朝早く起きて自宅を出た俺が手に持っているのは小さめのボストンバッグひとつっきりだ。 他の新入社員連中がまだまだ緊張に凝り固まった難しい顔をしているのを尻目に、こそこそと役員専用エレベーターに乗り込み、最上階へ向かう。 そうして、庭の中をわざとゆっくり歩いて玄関まで行くと、ドアフォンを鳴らすといった無駄なことはせず、金属製の鍵と社員証でドアを開けた。 「おはよう」 と出来るだけ大きな声を掛けるが、返事はない。 ……まあ、仕方ないだろうな。 俺はずかずかと家の中に上がりこむと、勿体無くも――言うまでもなく反語的表現と言うやつだ――俺なんぞのために宛がわれた部屋に入り、スーツからラフな服装に着替える。 スーツのままでキッチンに立つなんてしたくもないし、これもまた彼のワガママ若社長の要望なのだ。 本社ビルの天辺にあるとはいえ、ここは自宅なのだから堅苦しいスーツ姿でうろうろしてもらいたくない、とね。 そのくせ、自分は大抵スーツ姿のままか、精々ジャケットを脱いだ程度のラフとは言い難い服装で過ごしてるんだから、分からん奴だ。 腹の中で悪態をつきつつ着替え終えた後、キッチンに入る。 まずは長門のために、とミルクを温めにかかると、その甘い匂いに誘われたかのように長門が起き出して来た。 ネグリジェ姿のまま、短い髪をいくらか乱れさせて現れる長門は、うっかりするとどきりとさせられそうなくらい、色気のある美少女っぷりなのだが、いかんせん、俺は幼い実の妹がいるためにロリコンでもなければ妹萌えもしない人間である。 よって素直に、可愛いもんだと目を細めつつ、 「おはよう」 と声をかけるのみだ。 長門は返事が出来ないため、頷くだけだが、それでも十分意味は通じる。 「もうすぐ温まるからな。ソファに座って待ってろ」 こくんと頷いた長門が、まだどこか眠そうなふわふわした足取りでソファに向かい、ちょこんと腰を下ろす。 人肌に温まったミルクを触るだけで手が震えそうな高級なカップに移す。 これに限らず、長門の身の回りの品は高価で贅沢なものばかりだ。 今着ているネグリジェはもとより、普段着もシーツも絹だし、それらを洗うのに使う洗剤も合成のものではなく天然素材の石鹸で、絹製ゆえにかなりの手間を掛けて洗われているらしい。 遊び相手にとばかりに与えられている人形は恐ろしく高価なアンティークドールだったりする。 絹製のものを使うのは、そうでなければ肌がかぶれてしまうほど繊細に作られているからであり、石鹸についても同様なのだが、その他の贅沢品については古泉の趣味だとしか思えない。 自分の身の回りには大して気を配らないくせに、贅沢品を買い与え、長門を飾り立てることには手間も金も惜しまないのが古泉という男であるらしいからな。 一ヶ月ばかりも経ってしまえば、流石にカップを持つだけで手が震えるというようなことはなくなったのだが、それでも扱いは慎重になる。 そろそろと黒檀の重厚なテーブルの上にカップを下ろすと、長門が綺麗に手をあわせて、いただきますとでも言うように小さく頷いた。 「召し上がれ」 と返してやると、やっと口をつけ、ちびちびとミルクを舐め始める。 食前に「いただきます」と言うようにと言った覚えはないのだが、俺がここで飯を食う時にそうするのもあって、長門もすっかりそれを覚えちまったらしい。 ――そう、俺はここで飯を食うようになっている。 なんせ、長門を寂しがらせないようにと思うと、昼飯の時間になっても外に食べに出られないどころか、古泉の帰りが遅くて夕食すらここで食べなければならなくなったりする。 長門を連れて外に出てもいいとは言われているのだが、こんな美少女と社員食堂で飯を食うのはあまりにも目立ってまずいだろう。 