どこかでお茶でも、ということになったのは、俺が疲れたと言ったのが原因だった。 しかし、俺がどうして疲れたのかと言えば、古泉と有希に二人がかりで抱きしめられ、その様を思う存分通行人に見られたせいであり、言ってみれば精神的疲労に過ぎないようなものだったわけである。 そんなわけで、お茶を飲んだって仕方がないと思いながら、 「お疲れなら、リラックス効果のあるハーブティーなんてどうでしょう?」 と店員さながらといった様子で勧めてくる古泉に負けて、慣れないものを飲むことになった。 勿論、まずいわけではないのだが、慣れない香りに腰が引ける。 ついでに言うと、ここの食器も、古泉と有希の普段使いのそれに負けないくらいの高級品らしいのが、それに拍車をかける。 ため息を吐きながらも、カップを持ち上げようとしたところで、有希が手を伸ばしてそれを止めた。 「有希?」 首を傾げた俺の目の前で、有希は一瞬古泉を見た。 古泉は小さく頷き、それを受けて有希が俺からカップを取り上げ、ハーブティーにちょっと口をつけた。 「おい?」 飲んでいいのか? 訝しむ俺に、古泉が答える。 「飲んだわけではありませんよ。少々調べてみてもらっているだけです」 「調べて……って……もしかして…」 毒見ってことか。 目で問えば、古泉が頷いた。 「……お前も本当に厄介な立場だよな」 「仕方ありません。得るということは失うということでもあり、栄誉には嫉妬や妨害がつきものなのですから」 そう言った古泉のコーヒーも、有希が調べる。 それどころか、一緒に頼んだケーキなんかも調べたようだった。 一通り調べた有希が、自分のミルクを飲み始めたということは、安全であるということなんだろう。 俺は、悲しいのか同情しているのかよく分からないような気持ちになりながら有希を見つめ、 「お疲れさん」 とだけ言った。 それくらいしか、言えなかった。 それを歯痒く思うのに、有希は小さく、それも満足気に頷いた。 「本当に、有希さんのおかげですよ。こうして気軽にお茶が出来るのも。…前は、こうは行きませんでしたから」 「そうなのか?」 「ええ。…一時期は外食なんて、怖くて出来ませんでしたから」 絶句した俺ではなく、有希に向かって古泉は穏やかに微笑んだ。 「ありがとうございます、有希さん」 いい、と言うように有希は首を振った。 そんな仕草は、どこか誇らしげですらあって、なんだか胸が痛んだ。 有希はこんなに可愛くて、素直で、女の子らしいのに、その生まれもって背負わされた役目の重さが悲しすぎると。 同時に、古泉がそんな風に狙われることが、悲しかった。 古泉が命を狙われるほど憎らしいやつじゃないと言うことは、俺がよく知っている。 最初のうちこそ、全く馬が合わなくて苛立たされもしたものだったが、今となってはそんな風に合わない部分があるからこそ、お互いに補い合える面もあるんじゃないかなんて、あばたもえくぼ、蓼食う虫も好き好きといった調子で一緒にいられる。 それは俺が色惚けているというわけではなく、古泉が本質的には憎まれたりするようなたちじゃないということなんだと思いたい。 それなのに、狙われる。 それも財産目当てなどという、馬鹿げた理由で。 それが悲しくて、悔しくて、苦しい。 「そんな顔、しないでください」 という古泉の声で顔を上げると、古泉と有希が二人して心配そうな顔をして俺を見ていた。 「あ…すまん……」 「いえ」 と返した古泉だったが、やはり気になるらしく、俺の様子を観察するように見つめながら、 「やっぱり、楽しめませんか?」 と聞いてきた。 その声の調子も聞き方も、なにやら落ち込んでいるようで、見れば有希も少々落ち込んでいるように見えた。 俺は慌てて、 「いや、そうじゃない。楽しいのは楽しい。当然だろう? お前らが一緒なんだからな」 「本当ですか?」 疑うというよりは確かめるように聞いた古泉には、笑顔で頷いてやる。 