるが、俺はやはり根っからの庶民らしく、文字通り地に足を着けて暮らしたいタチなのだ。
大体、最寄のコンビニまで行こうと思っても躊躇うくらいの厳重なセキュリティってのが面白くない。
俺も古泉も、必死こいて守らなきゃならん宝石とは違うと思うんだが、かと言って実際命の危険はあるから疎かには出来ないというのが歯痒い。
社外のコンビニがダメなら、社内のコンビニめいたショップはどうなんだと思っても、これがこれで厄介なのは、この最上階にある一基限りのエレベータが社長専用のものであり、それで他のフロアに出るのは非常に目立つからという理由で、一度目立たないフロアを経由しなければならないせいだ。
全く、専用にするからいけないんだ。
ぶつくさ言ったところでどうにもならず、たとえ一々細かなチェックを受けさせられるのに辟易しながらでも、実家からここに通ってた頃はまだよかった、なんて思いながら俺は庭に出て、温室めいたガラスの向こうに広がる不夜城の景色を眺めた。
不夜城、と言っても色気はろくにない、ただのオフィス街である。
こんな夜中だってのに仕事に勤しむ人間は多いものらしい。
もう少し休んだっていいだろうに。
同情するような、若干失礼なことを考えながら、沢山の光を見つめる。
あの光の下で頑張っている人たちにも、大抵は家族なんかがいて、帰りを待ってるんじゃないだろうか。
早く帰ってやれよ、家で家族が泣いてるかもしれんぞ。
……うちみたいにさ。
ため息を吐きながら俺は家に戻った。
いつも快適な気温に保たれたそこなのに、どこか薄寒く思える。
取り繕う必要のある相手もいないので、俺は堂々と浮かない顔をして廊下を歩き、居間に戻った。
その座り心地のいいソファには、小さなこねこみたいに丸まり、寄り添いあって眠る有希と九曜がいる。
二人とも、待ちくたびれて寝ちまったのだ。
それなら部屋に運んでやればと思いもするものの、毛布を掛けてやるだけでも目を覚まそうとするので出来ない。
仕方なく、そのままにしているという訳だ。
俺は空いている一人掛けのソファに座り、ぼんやりと視線を壁の掛け時計に投げ掛けた。
あと少しで日付が変わる。
そうしたら、何か変わるか?
……そんなもんじゃないだろう。
時間なんてものは所詮俺達人間が自分の勝手な都合で考え、自ら好んで縛られているだけのものに過ぎない。
だから、日付や時刻が変わっても何かが変わるわけじゃない。
ただ、待つ時間のあまりの長さに、切なさばかりが募った。
「…ほんと、サイテーだよ」
娘たちを起こさない程度の小さな声で呟きながら、俺は膝を抱えた。
「会社の挨拶や取材じゃ、育休だの産休だのばかりじゃなくて、ちょっとした家庭のイベントのためにも休めるようにしてるだとかなんとか言う癖に、自分はこんな日も仕事かよ…」
あいつが悪いんじゃないと分かっている。
あいつのことだ。
今も、一分一秒でも早く帰ろうと必死になってくれているに決まってる。
だが、だからこそ、何かあったんじゃないかと心配になる。
急いでくれているはずなのに帰れないような何かが。
あるいは、急いだせいで事故に遇いでもしたんじゃないかと。
そう思うと、不安で、怖くて、勝手に体が震えてくる。
いつの間に、俺の中であいつがこんなに大きな存在になっていたんだろう。
最初はこうじゃなかった。
むしろ俺は社長であるあいつにびびっていて、近しく思える日が来るとは思わなかったのに。
あいつが意外と脆くて優しくて悲しいやつなんだと知ってからは、あいつを支えたいと思った。
それなのに、今のこの体たらくはなんだ。
俺の方こそ、あいつに依存してるみたいじゃないか。
「一樹…っ」
名前を呼ぶだけですら、苦しい。
切ない。
早く抱きしめて、安心させてほしい。
そのせい、かも知れない。
最初はねだられて、嫌々やっていた、見送りや出迎えのキスやハグが習慣化したのは。
ただ慣れただけじゃなく、俺もそうしたいのかも知れない。
いくらだってしたいし、してほしい。
だから、早く帰って来い。
ぼろ、と涙が溢れた時、玄関の扉が開く音がした。
反射的に立ち上がり、涙も拭かずに駆け出す。
そうして見えた薄茶の頭に、俺は思い切り平手を振り下ろした。
すぱんっといい音が響く。
「遅いっ!!」
「すみません…」
ふにゃりと笑うその顔に安堵しながらも、まだ俺は余裕がなくて、苛立ちをぶつけることしか出来ない。
