家族ごっこ



俺の仕事は以前と比べて格段に増えた。
しかし以前の仕事量が、舐めてんのかとクレームをつけてやりたくなるくらい少なかったことに加えて、増えた世話焼きの対象が滅多に家にいないこともあって、大して苦になっていない。
むしろ、丁度いいくらいだ。
出社時に見かける同期の連中も、入社して二月近くが過ぎて慣れてきたのか、緊張に凝り固まっていた肩から力が抜け、いつの間にやら社会人らしくなってきたようだと、まるきり他人事気分の上から目線で眺めつつ、俺は今日もこそこそと、役員専用エレベーターで最上階へと上がる。
既に出社している人間も少なくないというのに、重役出勤で当然だと思っているらしい社長は今日もまだ惰眠を貪っているようだ。
「やれやれ」
と肩を竦めつつ、スーツから仕事着と言う名の普段着に着替える。
腹が空腹を訴えるのは、朝飯をろくに食わず、ちょっとつまんだだけで来たせいだ。
俺がそんなことをしている理由については後で述べることにして、俺はまず長門を起こしにいく。
長門は古泉と違い、非常に寝覚めがいいので、ドアを軽くノックすればそれで十分だ。
「長門、古泉を起こしに行くぞ」
とドアの外から声を掛ければ、ややあって、ドアが内側からそっと開いた。
寝ぼけ眼に寝癖頭であっても、長門はやっぱり可愛い。
…いささか親馬鹿状態になっている感は否めないものの、実際、長門は誰が見ても可愛いに違いない。
特に、このところその愛らしさに磨きがかかってきている。
それも多分、古泉の方にいい変化があったからなんだろうな。
それでいいと思いつつ、いくらか寂しいような気もしてくるのだから、人間ってのは複雑なもんだ。
俺みたいな平凡な人間はもう少し粗雑で大雑把な作りでも不思議じゃないと思うんだがな。
俺は長門と手を繋いで二階に上がる。
二階で一番日当りのいい南向きの部屋が、奴の寝室である。
そうして、寝室の前で足を止めた俺たちは、無駄と知りつつも一応ドアをノックする。
コンコン、なんてもんじゃなく、ゴンゴンとでも言うような感じで、拳を傷めそうな音を立てたのだが、中から反応はない。
「古泉、入るぞ」
一応声を掛けて、ドアを開ける。
寝室にも鍵がないわけではないのだが、普段から掛けないのが習慣化しているため、あっさりとドアは開いた。
長門の部屋に負けじと広いその部屋には、キングサイズの馬鹿でかいベッドが鎮座している。
最初こそ、どういうつもりでこんなもんで寝てるんだ、美女でも侍らせるつもりかと呆れたものだったのだが、そのうち、単純に古泉の寝相が悪いせいだと知った。
今日だって、このでかすぎるベッドの端っこに辛うじて留まっている始末だ。
呆れてため息を吐く俺を他所に、長門がとととっと古泉に近寄り、その体を揺さぶる。
「ぅ……んん……」
と声は立てるものの、こんなもんで古泉が起きるはずもなく、俺は大股で古泉に近づくとその鼻を抓り、頬を引っ張ってやった。
寝ててもお綺麗過ぎるその顔が変形するのは見ていてもなかなかいい気分だ。
「古泉、とっとと起きろ。長門が待ちかねてるぞ」
「ぅー……あー……おはようございます…」
まだ眠そうな声で言って古泉が起き上がり、まるで転がり落ちるようにしてベッドから下りた。
いくらか声に張りがなく、機嫌が悪そうに響くのは、こいつの寝起きが悪いからだと知ったのも、こいつを起こすようになってからだ。
以前、不機嫌な面のまま徘徊していたのは、寝起きの悪さが原因であり、しかもその状態で表情を作ろうとするのが面倒で、それでも何とかしようと意識するあまり、かえって別人かと思うような凶悪な顔つきになっていたということらしい。
全く、面倒なのはお前の思考回路だ。
朝っぱらから表情を作れなんて誰が要求するか。
少なくとも俺も長門もしやしねぇ。
だから俺は、古泉の寄り気味の眉を軽く小突いてやりながら、
「はい、おはようさん。今から朝飯作ってやるからリクエストがあれば言えよ」