だから、俺は古泉が勧めるまま、場合によってはここで勝手に飯を作り、それを食べるようになっていた。 流石に朝飯は家で食ってくるし、昼も極力弁当を持ってくるようにしているんだがな。 更に言うと俺が使った食材の分の費用は給料から引いてくれと言っているのだが、古泉がそうしているのかは非常に怪しい。 今度、ついに給料明細がもらえるはずなので、その時にきちんと確認してやりたいところだ。 俺は長門の隣りに腰を下ろし、小さくため息を吐いた。 それに反応したのか、長門が俺を見つめてくるのへ、なんでもないと笑って、 「熱くないか?」 と聞けば、大丈夫だと頷かれる。 「おいしいか?」 やはり返事は肯定だ。 そのちまちました動きが可愛らしくて、俺はつい、手を伸ばして長門のくしゃくしゃのままの髪を撫でた。 多少もつれていても、手櫛ですぐに解けるほど、長門の髪はさらさらしている。 大事にされているだけあって、どこもかしこも綺麗で愛らしい。 プランツ・ドールを、愛されるためだけに生まれてきた少女と形容することもあるそうなのだが、長門もまさにそれだな。 そこにいるだけで、幸せな気持ちをくれるようだ。 ゆっくり時間を掛けて長門がミルクを飲み終えたら、しばらくはやることもない。 精々カップを洗うくらいだ。 俺の仕事は長門の世話をすること、それだけだ。 だから、家主であり雇い主である古泉がいつまで経っても寝ていようと俺には関係ない。 それでも、ただぼんやりしているだけってのもつまらないから、俺は長門と一緒に長門の部屋に行く。 長門の部屋は一階で一番日当りのよい、南向きの場所にあり、小さなサンルームや専用のバスルームにトイレまで揃っている。 更に、少女らしい凝ったつくりの部屋には天蓋付のベッドだの、おもちゃのように愛らしいドレッサーだのがちまちまと並べられている。 まるきり、原寸大のドールハウスだ。 「長門、今日はどれ着るんだ?」 立派過ぎる衣裳部屋にびらびらと並んだ服を一緒に眺めながら問えば、長門はゆっくりと衣装を眺める。 これだけ衣装があれば選ぶのにも時間がかかるだろうし、何より長門にはやらなくてはならない仕事というものもないのだから、どんなに時間を掛けたって構わないだろう。 見ているだけの俺も、特に苛立ったりはせず、長門の視線を追いかけるだけだ。 妹だの幼なじみだのの買い物に付き合わされることも多い俺だから、女性が洋服選びに掛ける時間の長さはよく弁えているつもりだ。 それにしても、長門がそうして選んでいるのを見ていて、少しももどかしさが湧いてこないのは不思議なもんだな。 これがうちの妹だったりしたら、どれを着ても同じだろうと投げ出してやりたくなるだろうに。 やっぱり、長門が正真正銘の美少女だからだろうか。 長門が黒いベルベットに手編みの白いレースで飾られたドレスを選び取ったのを見て、俺は確認する。 「今日はそれにするのか?」 返事は頷きひとつだ。 「うん、長門にはよく似合うだろうな」 そう言ってやるだけで、長門はどこか嬉しそうにする。 「それじゃ、俺は外に出てるから、着替え終わったら教えてくれ」 誰も来ないと分かってはいるが一応、と窓にカーテンを引いた上で廊下に出る。 はめたままだった腕時計を見て、そろそろか、と思った瞬間、二階からちょっとでなくけたたましい音が響き渡った。 長門のいる、おとぎ話か何かのような時間が脆くも崩れ去るような音である。 俺が思わず顔をしかめたとして誰が責められるだろうか。 その警報装置の如き音はたっぷり数分間は響き渡った後、やっと止まった。 それからまた数分が過ぎて、聞こえてきたのは不機嫌な足取りで階段を下りてくる足音だ。 この廊下にいれば遭遇することはないのだが、それでも通り過ぎるのがちらりと見えた。 