「何をしてたらこんなに遅くなるんだ! 大体、ちょっとのはずがなんでこんな時間になるんだ。もう日付が変わるぞ。九曜も有希も、お前が帰るのを待ってたのに、待ちきれなくてソファでお寝んねだ」
「すみません、仕事のついでに行っておきたいところがあったんです」
「行きたいところだと? んなもん、一緒に連れてきゃいいだろうが」
喚きながら、俺は一樹を抱きしめる。
「すみません、でも、驚かせたくて……」
そう言っている一樹の手に大きな袋が見えたが、そんなもん、どうだっていい。
「物なんか要らん。もっと早く帰って来い。今日は、」
ぎゅっと一樹のスーツをにぎりしめる。
シワになるとか、そんなことがどうでもよく思えた。
「結婚記念日だろ……」
だから、お前の好みに合わせたご馳走も作ってやったし、こんな遅くまで起きて待ってたのに。
「なんで、なんでお前はまだそんな大事なことも分かんないんだ…!」
子供みたいに泣きじゃくりながら、一樹にすがりつく。
「ご、ごめんなさい…。お願いですから、泣かないで……」
おろおろと俺を抱きしめ、宥めようとする一樹に、余計に泣きたくなって、わんわん声を上げて泣き喚いた。
ばかとかアホとか喚き散らして、お前なんかもう知らないと罵って、それでも一樹が馬鹿正直に謝罪を続けるから、終いには涙も失せた。
「…この、ばか」
「ごめんなさい」
「お前は、俺の慰め方もまだ覚えられんのか?」
「え…えぇと……」
一樹は困ったような顔で、でも、心当たりがない訳でもないらしく、俺の機嫌を伺うように見つめてくる。
だから俺はそうっと目を閉じてやった。
「…ごめんなさい。お願いですから、嘘や冗談でも、知らないなんて言わないでください。……あなたに捨てられたら何も出来なくなってしまうほど、僕はあなたが好きなんです。愛してます」
くどいほどにそうかき口説き、一樹は俺の唇に、触れるだけのキスをよこす。
「…結婚記念日のプレゼントなんてな、これくらいで十分なんだよ」
ふて腐れたように言いながら、俺は自分からもキスをして、
「愛してる」
と囁いた。
「――っ、」
真っ赤になった一樹がそのまま俺を床に押し倒そうとするのを見越して、俺は身を翻してそれを逃れる。
「ほら、ご馳走と可愛い娘たちが待ちくたびれてるんだ。お前もさっさと着替えて来い」
と笑ってる俺の顔もさぞかし赤いに違いない。
それを隠したくて背を向けたってのに、一樹は悠々と俺を追い越して、俺の手に持っていた荷物を渡した。
「これもご馳走に追加してください」
「なんだこれ」
「ワインとサラミ、それから生ハムなんかです。イタリアの小さな村で作られてる最高級品で、滅多に市場に出回らないものなんですが、知人が秘蔵してるのを分けてくれると言ったので、もらいに行ってたんです。そうしたら、わざわざ僕を部屋に閉じ込めたりしてまで引き止めてくれましてね。……あれは絶対、今日が僕の大切な日で、あなたが待っていてくれてると分かっててやったんですよ」
と不機嫌に呟くこの顔には見覚えがあるぞ。
「知人って、もしかして会長か?」
俺が聞くと、一樹はきょとんとした顔で、
「……どうして分かったんです?」
当たりか。
「いや、お前にそういうことをしそうな人に他に心当たりがないし、お前がそういう顔するのもあの人くらいだろ」
「そういう顔…とはどういう顔でしょうか?」
足を止め、しきりに首を捻る一樹に、俺は笑って、
「そういう、分かりやすく機嫌の悪い顔だ。…やっぱり、仲がいいんだな」
「冗談じゃありませんよ」
と一樹は憤慨しているが、
「少々性格に難があっても、お前に友人らしき人がいるなら安心もするんだがな」
「友人じゃありません。あれでも大甥です」
年上のな。
くっくっと笑いながら、
「あの人が相手ならしょうがない。遅刻も許してやるよ。ただ、娘らにはちゃんと謝れよ」
「はい」
頷いた一樹の無邪気な笑みに、寒さに震えていた胸の中があったかくなる。
その暖かさを注ぐように、俺はスープを温め、生まれて初めて作ったローストビーフの仕上げをし、サラダにドレッシングをかける。
キッチンからほんの少し離れた居間からは、一樹が娘たちに必死の弁明を繰り返す声や、どうやらかなりの力で抱きしめられたらしい悲鳴が聞こえる。
そんなことが嬉しくて、幸せで、今日が最高の日に思えた俺は、やっぱり短絡的過ぎるだろうかと苦笑した。