「そんな…。何度も言ってますが、あなたの仕事は長門さんのお世話をすることだけです。僕のことはついでで結構なんですよ…? それで追加報酬を、ということにはしませんし…」
寝起きの寝とぼけた顔のまま、今更過ぎる言葉を定型句的に口にした古泉に俺は思いっきり渋面を向け、
「やかましい。お前がほっとくとろくな食事もしないのが悪いんだろうが。それに、報酬は十分過ぎる額をもらってる。お節介焼くくらい認めろ。…これも何度も言ってるがな」
古泉は困ったようにだが、
「あなたには負けますね。…では、」
「言っておくが、お前の嫌いな緑黄色野菜は和食だろうが洋食だろうが中華だろうがたっぷり食わせてやるから覚悟しとけよ」
「き、嫌いじゃありませんよ?」
ほんのり顔を赤らめて反論する古泉に、俺はニタリと笑って、
「ああ、嫌いじゃなくて苦手だったか?」
「……もう、いいです。あなたにお任せしますよ」
諦めたようにため息を吐いた古泉を、長門が慰めるようにそっと撫でてやったが、古泉の味方をするつもりはないらしい。
そのまま古泉を引っ張って、洗面所へ連れて行く。
どっちが世話を焼かれてるんだか、と呆れながら俺は一足先にキッチンへ入り、料理を始める。
さて、今日は何を作るかね。
今から飯を炊くのも面倒だから、洋食にさせてもらうとして、野菜を食わせるつもりならやっぱりサラダだろうか。
俺はブロッコリーだのにんじんだのじゃがいもだのを引っ張り出し、温野菜サラダを作るべく下ごしらえに取り掛かる。
コンソメベースのスープにも、野菜をたっぷり入れてやる。
肉類はスープの鶏肉とベーコンエッグのベーコンだけだ。
多少調理に時間がかかるものばかり選んだが、それでも何も問題はない。
あいつが支度を整えるまでの時間がかなりかかるのは、もはや通例を通り越して常識に成り果てているからな。
案の定、熱いシャワーを浴びてやっと目が覚めたらしい古泉が、髪から水を滴らせながらやってきたのは、もうあとは盛り付けるだけになった頃だった。
「髪をちゃんと拭け」
と言ってやると、古泉は苦笑しながら椅子に腰を下ろした。
それにとことこと歩み寄った長門が、わざわざその髪を拭いてやる。
「長門さん、そんなことはしなくていいんですよ?」
と遠慮でもするように言う古泉に俺も言い添えてやる。
「そうだ。長門、そんなことはしてやらなくていい。そいつは立派な大人なんだからな」
迷うように視線をふらつかせた長門は、古泉の頭からタオルを外すと、俺に向かって突き出した。
……はいはい、俺にやれっつうんだな。
ミルクを温めるのが遅くなる、と言っても長門はこちらを優先させるに違いない。
俺は諦めてタオルを受け取ると、古泉の背後に立つ。
「あなたも、しなくていいんですよ?」
と言う古泉の意見を俺が取り上げるはずもなく、
「長門の頼みだからな。そんなことを言うくらいなら、最初からお前が自分できちんとしてくれ」
とため息混じりに言ってやる。
わしゃわしゃと遠慮の欠片もなく髪を拭いてやると、男には甘ったる過ぎるような匂いがふわりと漂った。
どういうシャンプー使ってんだ、こいつは。
……って、この匂いは。
「…お前、また間違えて来客用のシャンプー使っただろ」
「……ああ、言われてみればそんな気がしますね。うっかりしてました」
どんだけ寝とぼけてんだ。
今日も仕事なんだろうが。
どうなっても俺は知らんぞ。
というか、客を呼ぶつもりもないのにわざわざ来客用とか備え付けるのも止めておけ。
寝とぼけてて判別出来ないくらいなら、はじめから余計なものは置くな。
いい加減にしねぇと歯磨き粉の代わりに練わさび置くぞ。
…まあ、とりあえず今日は、
「そのフローラルな香りを振りまいて、精々笑いものになってこい」
「笑われますかね」
「表面上は笑わなくても、内心で笑う奴はいくらでもいるだろうな」
「困りましたね」
くすりと笑った古泉はしかし、大して気にする様子もなく目をコンロの方へ向け、
「今日の朝ご飯は、結局なんになさったんですか?」