恐ろしく不機嫌で、嫌そうな顔をした古泉が、バスルームの方へと歩いていく。 …相変わらず、呆れるほどの寝起きの悪さだ。 俺だって、人のことを言えたもんじゃないが、それにしたってあれはないだろう。 もし奴に付き合っている彼女がいたとして、あれをみられたら一発で振られそうな姿である。 完璧で通っている社長にも、弱いところはあるってことかね。 そうして、あの冬眠から目覚めたばかりの動物染みた寝起き姿を知っているから、俺は古泉にいささか気味の悪さを感じていた。 あるいは、胡散臭さとでも言おうか。 いつもの丁寧な物腰が慇懃無礼としか思えなくなった。 普段の、人前で見せる態度が作り物の演技そのものにしか思えない。 いや、俺だって、あれが本当に素の姿だなんてことは思っていなかったとも。 だが、それにしたってあの変貌っぷりはないだろう。 俺をあんな形で雇ったことといい、不審極まりない。 精々気をつけよう、と思っている間にシャワーを浴びて目を覚ましたらしい古泉がこざっぱりした格好で出てきた。 いくらか髪が濡れたままに見えるが、そんなもんは後でどうとでもなるんだろう。 俺はここでやっと、 「おはよう」 と声を掛ける。 「おはようございます」 と向けられるのはいつも通りの作り笑いだ。 不気味なやつめ。 「長門さんはお着替え中ですか?」 「そろそろ終るだろ。……古泉、朝飯は?」 俺が小さく尋ねた言葉を笑顔で黙殺して、古泉は長門の部屋のドアをノックする。 「長門さん、僕はそろそろ仕事に行きますね」 と声を掛けると、すぐにドアが開き、愛らしく着替えを終えた長門がひょこりと顔を見せた。 「今日も可愛らしいですね、僕のお姫様」 恥かしいことを言うもんだ、と思いながらも、お姫様と言う呼び方は案外間違っちゃいないと思う辺り、俺も随分長門にやられちまっている。 なんせ、本当にお姫様のように扱われ、本物のお姫様のように可愛くて大人しいのが長門だからな。 ただ、少しばかりおっちょこちょいな面でも持ち合わせているのか、はたまた古泉に呼ばれて慌てて出てきたからか、長門の髪はまだくしゃくしゃのままだった。 「長門、寝癖が直ってないぞ」 苦笑しながら髪を撫で付けてやると、長門が嬉しそうに、かすかに目を細めた。 古泉は長門を抱き上げるような形で抱き締めた後、 「それでは、僕は仕事に行ってきますね」 時間が差し迫っているからだろうが、意外なくらいあっさりと長門を放し、それから俺に目を向けて、 「今日も一日、よろしくお願いします」 と微笑んだ。 男にまでそんなに愛想笑いを振りまかなくていいと思うがな。 俺は露骨に眉を寄せながら、 「分かったからとっとと行け。そろそろ森さんが呼びにくるぞ」 森さんというのが、古泉の秘書の筆頭であるのだが、どうやら古泉のお目付け役という役割もあるらしく、古泉は随分と苦手に思っているらしい。 その名を聞くだけで緊張したようにちょっと眉を寄せた上で、 「そうですね。では、行ってきます」 行ってらっしゃい、と言う代わりに長門は手を振り、俺は渋い顔のまま、 「行って来い」 と言うだけで、それ以上見送りにも出ようとしなかった。 長門も玄関まで出て行こうとはしなかったものの、サンルームの大きなガラス窓に張り付いて、古泉がエレベーターに吸い込まれて見えなくなるまでじっとそれを見つめていた。 それからは、また静か過ぎるほど静かで穏やかな時間が訪れる。 人形であるからか、長門と出来ることはそんなに多くない。 最近やっと、俺に付き合ってトランプをするようになったくらいだ。 後は、絵本を読み聞かせてやると嬉しいのか、夢中になってじっと聞いている。 そんな時は、無感情な瞳にも光が宿って見えた。 