目の前で何が起こったのか、瞬時には理解しかねた。 それくらい、俺の予想だにしないことが、俺の目の前で繰り広げられていた。 さっき辺りの空気すら引き裂くように響いた、そのくせやけに軽くて短い音は、本当に銃声だったんだろうか。 クラッカーや爆竹じゃないか、なんて馬鹿げたことを馬鹿げていると分かっていながら、そう思い込もうとしてしまう自分がいる。 驚きと動揺で動けもしない俺を、誰かがまるで守るように抱き締めていた。 天地も左右もよく分からないが、もしかして俺は地面に倒れこんでいるんだろうか。 さっき買ったばかりのトマトが、おいしそうに真っ赤に熟したそれが、アスファルトの地面にやけに明るく輝いて見える。 転がっていたそれが、弾けるようにして潰れた。 視界に翻るのは、見慣れたドレスの色、髪の色。 小さな体をしているくせに、少しも怯まず、敵に対峙している少女が長門であると、俺はしばらく認められなかった。 「…っ、長門…!」 認識するなり慌てて叫んだ俺を引き止めるように、押さえつけられている肩に力が込められる。 「大丈夫です…っ、彼女は、平気ですから…! 落ち着いてください!!」 「大丈夫、って、あんな、長門が、危ない…」 「大丈夫なんです! あれが……っ、あれが、彼女の役割なんです…!」 苦しそうにそう言ったのが古泉であると、俺はそこでやっと気がついた。 至近距離にある顔は、気のせいか泣きだしそうに見えた。 なんでこんなことになっているんだろうか。 どうして、こんなことに。 俺は、俺たちはただ、買い物に出かけただけだったってのに。 そう、俺たちは買い物に出ただけだった。 大袈裟なのは嫌だと俺がごねて、ちょっとばかりの変装をしただけで、専用車も使わず、普通に社外に出た。 「こんなのは久しぶりです」 と古泉は穏やかに微笑み、長門もいくらか楽しそうだったから、それでいいと思った。 「いつも移動のたびにボディーガードだのなんだのがぞろぞろとくっついてたら大変だろ」 「ええ、そうですね」 と古泉は同意を示したが、どこか作り笑いっぽさがあったから、立場上気楽に出歩くわけにはいかないとでも思ったのだろう、と言う程度にしか、俺は受け止められなかった。 社長ってのも大変だなと思いながら、今日は少し気晴らしをさせてやろうと決め、俺は古泉のしたいようにさせてやることにした。 古泉がしたがるまま、長門の服を選びに行き、俺とするためのボードゲームを買いに行ったりした。 骨董品のアナログゲームなんて高いものを、俺とするためだけにわざわざ買うなんてこと、いつもなら承知しないところなんだが、したいようにさせてやりたいと思っていたからこそ許可した。 俺が譲らなかったことと言えば、古泉が食べたがらない緑黄色野菜をちゃんと買って、今晩食べるということくらいだった。 それだけした甲斐あって、古泉は実に楽しそうにしていた。 古泉が楽しそうにしていれば、長門もそうであることは言うまでもない。 もしかしたら笑顔くらい見せてくれるんじゃないかと思えるくらいの機嫌の良さだった。 …それなのに。 そろそろ家に戻ろうとしたところで、不意に銃声が響き渡り、気がつけば俺は地面に転がされ、俺を庇うように古泉が俺を地面に押さえつけていた。 地面にぶつけたにしては頭も痛くないが、古泉が器用に庇ったということなんだろうか。 「…っ、離せ、よ…」 お前が俺を庇ってどうするんだ。 「離せません! お願いですから、動かないでください! 本当に危ないんです!」 必死でそう言う古泉に俺は眉を寄せ、 「だったら、俺がお前を庇うべきだろ!?」 「僕が殺されたって、それは仕方のないことなんです。でも、あなたは違う。あなただけは、あなただけは何がっても、巻き込みたくないんです!」 なんだよそれ、と反論することも出来なかった。 それくらい、古泉の目は本気だった。 それが、どうしてか、どうしようもなく、胸に痛くて、俺は何も言えなくなった。 「…後少しで、終ってくれるはずですから」 どういうことだ、と問うことも出来ない俺の耳に、誰かの叫び声が突き刺さる。 それが止み、複数の人間が走り去る音が聞こえたかと思うと、小さな足音が鼓膜に触れた。 古泉が顔を上げた先にいたのは、長門だった。 いつになく感情の読めない瞳に、ただ古泉だけを映して、まるで安全を確認するように古泉を上から下まで眺める。 それから、俺の方を見た長門の瞳に、驚愕と言うよりむしろ恐怖に似た色をした自分の顔が映っていた。 