「聞いて喜べ、温野菜のサラダにチキンと葉野菜のスープ、ベーコンエッグにトーストだ」
「……あ…ありがとうございます…」
苦いような落ち込んだような声で言った古泉に俺は笑うしかない。
本当にこれが若手ながらも抜群の経営手腕であちこちから注目されてる若社長かよ。
ファンの子たちや部下が見たら泣くぞ。
「外ではちゃんとしてるんですから、家の中くらい、自由にさせていただいても構わないと思いますけどね」
恨めしげに言われた言葉に、棘を感じないわけでもない。
実際、少し前の俺なら、余計なことを言ったとでも思ってその後は当分口をつぐんだところだろう。
しかし、ここしばらくの決して深くもないが浅くもない付き合いでこいつの行動パターンを掴んだ俺はそれくらいで怯みやしない。
「構われて嬉しいくせに、何言ってんだか」
と言ってやって、少し強めに髪を掻き混ぜて解放してやると、古泉は小さく苦笑して、
「すみません。言い回しがまずいということに、言ってから気がつきました」
と悔やむように軽くため息を吐いたが、俺は笑って、
「もう慣れた」
「そう言っていただけると気が楽です。…あなたも一緒に朝ご飯食べるんですよね?」
「それがお前と長門の要望なんだろ」
そう、それで俺は朝飯も食わずに、空きっ腹を抱えてここに来ているんだ。
どうなだめすかしても朝食を取ろうとしない古泉に、長門をひとりで食事させるのは可哀想だという主張の下、長門と一緒に朝食をとらせるようにしたのは我ながらいいアイディアだったように思う。
しかしそこから、
「それならいっそあなたも一緒に食べましょうよ。二人よりは三人の食事の方が楽しいに決まっています」
と主張されるとは思っても見なかった。
おかげで俺は、一日三食ここの冷蔵庫の世話になるはめになっちまっている。
…給料から天引きするよう言っている食費がどれだけになっていくのか、考えるだけでも怖い。
「そんなに高いものは入れてませんよ? 下の社員食堂と共同購入のはずですから、むしろ安いはずです。と、言いますか…こちらのわがままに付き合わせてしまっているわけですから、律儀に食費を入れてくださらなくてもいいんですよ?」
「やかましい。そんな図々しいまねが出来るか」
噛みつくように言ってやっても、古泉は面白がるように笑うばかりだ。
くそ、ふてぶてしさが身についてきやがったな。
作り笑いよりはこういう笑顔の方が、見ていても気分がいくらかマシになるとはいえ、面白くはない。
顔をしかめながら長門のミルクを温めようとしたら、冷蔵庫から取り出したミルクの瓶をひょいと取り上げられた。
「たまには僕が温めますよ。あなたが自分の仕事を取られたと不快に思わないのであれば、ですが」
とウィンクなどしてくる古泉に俺はため息を吐きながら、
「…まあ、いいだろう」
「ありがとうございます」
と言っておいて、
「…そう拗ねないでください」
くすりと笑った古泉が俺の鼻先をつつきやがった。
やめんか。
大体、拗ねてなんかない。
「すみません」
謝りながらも古泉は楽しげで、俺はむっつりと黙り込みながら椅子に座った。
ちょこちょこと近づいてきた長門が、俺の顔を覗き込んでくるので、不機嫌な面もすぐに緩んでしまったが。
「すぐにミルクも温まるからな。そうしたら、三人で朝飯だ」
と声を掛けながら頭を撫でてやると、それだけで長門が嬉しそうにした。
表情は変わらないのだが、なんとなく分かることが俺としても嬉しい。
慎重すぎるほどの手つきで一生懸命に古泉が温めたミルクは、慎重にした割にちょっとばかり温まりすぎているような感じではあったが、長門は満足そうに受け取った。
そうして、三人でテーブルにつき、手を合わせる。
「いただきます」
と唱える声に他人の声が重なるのは、ひとりきりでそれを響かせるよりずっといい。
テーブルについたら出てきたものはとりあえずきちんと食べきるようにテーブルマナーとして身につけられているらしい古泉が、それでもどこか嫌そうにサラダを口に運んだが、すぐに小さく微笑んだ。
