ビタースイート



薄っぺらな端末に映し出される今日付けの新聞を読みつつ、俺は他人事のように、すでにその最高責任者の口から聞いていた内容を嘯くように呟いた。
「ほー…またどこか吸収したのか。どこまででかくなるのかね、この会社は」
正直、俺の仕事内容からすると、ここがどれだけ業務内容の多角化をはかり、どこまで拡大しようが、はたまたどこと業務提携をしようが、どこを吸収合併しようが大して関係はない。
関係があるとしても、倒産等大きな問題になった時以外は、古泉の帰りが早い遅い程度の部分にしかない。
しかし、その吸収合併のおかげで、ここしばらく古泉が忙しくしていたかと思うと憎らしいような気持ちになりもするし、その式典のおかげで有希まで駆り出された今、だだっ広いばかりで面白味も何もないこの家の中にひとりで放っておかれるのでは、憎らしさを通り越して妬ましさにも似た感情が込み上げてきても何ら不思議はないというものである。
いっそ実家に帰ればよかったと思いながらも、古泉が明日はやっと念願の休みをもらえるというし、今夜のパーティーも出来るだけ早く切り上げて帰ってくるという言葉を、電話越しでなく聞いてしまっていては待った方が言いような気もしてくるし、何より、今から予定変更して実家に帰るなんてことをしたら、それこそ古泉が追いかけて来そうな恐ろしい予感がしてくるので、諦めるしかない。
「待つ身は辛いね」
と冗談めかして呟きながら、時計を見るが、さっきから全然進みやしねぇ。
何か呪いでもかかってるんじゃないのかと思えてくるほどに、時間の経過が遅い。
ああもう、
「…早く帰って来いよ」
腹立たしいったらないが、情けない声が出た。
俺はクッションに八つ当たりしながらしばらくリビングで暴れまわった後、諦めてソファで横になった。
それでも、眠れるはずなどなく、だらだらとスクリーンで映画を観て、二人の帰りをひたすら待った。
そうして、待たされ続けて数時間。
日付が変わるギリギリの頃になってやっと二人は帰ってきた。
「ただいま帰りましたぁ…」
と妙に間延びした声が聞こえたので嫌な予感がしつつも、俺はとろとろと――間違ってもいそいそとではない――玄関に向かった。
すると、玄関より手前の廊下まで差し掛かった辺りで、有希が走ってきたかと思うと、まるで何かから逃れるように俺の背後に隠れたではないか。
まさか誰か他の人間でも連れてきたんだろうかと気色ばみながら、俺は有希に、
「有希、お前はもう風呂に入って寝なさい」
と言ってやると、有希もほっとしたように頷き、自分の部屋へと逃げ込んでいった。
さて、有希は何から逃げてきたのかね、と玄関の方へと改めて視線を向けたところで、
「ただいま帰りましたっ」
と抱きつかれた。
「むが」
「こんなに遅くなってしまったのに、起きて待っていてくださるなんて、感激です!」
呆けたことを抜かしながらぎゅうぎゅうと抱き締めてくる古泉に、俺は有希が何から逃げ出してきたのかと言うことを悟ると共に、どっと自分が落ち込むのを感じ、同時に、そんなことで落ち込む自分に嫌気がさしてさらに落ち込んだ。
「古泉、」
意識してそうせずとも、苛立った声が出た。
「なんですか?」
「酒臭い。あと、」
こんな風に言うのはまるで俺が妬いているかのようで非常に嫌なのだが、
「女臭いから離れろ。気色悪い」
「んん…?」
「女物の香水の匂いがぷんぷんするんだよ!」
そう叫びながら、思い切り突き飛ばしてやると、酔っ払いらしく軽くよろけながらもあっさり離れてくれた。
俺は苛立ちを抑えることすら出来なくなりながら、捨て台詞よろしく、
「お前なんか知るか…っ!」
と怒鳴り、そのまま出て行ってやろうとした。
しかし、酔っ払いにしては素早く動いた古泉が俺を抱き締め、
「行かないでください。一体どうしたって言うんです?」
「っ、どうしたもこうしたもあるか!」
俺は涙腺が熱くなってくるのを感じながら怒鳴り、暴れたのだが、さっきと違って古泉が警戒しているからか、振り解けない。
「お願いですから、置いていったりしないでくださいよ。やっと…思う存分、二人きりで過ごせるのに」
「嘘吐け…!」
「嘘じゃありませんよ。あなたにもお伝えした通り、明日は休みですからね」
と微笑む古泉に、いっそ噛み付いてやりたく思いながら、
「そんなこと、思ってもないくせに」
と唸れば、古泉は驚いたように眉を上げ、目を見開いた。
「どうしてそう思われるんです?」
「んな、匂いさせて、言うな!」
酒の匂いも香水や化粧品の匂いも不愉快極まりない。
腹が立つ、胸焼けする、吐き気がする。
「これは、不可抗力です。…お酒は断れなくて飲んだだけですし、化粧品や香水の匂いは、近くにいればある程度移ってしまうものですから」
「うるさいっ」
まるで自分の方がたちの悪い酔っ払いか何かのような気分に陥りながら、俺は喚く。
有希が聞いているかもしれないと思っても、声が抑えられなかった。
「お前、俺のことなんて、本当は、ただ家族みたいなものとして、家に置いておきたいだけなんだろ…っ!?」
「違いま…」
「そんなんじゃ、」
古泉が何か言おうとしたのを遮って、思わず俺は怒鳴っちまった。
ああ、ここで叫ばなきゃよかっただろう、余計な一言をな。
「不満なくらい、お前の、こと…っ、好きに、させといて…!」
この馬鹿だの詐欺師だのへたれだのと叫びまくる内に、目からはボロボロ涙が零れて止まらなくなるし、喚いた反動でかえっていくらか冷静さを取り戻した頭は、自分の発言の恥かしさのあまり、自殺願望をちらつかせるしで、もうどうにかなりそうだと思う俺を、古泉がひょいと抱え上げた。
驚きで思わず喚き声も止まっちまった俺を、古泉は嫌気がさすほどのハンサムスマイルで見つめ、
「あんまり可愛らしいことを仰ると、調子に乗りますよ?」
と言って、キスを寄越した。
「なっ……」
「と言いますか、もう既に調子に乗ってます。まさかあなたがそんなことを言ってくださるなんて、夢にも思いませんでしたからね」
くすくすと楽しげに笑った古泉が、悪戯でも仕掛けるように、触れるばかりのキスを唇や頬や額や、あるいは首筋や肩口にまで繰り返し落とす。
「やめ、ろ…っ、下ろせ、このばかっ…!」
「だめですよ。放したら、あなた、逃げ出そうとするでしょう?」
「あ、ったり、まえだ…!」
大体、酔っ払いの癖に無茶苦茶するな!!