長門の綺麗なドレスは所々破れ、ほつれ、……血に染まっていた。 「なが…と……!? お前、それ…」 「長門さんの血じゃありませんよ、勿論」 そう言いながら古泉が起き上がり、俺の肩からも圧迫感は消えたってのに、俺は起き上がれなかった。 何がどうなっているのか分からない。 理解出来ない。 理解したいとも、思えなかった。 古泉はポケットから携帯を取り出すと、どこかに連絡を入れたようだった。 しばらくして迎えが来たから、迎えを呼んだのかもしれない。 物陰で、血のついた服を買ったばかりの服へと着替えた長門と、難しい顔をしたままの古泉に支えられるようにして、俺は黒塗りの車に乗り込んだ。 そうなんだと思う。 というのは、正直、混乱していたせいでほとんど記憶に残っていないのだ。 だから、古泉が何か言っていたのもよく聞こえなかったし、ろくに覚えちゃいない。 ただ、古泉が繰り返し何度も俺に謝っていたことだけは分かった。 ぼんやりと、まるで俺の方が人形にでもなったみたいな感覚に陥りそうになりながら、俺は古泉の家のリビングに担ぎ込まれ、ソファに座らされた。 古泉が長門に何か指示し、長門は部屋から出て行った。 古泉はキッチンの方へ向かい、しばらくして戻ってきたかと思うと、プランツ用のミルクを温めて運んできたようだった。 それを俺の前に差し出すと、 「飲んで、少しでも落ち着いてください」 と心配そうに言うので、俺はゆるゆるとそれを受け取り、そのまま口に含んだ。 いつものように、人肌と言うにはいくらか熱過ぎるミルクが舌を焼く。 その痛みで、俺はやっと少し正気に戻ったようだった。 体が震えていることにさえ、今気が付いたということは、さっきまでは正気と言うには程遠い状態だったに違いない。 「……一体、なんだったんだ…?」 なんとかそう呟いたものの、古泉はすぐには答えてくれず、 「まずはゆっくりでいいですから、ミルクを飲み干してしまってください。僕としても、何からお話しをすればいいのか、考えたいですし」 そう言われ、俺は再びカップに口をつける。 今度は慎重に、少しずつ吹き冷ましながら飲んだそれは、甘くて、こんな時だというのに美味しいと感じられた。 カップをすっかり空にしたところで、古泉が隣りからすっと手を出し、カップをテーブルの上に置いた。 「…落ち着きましたか?」 「…ああ」 「どうしましょうか。すぐに説明した方がいいですか? それとも、少し休んで、もう少し落ち着いてからの方がいいでしょうか」 「……」 正直分からん。 ただ、聞きたいこともあった。 「とりあえず、長門はどうしたんだ?」 「シャワーを浴びて、もう一度着替えるように言いました。まだ戻って来ないのは、もしかすると、遠慮しているのかもしれません。あなたに余計なショックを与えてしまうかもしれないと」 「そう…か」 そう思われても仕方ない態度を取ってしまったからな。 「それは、仕方ありませんよ。誰だって、驚くと思いますし…」 そう言いながら、古泉は体を近づけてくると、俺を抱き締めた。 それに抵抗する気力すら、今の俺にはない。 加えて、その暖かさが、震えの止まらない体には何よりの薬のように思えた。 「こんなに震えて……。怖い思いをさせてしまって、すみませんでした」 詫びる言葉と共に、優しく抱き締められると、どうしてだか、涙が溢れて止まらなくなった。 「もう、大丈夫ですから。心配ありません。…少し、休んでください……」 柔らかく優しく、小さな子供に言い聞かせるように紡がれる声が心地好く、俺はそのまま目を閉じて、少し眠ったようだった。 目を開けると、リビングではなく二階の、古泉の大き過ぎるベッドに寝かされていた。 自分で歩いた記憶がないということは、古泉に運ばれたと言うことだろうか。 それはそれで非常に複雑なものがあるぞ、と眉を寄せたところで、サイドテーブルのランプのぼんやりとした灯りしかない薄暗い部屋の隅から、 「もう起きてしまわれたんですか?」 と声を掛けられた。 「…古泉……?」 「まだ三十分も経ってませんよ。もう少し寝た方がいいのでは…」 「…いや、大丈夫だ」 のそりと体を起こしたところで、古泉の心配そうな顔が目に入った。 なんて顔してんだお前。 「あなたこそ、酷い顔ですよ。……怖い目に遭わせてしまって、本当にすみません」 「…説明、してくれるか?」 「……はい」 そう言った古泉がベッドに座り、俺の手を握り締めた。 