グラデーション



昼近くまで惰眠を貪っていた俺だったのだが、いつまでも有希を放って置くわけにも行かないだろうとベッドから這い出た。
案外疲労は残っていないし、傷もないようだ。
ただ、違和感は体のあちこちに残り、昨夜のあれやこれやを思い出させ、俺を大いにうろたえさせた。
俺が二階の寝室を出て、ふらつくこともなく階段を下りていくと、俺の、
「有希を一人にするんじゃない」
という命令が効いていたのか、居間のソファで有希を膝に抱き、一緒に本を読んでいたらしい古泉が顔を上げ、
「もう起き上がって大丈夫なんですか?」
「ああ、問題ない」
「それは何よりです」
そのだらしのない顔を見ながら俺は唇を尖らせ、
「…でれでれするな、気色悪い」
と毒づいたのだが、
「照れるあなたも可愛いです」
…どうやら、逆効果らしい。
ため息を吐いたところで、するりと古泉の膝から降りた有希がこちらに駆け寄ってくる。
そうして、いつものようにぽすんと抱きついてきたまではよかったのだが、そのせいで少しだけ腰が痛んだ。
顔をしかめないようにとなんとか平静を保った俺は、
「おはよう、有希。ミルクはちゃんと飲んだか?」
こくんと頷く有希は、笑っていなくても十分愛らしい。
「昼の分は俺が温めてやるからな」
そう言うだけで、有希は嬉しそうな顔をした。
見た目では、変化はかすかにしか見て取れないが、それで十分だ。
「お昼、どうしましょうか。作りますか? それとも、下の食堂から何か運ばせましょうか。人を使うのが嫌なのでしたら、僕が取りに行きますけど……」
お前が俺の性格を分かってくれたのは嬉しいが、
「それはやめとけ。社長が社員食堂に軽々しく顔を出したりしたら恐慌が起きるぞ」
「残念です。一度行って、普通に注文してみたかったんですけど」
と笑った古泉の手を、有希が握り締めた。
「……ええと…有希…? どうしたんですか?」
何が言いたいのか分からないらしい古泉に代わって、俺が返事をする。
「有希、別にいいんだぞ。昼食くらい、作れるからな」
でも、と反論するように有希は俺を見つめる。
その瞳にほだされたのと、有希にも社会勉強をさせてやってもいいかも知れないと思った俺は、小さく息を吐くと、
「…じゃあ、頼んでいいか?」
こくんとはっきりと有希が頷いたので、俺は自分の社員証を引っ張り出すと、有希に渡した。
「端末の使い方は分かるな? 頼むのはなんでもいいが、野菜を多めにすることと、あまり高いものは選ばないよう気をつけること、ちゃんとテイクアウト用のパックに入れてもらうのを忘れないように」
頷いた有希は古泉が戸惑っているのにも構わず、軽やかに走り出した。
「……転ぶなよー」
ひらひらと手を振って送り出してやった俺に、
「ええと…一体有希はどこに行ったんでしょうか」
と状況を全く把握出来ていないらしい古泉が聞いてきたので、俺は古泉を軽く睨みつけ、
「分からんか?」
「…すみません、全く分かりませんでした……」
「有希がお使いに行ってくれたんだよ」
「……って、食堂まで、ですか…!?」
驚きに目を見開く古泉に、俺は逆に訝しみながら、
「近いだろ。エレベータに乗れば行けるんだからな」
「でも、あの子は喋れなくて…」
「今はなんでもコンピュータ利用だろうが。言葉を交わす必要なんざない」
「あの子は端末も扱えるようになってたんですか…」
「結構前からな。大体、文字が読めれば簡単だろうが」
「…それだって十分驚きなんですけどね。前は本当に、持たされた機能の他には特に何も出来なかったのに……」
「お前の愛情が足りなかったからだろ」
そう言って額を小突いてやれば、古泉はくすぐったそうに笑った。
「では、やはりあなたのおかげですね」
「そう言われるとくすぐったいがな」
「……愛してます」
そう言いたくて堪らなくなった、とでも言うように古泉が囁き、俺を引き寄せるようにして抱きしめた。
その膝に、さっき有希がされていたのとは反対に、古泉と向かい合うようにして座らされる。
「…どこも痛みません?」