勿論、有希にも微笑みかけて、 「ああ」 と返せば、ほっとしたように二人の表情が緩む。 それを見ながら、俺は思った。 いつだって、そしていつまでも、こんな顔をしていて欲しいと。 それにはどうやら、俺が余計なことをぐずぐずと考えることよりも、開き直って楽しんだ方がいいらしい。 それなら、と俺はいくらか締りのない顔になっているだろうことを自覚しつつ、 「この後はどうする? もう帰るか? それとも他に見に行きたいものはあるのか?」 と聞くと、嬉しそうに笑った古泉が、 「そうですね…。僕としては、有希のものとあなたのものを買いに行きたいですね」 「俺のもの?」 「ええ。着替えをご自宅に取りに帰るのも大変でしょう? いくらか着替えを買い足してもいいかと」 「もったいないから勘弁してくれ。プレゼントなんか要らんと言っただろ?」 「他人じゃないからいいじゃないですか」 「身内に対してこそ、なんでもないのにプレゼントなんてしねぇよ」 「では、給料の一部として現物支給というのはどうでしょう?」 「ちゃんと差っ引いてくれるんならいいが、しないだろ、お前のことだからな」 「じゃあ、いっそこうしませんか?」 にまにまと笑いながら、古泉はとんでもない提案をした。 「あなたを正式に解雇しますから、安心して雇用関係を解除して、その上できちんと結婚しましょうよ。勿論、結婚式も新婚旅行もして」 「いつの話になるんだよ、それは」 地固めが必要なのはお前の方だろ。 それまで俺は失業するのか? 「出来る限り急ぎますよ。婚約だけでも、早急にしたいです。あなたのご家族にご挨拶をして、お披露目して…」 「好きにしろよ。…ただし、」 「ただし?」 びくつく古泉に、俺は薄く笑って、 「俺が待ちくたびれないようにしてくれよ?」 「…っ、はい!」 感激したように声を上げた古泉に手を握り締められ、俺は苦笑するしかなかった。 目立っていいのか? 「いいですよ、そんなことは気にしなくて。それより、こっちの方がずっと大事です。…約束します。ですから、僕のお嫁さんになってください」 まるで小さな子供が訳も分からずにするプロポーズのような言葉に、ついつい笑ってしまいそうになりながら、 「今更返事は要らないよな?」 と意地悪く返してやると、 「くださいよぉ…」 と情けない声を上げた。 それに笑いながら、 「冗談だ」 と言ってやった上で、改めて返事をする。 「…俺でいいなら、くれてやるよ」 「あなたでなければ嫌です」 きっぱりと答えたのに免じて、握り締めた手にキスをした恥ずかしい行為については不問に処してやろう。 それから、有希のためのドレスを買いに行き、俺のも、と主張する古泉には、 「結婚したらいくらでもねだってやるから今は我慢して、俺のために貯金でもしておいてくれ」 と言って黙らせた。 これだけで嬉しそうな顔して黙るんだから、社長モードでないこいつは本当に単純で可愛い。 有希も俺たちが楽しんでいると分かってか楽しそうに過ごしていた。 自分は食べないんだから関係ないだろうに、俺たちが夕食の食材を買っている間も、あれこれ興味深げに見ていたくらいだった。 ただ、気になったことがひとつある。 俺と古泉が話し込んでいたりすると、その間、有希の姿が見えなくなることが何度かあったのだ。 最初は気のせいかと思ったし、俺たちのやり取りが恥ずかしくて見ていられなくなったかどうかで離れていたのか何てことも思ったのだが、そうではないと、鈍い俺でも気がついた。 それでも、証拠がない以上言い出し辛い、と思いながら迎えの車で古泉の家に戻り、有希を外出用のドレスから室内用のドレス――家の中ではそう汚れることもないので、こっちの方が豪華かつ動きにくいものだったりする――に着替えさせたところで、俺は有希の脱いだドレスの傷みに気がついた。 ところどころ擦れ、場所によっては少しばかり破れてすらいる。 切れたようなところもある。 ……全く、あいつらめ。 「人が多いところでは狙われない、ってのは大嘘だったんだな?」 