「美味しいです」
「そら見ろ。お前のは要するに食わず嫌いなんだよ」
俺が作ったらいつでも美味いといって食うじゃないか。
「違いますよ。食べるだけなら色々なところで食べてます。でも、美味しいなんてちっとも思いません。もしかして、あなたの料理の仕方が特別なんじゃないですか?」
「そんな面倒なことを俺がすると思うのか?」
有り得んだろ。
「不思議ですね」
そう笑った古泉だったが、何かいい考えが浮かんだとばかりにその笑みを一層深めたかと思うと、
「やっぱり、愛情が込められているからでしょうか」
と頭のおめでたいことを言うので俺は思わず古泉を睨みつけ、
「くだらんことを言うな」
と唸ったのだが、古泉は少しもへこたれず、それどころか俺の反応を面白がるように、
「違いと言ったらそれくらいしか思い浮かばないんですよ。店で買うものも、レストランの食事も、どんなに手間が掛けられていたところで、僕に対する愛情が込められているものではないでしょう?」
「俺の料理には込められてるとでも言うつもりか?」
冷たい目で見た俺に、古泉はきょとんとした、いくらか間の抜けた顔で、
「込められてないんですか?」
と返しやがった。
なんだその妙な信頼感と言うか、微塵も疑ってなかったと言うような反応は。
呆れながらも俺が、
「……余計な手間をかけさせやがってという恨みくらいなら込めてあるかもな」
吐き捨てるようにそう言ってやったところで古泉は声を立てて笑い、
「いつものことですが、素直じゃないですね」
「やかましい。お前はいい加減に思わせぶりな変態発言をするのを止めろ。さもないと、今度こそお前の嫌いなものばかり出してやる」
野菜ばかりの精進料理なんてどうだ。
洋食みたいに分かりやすい味付けにもしてやらん。
「すみません、お願いですから勘弁してください」
外で見せる威厳の欠片もなくあっさり誤った古泉だったが、また少し食べ進めた後、
「……ああ、でも、いいものですねぇ」
しみじみと呟いて古泉はスープを飲んだ。
平気な顔が面白くないから今度はトマトスープにでもしてやろう。
「何がいいものだって?」
「こうして会話をしながらの朝食と言うのもいいものだと思いまして。…普通はこれが当然なんでしょうね」
そう言って寂しげな顔つきになった古泉を、さっきからずっと熱すぎるミルクを一生懸命吹き冷ましていた長門が見つめた。
心配そうなその瞳に、古泉も少しずつながらも、ちゃんと愛情を感じ取れるようになってきているらしい。
優しく笑い返しながら、
「大丈夫ですよ。知らなかった分、今、とても幸せに思えるんですからね」
と言って長門の頭を撫でた。
その手つきにも長門に向ける目にも、優しさと愛情が感じられる。
横で見ている俺にだってこれだけはっきりと分かるのだから、愛情を栄養とする長門ならもっと敏感に感じ取っていることだろう。
その証拠に、長門はどんどん綺麗になっている。
成長しているわけではないから、愛らしさはそのままに、ただ、その瞳の輝きや髪の艶、肌の張り、唇の潤いなどがどんどん増して、キラキラ輝いているように思える。
そのほかにも長門は変わってきている。
最初は俺が読むのを聞くだけだった本も、気がつけば自分の目で文字を追うようになっており、どうやら少しずつ字を覚えようとしているらしい。
いつか筆談ででも意思疎通が出来るようになるんじゃないかと思うと、それもまた楽しみでならない。
それだけでなく、たまに早く帰ってこれるようになった古泉が俺と一緒にチェスだのオセロだのと言った恐ろしく時代錯誤なボードゲームを骨董品じゃないかと思うような古めかしいセットでやっていると近づいてきて見つめていたりするようになっている。
もしかすると、ルールを覚えたら一緒にゲームだって出来るかもしれない。
そんな風に日々が楽しくなってきたから、俺はつい、見て見ぬフリをしてしまったんだろう。
長門が笑わない理由を聞きもせず、古泉が長門を手に入れた本当の理由を知ろうともしないで。