仕事でこれまで以上に時間を拘束されることになるので、家に帰る時間も惜しい。 だから、会社が社屋の近くに用意してくれた寮に入ることになった。 ――というのが、俺が家族にした言い訳だった。 古泉が、 「一日でも早く一緒に暮らしたいので、ご家族に挨拶に伺いたいのですが、全然休みが取れません…っ!」 と情けない泣き顔で訴えた結果がこれである。 俺もほとほと古泉に甘い。 しかしまあ、これでとりあえず、一日でも早く一緒に暮らすというのは早々に実現しちまったわけだ。 有希が無邪気に喜んでくれているのは嬉しいが、いささか複雑でもある。 古泉の休みが取れないことで、むしろほっとしちまった自分に気がついていたからな。 そう、俺はほっとしていた。 古泉が挨拶に来るなんてことになったらどうなるのか、考えるだけで憂鬱だったのだ。 勿論、昔と違って今は同性愛だって当たり前になりつつあるし、同性婚だって認められていない国の方が少数だ。 どこかには、男同士でも子供が産める――作れる、ではないらしい――ような技術も出来ていると聞くくらいだしな。 しかし、それでも偏見がないわけではないし、それ以上に、社内恋愛――特に上司と部下の場合――に対しては厳しい目が向けられがちな昨今である。 俺が、正社員として雇用されていながら実際にはハウスキーパーとしか言いようのない業務に従事し、しかもその結果として社長のお手つきになりました、なんてことになったら、それこそいい物笑いの種である。 おまけに、古泉は各方面から色んな意味で注目されているやり手若社長だ。 面白おかしく書き立てられる可能性は非常に高い。 それが、俺だけならまだいいと、思えてしまう自分の思考回路の短絡化には無理矢理目を瞑るにしても、問題はうちに年頃の妹がいて、しかもうちは両親共に働いているということだ。 妹はまだ学費がかかる年頃だし、それなのに両親があれこれと振り回されて仕事に支障が出るようなことになっても困る。 だから、俺はまだ古泉とのことをオープンにしたいと思えなかった。 第一、お手つきも何も、俺はまだ何もしてねえ。 …いや、されてない、と言うべきか? この際、受動態・能動態に大した差異はない。 指し示している内容は同じことだ。 古泉と付き合い始めて一週間ほどが過ぎたが、未だにいわゆるABCの最終段階に至っていないと言う状態である。 古泉が今取り組んでいるプロジェクトが大詰めだとかで連日連夜忙しいのが悪い。 それから、ずるずると間が空いちまったせいで、こっちが妙に身構え、ついでに言うと逃げ腰になってきたのも悪いんだろう。 一応一緒のベッドで寝ても、大き過ぎるベッドでは端に逃げちまうことも可能だし、逃げなくても古泉が余計な手出しをしてくることはない。 ただ、有希が添い寝してやった時のように俺を抱き締めて、大人しく寝るだけだ。 抱き締められた俺はと言うと、疲れを綺麗に整った顔に滲ませつつ、それでも幸せそうにしている古泉に何も言えないままなわけだ。 言おうにも、何を言えばいいのか分からんが、もしかしてこういう状況も蛇の生殺しと言うのだろうか。 はっきりしろと詰め寄ってやりたいような、あるいはいっそ何もかもなかったことにしてやりたいような複雑な感情が渦巻く今日この頃である。 「…ほんとに、どうすりゃいいんだろうな」 と無意識のうちに呟いたところで、有希が不思議そうな顔をして俺を振り仰いだので、 「なんでもない」 と極力柔らかく返した。 有希は静かに頷くと、再び読書に戻った。 このところ特に有希は読書に勤しむようになったのだが、それ以上に前より顕著に甘えるようになってくれた。 今も、俺の膝で本を読んでいる状態である。 これも、いくらか釈然としないものの、俺を母親のようなものと認めてくれたということかと思うとくすぐったいほどに嬉しくは思える。 しかし、このままだと、有希が認めてくれていることでは支えられないくらい、ぐらついてきそうだ。 このままこの贅沢すぎる暮らしになれちまっていいのかとか、偉そうな顔をして古泉の世話を焼いてていいのかとか、余計なことばっか考えちまう。 「……いかんな」 いっそ肚を決めるべきだろうか。 乾坤一擲の大勝負に出て、さっさと決めちまう方が俺には合っていると思いはする。 するのだが、それでもし勝負に負けたらと思うともう一つ決心がつかないくらいには、どうやら俺も未練があるらしい。 どうしたものかと大袈裟に嘆息しつつ、今夜も古泉の帰りは遅いのだろうかと思った。 思わず有希を抱きしめる腕に力を込めると、有希は俺を振り仰ぎ、心配そうに見つめてくる。 「いや、心配されるほどのことじゃないんだ。ただ……ちょっと、な。…元気でも、分けてくれ」 そう言った俺に有希は少しばかり困った顔をした後、本を置き、体を捻って俺を抱き締めてくれた。 滅多に笑えない代わりなのか、有希はそうして気持ちを伝えようとしてくれる。 