「ぅ……ああ、まあ、な」
まだ中に違和感が残ってるなんてことは言えずに顔を背けると、古泉はそれでも安心したように笑った。
「よかったです。あなたに痛い思いはさせたくなかったんです」
「……お前、は?」
かすかな声で聞いたのは、大きな声で話すのははばかられるような内容だったからでもあるし、聞こえなかったならそれはそれでいいと思ったからでもあった。
だが、幸か不幸か古泉にはきちんと聞こえたらしく、不思議そうに首を傾げて、
「僕…ですか?」
「念のために言っとくが、痛くなかったか聞いてるんじゃないからな」
真っ赤になりながら念を押せば、古泉はやっと合点が行ったとばかりに笑った。
「よかったに決まってるじゃないですか。よすぎて、あなたのことも考えずに無茶をしてしまったんじゃないかと心配だったくらいです」
「アホか…っん」
声が震えたのは、古泉の手がいやらしく腰に回されたからだ。
「待て…っ、お前、何、考えて……」
「あなたが、可愛らしいからいけないんですよ?」
柔らかく笑いながらそんなことを言った古泉だったが、少しばかり深いキスをして、とりあえずは俺を解放してくれる気になったらしい。
「続きは今夜、ですよね」
と囁いたのに返事が出来なかったのは、キスで腰砕けになっていたからなんていう情けない理由ではなく、ちょうどそのタイミングでお使いを終えた有希が、誇らしげな顔で帰ってきたからである。

有希の選んだ昼食は、意外なまでに的確だった。
いや、意外なまでに、と言っちゃ悪いな。
有希がしっかりとお使いをしてくれたということに他ならないのだから。
安くて野菜も多いというのがいい。
それにしても、
「有希が食堂に行ったら目立っただろう」
ポタージュスープを飲みながら俺が言うと、有希は照れくさそうに、小さく頷いた。
「でも、ちゃんとお使いが出来たな」
えらいぞ、と褒めてやると、嬉しそうに目を細める。
笑みとは言えないのかも知れないが、それこそが有希らしい笑顔に思える。
有希のためのミルクは俺が温めて、三人で取った食事はやはりおいしかった。
もしかすると、これまでで一番おいしかったんじゃないかと思うほどに。
食堂の、別にまずくはないがそう手間をかけているわけでもない食事だと分かっているのにそう思えたのは、やはり、状況の変化によるものなんだろうと思えば、少なからず恥ずかしくもあったが、それ以上に感じるものがあったことは言うまでもない。
ことさら味わうように食事を取り終えた俺たちは、その後いくらか忙しく出かける仕度をした。
俺は久しぶりの外出で、まともな外出着を慌ただしく実家から持ち出したきりになっていた荷物の中から探す破目になったし、長門は長門で衣装を選ぶのに時間が掛かったようだった。
一人古泉は悠然としているかと言えば、ある意味その通りだ。
だが、ある意味では違う。
なにせ、古泉と来たら一人さっさと着替えたかと思うと物置と化している俺の部屋にわざわざやってきた上で、俺の服をにやにやしながら見たてていたからな。
絡むような視線が鬱陶しいことこの上なかった。
それでも、部屋から追い出せなかった自分が歯痒い。
くそ、と口の中だけで毒づきながら服を着替える。
出かける先は、近くのショッピングモール、と言えばカジュアルな雰囲気かもしれないが、実際には高級なブランドショップが並ぶような界隈だ。
そんなところをジーンズやポロシャツでうろつくわけにはいかない。
おまけに、一緒に歩くのはデザイナーズスーツを嫌味なく着こなす存在そのものがイヤミのような古泉と、持っている服はお嬢様然としたドレスばかりの美少女長門だ。
その二人と一緒に、カジュアルな格好で平然としていられるほど俺の肝は太くない。
よって、俺は持っている中でも一番いいスーツを着る破目になっていた。
「あなたもスーツや礼服くらい作りません?」
と古泉が言ってきたが、
「冗談だろ」
と返す。
俺にそんな金があると思ってるのか。
「僕からのプレゼント、というのはだめですか?」
「だめですよー」