「酔いなんて、吹き飛びましたよ。あなたが急に出て行くなんて驚かせてくださった上に、あんなにも可愛らしいことを仰るんですから」
にやにやというかにまにまというか、とにかく表現し難いまでに蕩けきっただらしのない顔と声で言いながら、古泉がキスを寄越す。
こんなに腹が立っているのに、それを気持ちのいいこととして捉える自分の体が、心を裏切っているようで余計に腹立たしい。
繰り返されるキスに、その度に深さを増すキスに、俺の抵抗が弱まってしまうと、古泉は俺を抱えたまま歩きだした。
「なっ、に、考えて…」
「決まってるでしょう? 寝室に行くんですよ」
当然のような顔をして言う古泉に、ぎょっとするしかない。
「なんで…」
「なんでも何もありますか? どうやら、僕があなたのことを便利なハウスキーパーか何かとしか思っていないという不当な評価をいただいているようですから、それを分かりやすく明確に否定しようかと思いまして」
小難しげな言い回しをしているが、いつになく脂下がった顔つきから、その言わんとするところはあからさま過ぎるまでに明らかだ。
「…嘘だろ……」
思わず呟いても、古泉の眉は寄ることがない。
「本気ですよ。あなたも、そうでなければ足りないでしょうし。…ねぇ?」
薄く笑った唇が、また俺のそれに触れてくる。
そのせいで、酔いをうつされたんじゃないかと思うくらい、くらくらした。
いつもの、ねだられるままにしてやっていた、こっ恥かしい「いってらっしゃいのキス」だの、「お休みなさいのキス」だのとは、あまりにも違う。
貪られるような、味わうようなキスに、酩酊感が強まるばかりだ。
それでも、古泉の足が階段にかかると、俺も正気に返らざるを得なかった。
「ま、て…。下ろせって…」
「大丈夫ですってば。前にも、意識のないあなたを運び上げたことがあったでしょう? 心配要りませんよ」
十分心配に決まってるだろうが!
「逃げない、から、下ろせ…!」
唸るように言ってやれば、古泉は少し考え込んだ後、
「…約束ですよ?」
と言って俺を階段に下ろした。
床に足がついてほっとしながら、俺は改めて古泉に聞く。
「……本気で、思ってんのか? 俺が、あんなこと言ったからじゃなく?」
「その前から、……正直なところ、あなたと初めて一緒に寝た時から、ずっと考えてましたよ。今度休みがもらえたら、その前夜こそ、あなたがどんなに嫌がったって、どんなに時間を掛けてでもあなたを口説き落として、あなたとしたいと考えてたんです。ずっと、我慢していたんですよ」
と苦笑するように言った古泉に、
「嘘だろ!?」
と思わず叫べば、
「本当ですってば。どれだけ信用がないんですか、僕は…」
仕方ないだろ。
「お前、全然平気な顔してたじゃないか」
「ええ、そう装うのに必死でしたよ。もし、下手なことをしでかして、あなたに逃げられてしまったらと思ったら、気が気じゃありませんでしたからね」
「それに、なんで休みの前日なんだ」
「それは勿論、そうじゃないと心配だったからですよ」
なんだそら、とよく飲み込めていない俺に、古泉は困ったような、しかしどこかいやらしさを含んだ笑みを見せると、
「男同士でセックスをしたら、受身の側は、体にかなりの負担がかかることくらい、あなたにだって分かるでしょう? もしそれであなたが寝込みでもしたら、僕はあなたが心配で仕事も出来なくなりますからね。それなら、最初から、次の日、一日中だって側についていられるようにしたいと思ったんですよ」
えええええ。
「…お前、ほんっとうに変な奴だな」
本気で呆れた。
そういうわけの分からない気の遣い方が出来るなら、もっと早くこっちの心情を分かってくれと思うし、いっそそれを先に説明してくれたらどうなんだとも思った。
そうされたらされたで恥かしさに耐えられなくなったかもしれないが、それは横に置いておく。
「お前のせいで、俺がどれだけ不安になったと思ってんだよ…」
うつむきながら俺がそう呻けば、古泉は小さく笑って、
「ええ、よく分かりました。――その分、今夜は頑張りますから」
と縁起でもないことを囁いて、俺の腰に腕を回し、歩き出す。
「頑張るって……」
「と言いますか、正直、我慢なんてこれ以上出来ません。次の休みはいつになるか分かりませんし、あなたを不安にさせてしまうなんて愚行を繰り返したくもありません。何より、あなたが可愛らしいからいけないんですよ」
ぞくりと来るような美声で以って囁かれれば、俺はもはや抵抗も出来ず、そのままふらふらと寝室に連れ込まれた。