そのことが嬉しくて、俺は、有希と一緒にいたいから古泉の申し出を受けたのかも知れんなどと馬鹿げたことを思った。 そんなものが言い訳の口実にすらならないということくらい、嫌というほど分かっているとも。 そうでなければ、有希を、有希みたいに可愛らしい女の子の人形を抱き締めながら、あの胡散臭いニヤケ面を思い出すはずがない。 「……重症だ」 とため息を吐けば、自分の頬が赤くなるのが分かった。 今夜も、古泉の帰りは遅かった。 「そんなに忙しいのか?」 と問いながら夜食をテーブルの上に置いてやると、疲れてる癖して古泉は柔らかく微笑み、 「少々厄介な案件を抱えているものですから」 「そう、か…」 だったら仕方ない。 だが、それにしても、 「お前の肩に大勢の社員の生活がかかってるのは分かるが、体を壊すほど無理はしないでくれよ」 「大丈夫ですよ。これくらい」 そう笑って、古泉は笑顔のままで夜食を食べる。 野菜ばかりゴロゴロ入ったカレーだってのに、それでも嬉しいらしい。 嫌な顔ひとつしやしない。 「大分、野菜も平気になったんだな」 「あなたが作ってくれる料理に限って、ですけどね」 とウィンクなどしてみせる古泉に俺も笑うしかない。 「阿呆。……まあ、どんな理由にせよ、ちゃんと食べるなら、褒めてやってもいいが」 古泉が妙に上品な、つまりは人工物臭い仕草で以ってカレーを平らげるのを見届けながら、俺はぽつぽつと今日一日の報告をする。 と言っても、毎日そう大して変わり映えはしない。 変化と言えば有希の読んだ本のタイトルの他は、俺が昼と夜に食べたものくらいしかない。 ここに閉じこもることになってからは更に、話題からバリエーションがなくなっちまった。 そのことに気付いてふと黙り込んだ俺に、古泉は不思議そうに顔を上げると、 「どうかしたんですか?」 と聞いてきた。 「ん…ああ、いや、大したことじゃない。ただ、話題にバリエーションがないと思ってな」 「……そうですね。すみません」 ってなんでお前が謝るんだ。 「あなたをここに閉じ込めてしまっているのは、僕ですから」 としょげた顔をする古泉に、俺は渋い顔で言う。 「俺は別にお前に閉じ込められているつもりなんかないぞ。俺が自分の意思でここにいるだけだ。出かけようと思えばいつ出かけたっていいんだしな」 「……ありがとうございます」 小さく、まだ明るさが足りないものの、一応笑った古泉は、 「…まだ、ひとりで外出されても平気だと思うんです。でも、いずれは……」 と言葉を濁らせた後、作った笑顔で、 「有希と一緒になら、どこへ出かけても構いませんよ? 散歩でもショッピングでも。あなたの名義で、カードも作らせておきましょう。有希のための買い物をそれでしてください」 「お前、それじゃ前と同じだろ」 有希になんでも買い与えて、それで済ませようとしてたのとどう違うんだ。 「全然違いますよ。前のような投げやりな気持ちではなくて、ちゃんとあなたのことも考えてますから。あなただって、籠もりきりでは息が詰まるでしょう?」 「まあ……それは、そうなんだが…」 こんなことは言いたくない。 言いたくないんだが、俺以上に不器用で鈍く出来ているらしい古泉にははっきり言わなければ通じないだろうと、俺は諦観と共に告げた。 「…お前が早く帰って来れる日は、ちゃんと連絡するよな?」 「ええ、勿論です。でも、どうしてそんなことを気にするんです?」 ……本当に鈍いなコノヤロウ。 「っ、お、お前が、帰ってきた時に、俺も有希もいなかったら、お前が寂しいだろうと思ってだな…っ…」 と半分本当のような、半分嘘のようなことを真っ赤になりながら口にすると、古泉は驚いたように眉を上げた後、小さく微笑んだ。 「ありがとうございます。…嬉しいですよ」 言いながら、椅子から立ち上がったかと思うと、身を乗り出し、俺の唇にキスを寄越す。 呆れるほどに自然な動作で行われたそれを、嫌になるほど滑らかな舌も含めて、簡単に受け入れてしまえる程度には、それは繰り返されているわけで。 「…カレーの味がする」 「今食べてましたからね」 というような、甘いんだかしょっぱいんだかすっぱいんだかよく分からん会話になったりもするってのに。 「食い終わったんなら、とっとと風呂に入って来い。俺は眠いんだ」 「はい、お待たせしてしまってすみません。でも、…待っててくださるんですね」 「やかましい」 なんて会話をして、くすくす笑いの古泉を風呂に追いやり、俺は俺で赤くなっている顔を少しでも冷まそうと皿を洗うついでに自分の顔を洗ったりするような破目になるってのに。 当然のようにベッドはあの馬鹿でかいキングサイズのあれで、しかも引っ付きあって寝るってのに。 どうして。 どうして。 本当に、何がどうして。 …いざ寝る時はどうしてこうも健全なんだか、いっそのこと客観的で冷静かつ簡潔に、しかも俺にも納得の行くような考察を行った後、その内容をレポートにまとめて提出してくれないもんかね、古泉くんよ。 |