夕食を作るという予定を繰り下げて、俺は古泉への詰問を開始した。 リビングのソファですっかり寛ぎかけていた古泉だったが、流石に誤魔化し慣れている。 「なんのことでしょうか?」 といつも通りの笑顔を見せた。 「とぼけるな」 そう言って有希の傷んだドレスを見せると、 「それがどうかしましたか?」 などと言う。 とぼけるのもほどほどにしろよ、この野郎。 「どう見ても、普通に傷んだわけじゃないだろうが。…襲撃はあのショッピングモールでもあった。が、俺に気づかれないうちに有希が始末していた。……違うか?」 「違います、……と言っても無駄でしょうね。…ええ、その通りです」 あっさり認める程度には、俺の性格を分かっているらしい。 いくらか安堵しながら、しかしここで気を緩めるわけにも行かず、俺は言葉を続けた。 「なんで俺にまで隠すんだ」 「…心配をかけたくなかったんです。あなたに、楽しんでもらいたかっただけなんですよ。言っておきますが、これは僕の発案で、有希は悪くありませんから」 「阿呆。共犯って時点で同罪だ」 というわけで俺は、ソファの隅っこで小さくなっていた有希を軽く睨みつけ、 「有希も、ちゃんと聞いてろ」 頷く有希と古泉とを交互に見つめながら、俺は言う。 「隠される方がよっぽど嫌だって、分からないか?」 「それは…分かりますけど……でも、危ないとあなたは一緒に買い物なんて行ってはくれなかったでしょう?」 それはそうかもしれない。 だが、 「安全のために、ちゃんと対策はしてたんだろ?」 「それは勿論です」 「それが有希のやることでもあるもんな」 ため息を吐くと、有希は不思議そうに首を傾げた。 「…有希、嫌じゃないか?」 もうひとつ首を傾げられる。 「古泉を守るために人を攻撃したり、お前が危ない目に遭うのは、嫌じゃないか?」 有希は迷うようにしばらくじっとしていたが、少しして、頷いた。 誇らしげに、はっきりと。 「……守りたい、のか?」 更にはっきりと頷かれる。 ……そうか。 それなら俺にはもう何も言うことはない。 「俺は、特に護身術を知ってるわけでもないし、どちらかというと運動神経は鈍い方だから、負担になることはまず間違いないんだが、……俺のことも、守ってくれるか?」 すぐさま有希は頷いた。 即答、というのはこういうのを言うんだろうというくらいはっきりと。 思わず笑った俺は、その笑みを抑えきれないまま有希を抱きしめ、頭を撫でた。 「じゃあ、これからは隠さないでくれ。隠される方が寂しくて、辛いから。…約束だからな?」 「はい」 と答えたのは勿論古泉だ。 有希は静かに、しかし大きく頷いてくれた。 古泉はほっとしたように笑っていたが、 「とりあえず、今日のペナルティーは要るよな」 と言ってやると、怯むように身を竦ませた。 「な、なんでしょうか…?」 俺は少し考え込んだ後、有希の耳を両手で塞ぎ、 「……オアズケ、とか?」 何を、とは言わなかったってのに、古泉はざっと青くなり、 「えええええ!?」 と声を上げた。 その反応があまりにもあからさまで、呆れたっていいだろうに俺はつい笑っちまった。 「そんなに嫌か?」 「嫌ですよ! やっと安心して出来るようになったんですよ? それなのに……」 「分かったから、有希の前でそれ以上言うな」 くっくっと笑いながら、 「じゃあ、これから一週間、可能な限り早く帰ること、ってのでどうだ?」 「可能な限り…ですか?」 「ああ。お前が忙しいのはよく分かってるからな。だから、可能な限りでいい。ただ、連絡もなしに日付をまたぐようなことがあったら、今度こそオアズケだ」 からかうつもりで言ってやったってのに、古泉は本気に取ったらしい。 「分かりました。出来るだけ早く帰ります。それこそ、終業時間に終わらせて、帰ってきて見せますから」 「ああ、期待しといてやる」 そう笑いながら、俺は有希を解放し、それから古泉のことも抱きしめてやった。 |