俺を不安がらせまいとして、と言うよりも、自分が不安を感じているかのように。 「…あなたには、以前、お話ししましたよね? 僕の父はうちの会長で、僕とは祖父と孫、ひ孫ほどにも年が離れているということは」 「ああ」 「あの時は明言しませんでしたが、僕の母は父の愛人なんです」 そりゃまた凄い話だな。 「父の正妻との間にも、当然のように子供がいたんですが、こちらは僕よりずっと年上でして、兄たちはもう亡くなっているんです。ただ、兄の子供たち、僕にとって甥姪にあたる人たちは健在かつなかなか欲望に忠実な方々でして、父の死後のことを今から心配しているほど、勤勉でもあるんですよ」 あからさまな皮肉を呟いた古泉は、きつく眉を寄せて、 「…あの人たちにとって、僕は父より先に死んでもらいたい存在なんです。実際、その手を汚したとしても構わないほどに」 「……つまり…」 「僕はいつも命を狙われているようなものなんですよ。…あなたも気付いていたでしょう? この家の周り、庭を囲うガラス室の存在に」 それは勿論気がついていた。 だが、それはただの温室としてのものだと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。 「あれは、防弾ガラスです。他にもいろいろ最新のセキュリティ技術が使われているんですよ。この最上階への出入りが厳しく制限されているのも、あなたを雇うためだけにあなたの身上調査をするなんて大袈裟なことをしたのも、身を守るためです。僕が会社の天辺なんて場所に住むのも、僕が普段、仕事の時にボディーガードや秘書に囲まれているのも、私的な用事の時に長門さんを連れ歩くのも」 …待て、なんで長門が関係してくるんだ? 「……長門さんは、僕の父が、人形師に無理を言って作らせた人形なんです。僕の身を守らせるためだけに。僕の命を狙うものを傷つけてでも僕を守るように。……だから、彼女は笑えないんですよ。プランツ・ドールなのに、笑えないんです。僕の身を守らなければならないという役目を負い、そのための機能を持っているから、笑うことに割く余裕がないんです」 「そ…んな……」 嘘だろう、なんてことは言えないほど、古泉は沈痛な面持ちをしていた。 「私的なパーティーでボディーガードを連れているのは見苦しいでしょう? 今日のように出かける時についても同じです。そんな時のためだけに、長門さんは作られてしまったんです。だから僕も…彼女にどう接したらいいのか、分からなくて…」 それで、ぎこちない態度しか取れなかったのか。 だが、 「…そんなのは、悲しすぎるだろう……」 「ええ、彼女には悪いと…」 「そうじゃない!」 自分でも驚くほど、強い声が出た。 「…お前も、悲しすぎる…。なんだ、それ。血の繋がった親類に命を狙われる? 接し方も分からなかった? …なんだよ、それ……」 「…仕方ないんです。そういうことも、世の中にはままあるんですよ。長門さんについては、何とかしてあげたいとも思うのですが……」 そう言った古泉の手が俺の目元に触れて、俺は自分がまたもや泣き出していたことに気がついた。 「泣かないでください」 「…っ、お前が、悪いんだろ…」 「でも、あなたに泣かれると困ります」 古泉がベッドを軋ませながら顔を近づけてきたかと思うと、その唇が俺の目元に触れていた。 「な、に……」 驚きに目を見開く俺に、古泉は悪戯っぽく笑って囁く。 「ねえ、本当に恋人はいないんですか?」 「いない、が…」 それが今の状況に何か関係するのか? 「仲の良い幼なじみの方は…」 「よく誤解されるが、ただの幼なじみだ」 だが、それがどうした。 「ああ、それは何よりです」 にっこりと笑った古泉が、俺の頬に口付ける。 「古泉…? お前、一体、何を……」 「いえ、泣いているあなたがあまりにも愛らしいものですから、ケダモノしてしまおうかと」 「……は?」 今なんつった? 「ああ、言葉が悪いですね」 お前のその笑顔の方がよっぽど悪そうだと口にする間もなく、ベッドに押し倒される。 俺が抵抗出来なかったのはおそらく、あんなとんでもない目に遭わされた上、予想だにしなかったうち明け話を聞かされたショックのせいに違いない。 間違っても、 「これが、愛しいという感情なんですね」 と言って古泉が心底幸せそうに微笑んだからではないと思いたい。 慰めるように繰り返されたキスが、あまりに優し過ぎたからなんて理由でもないはずだ。 |