茶化すように言うと、古泉は小さく笑ったものの、残念そうに呟いた。
「あなたのその慎ましやかなところと言いますか、謙虚なところと言いますか、無欲なところは僕も大変魅力を感じるところではあるのですが、それでプレゼントを贈るといった楽しみを奪われるのは残念でなりませんね」
「悪いが、誕生日と記念日以外には人様からプレゼントをもらってはならないってのがうちの家訓でな。当分は諦めろ」
「人様、とはまた他人行儀ですね」
くすりと笑った古泉が俺をじっと見つめて、
「もう、他人じゃないでしょうに」
「俺が既にお前と結婚したみたいな言い方はよさんか」
くすぐったさの反動で、軽く怒鳴るように言うと、
「おや、ではあなたは結婚をするつもりもないのに、人に体を許すような人でしたっけ?」
「……古臭くて悪かったな」
不貞腐れながら言ってやれば、古泉は一層笑みを深め、
「いえ、嬉しい限りです」
と言ったが、こちらとしては面白くないことこの上ない。
苛立ちながら着替え終え、
「これでいいんだろ」
と憤然と言ってやれば、古泉はにこにこと笑いながら、
「そうですね、よくお似合いですよ。いつものラフな格好もいいですが、スーツも素敵ですね」
とか何とか言いながら、こちらをじっくりと見つめている。
上から下までたどるような視線は、正直、熱を帯びているどころか、そのまま焼き切られそうですらある。
「お前がここではラフな格好をしてろって言ったんだろうが」
文句を言うような調子で言って顔を背けると、古泉が小さく声を立てて笑った。
「あなただって、その方が楽でしょう? どちらにせよ、あなたは魅力的ですよ」
薄ら寒いことを言った古泉は、いつの間にか距離を詰めてきていたらしい。
その腕の中に囚われるような形で抱きすくめられ、
「ちょっ…」
「いいじゃないですか、これくらい。…恋人なんですし」
ぼそりと囁かれた声に背筋を何かが走った。
「っ、し、心臓に悪いから、やめろ…っ」
「照れないでくださいよ」
「お前っ、いきなり図々しくなりすぎだろ…!」
「あなたが、許してくださるからですよ」
嬉しそうに笑った古泉の唇が首筋に触れる。
くすぐったいだけのはずのそれが、別の何かを感じさせる。
「古泉…!」
「なんです?」
しれっとした顔で言う古泉を睨み上げ、
「で、出かけるんだろうが…」
「……そうでしたね。残念です。いえ、お出かけも楽しみなんですけど」
そう言った古泉は、俺の喉元へ手をやったかと思うと、
「ネクタイ、歪んでますよ」
と言いながら手際よくそれを整え、
「それでは、可愛い娘を迎えに行きましょうか?」
と微笑んで、俺の手を取った。
キザったらしい。
「エスコートしたいなら有希にしてやれ」
「あなたの方が優先順位が高いに決まってるでしょう? わざわざ言わせないでください、この程度のこと」
どことなく、突き放すような言い方だが、その声音にも表情にも、甘えと愛しさらしいものが滲んでいる。
俺は小さくため息を吐いて、
「外ではやってやらんからな」
と宣言して、その手を取った。
「光栄ですね」
恭しく俺の手を持ち上げた古泉の唇が俺の手の甲に触れる。
古泉の整った容貌と、パーティーに行く時だってここまでじゃないというほど気合の入った、それでも華美ではなく、あくまでも洗練された雰囲気の服装もあいまって、本物の王族や王室だってこうはあるまいという姿に、思わず見惚れた。
背を屈めたまま、俺を上目遣いに見た古泉は、俺がぼうっとしているのに気付いてか、柔らかく微笑み、
「あなたにだけ、ですからね」
「…っ、と、当然だ、あほ」
「はい、当然ですよね。……愛してます」
甘ったるく囁いて、古泉は俺の手を引き、バランスを崩した俺を抱き締めた。
古泉の暖かさにそのままとろりとなってしまいそうになるのを堪え、
「ほら、そろそろ行かねぇと、有希が待ちくたびれてるんじゃないか?」
「そうでしたね」
名残惜しげに俺の髪を撫でて、古泉は俺を解放した。
そうして俺たちはやっと部屋を出て、玄関先で待ちかねていた有希に平謝りすることになったのだった。