他の人形もこんなものなんだろうかと思って俺は色々と調べてみていた。 元々情報量はそんなに多くないのだが、都市伝説めいた話としてネット上には色々な話が載っていた。 それによると、どうやら、長門はいくらか変わったプランツ・ドールであるらしい。 他の少女達は、持ち主限定であったりはするもののよく笑い、その笑顔で人を癒してくれたりするもののようで、それを知った俺はえらく驚かされたものだった。 何しろ、いまだに長門の笑顔を見たことがない。 古泉に笑顔を向けているところすら、一度も見ていない。 嬉しそうにしているとか、機嫌がよくないとか、なんとなく気配で察せられるくらいなのだ。 ところが、調べてみると少女はよく感情表現もするようで、気に入らない人間には近づかないどころか、自分の持ち主であっても不機嫌に接する時はそうするし、嫌な匂いがするだけで逃げ出そうとしたりもするものらしい。 しかし、長門にそんなところはない。 俺が横で何を食っていようがお構いなしで過ごすし、俺が前夜の名残であるところのにんにくの匂いを漂わせてしまい、古泉に遠回しに指摘された時にも気にした様子はなかった。 気に入らない人間には近づかない、ってのは長門にも当てはまらないでもないのだが、時々古泉に連れ出されて出かけ、それがたまたまテレビなんかでちらっと映ってたりすると、他人の間にいても別段動じた様子もないようであったりする。 もちろん長門だって、いくらか意思表示はするのだが、それでもなんだか、悲しいくらいに、本物の動かない、小さなオモチャの人形らしいところが強いように思える。 その理由は、古泉に聞けば分かるんだろうか。 どうせ聞けはしないのだが、そんな風に思う。 もし、長門が笑わない理由があるのなら、それを知りたいと思うくらいには、俺は長門が可愛いし、笑って欲しいとも思うのだ。 もどかしさを感じながら午前中を過ごし、俺は長門のために昼のミルクを温める。 長門は朝と同じようにソファに座って大人しくそれを待つのだが、昼は朝と違うことがひとつある。 朝はすぐにミルクを飲んだ長門だったが、昼はそうしないのだ。 じっと座ってミルクを見つめながら、俺が弁当を用意するまで待つ。 それから二人揃って「いただきます」と手を合わせ、食事を始める。 元々早起きが得意と言うわけでもない俺が、早起きを強いられている原因のひとつであるところの弁当であり、悲しくも冷え切ってしまっているそれが、それはそれでそれなりに美味いと言えなくもないレベルであることが、数少ない救いである。 それももしかすると、長門が一緒に食事をとってくれるからかも知れないが。 すぐにミルクを飲み干した長門は、それでも先に席を立ったりはせず、俺が食べ終わるまで大人しく待っている。 考えてみると、古泉がたまに夕食を家で食べる時にも、食べ終わるまでじっと見ているな。 自分が欲しいというのではなく、それを見守っているのが楽しいとでも言うように。 長門はプランツ・ドールだから、ミルクと砂糖菓子以外のものは食べない、というか、食べさせられない。 うかつに変なものを食べさせるととんでもないことになっちまうらしい。 それが少し可哀想な気もするのだが、長門にせよ他の少女にせよ、食事がミルクと砂糖菓子だけってのは酷く似つかわしく思えたので、それでよしと思いたい。 どんなに人間らしく見えても、人間に似て見えても、長門たちは人形なんだからと自分に言い聞かせながら、それでも、その糧となるものがあるのなら、ただの糧としてであったとしても、精一杯の愛情を注ぎたいと思うのは、自然なことではないだろうか。 午後はまた、午前中と同じようにして過ごした。 いや、午前中以上に長門の部屋に籠もりきりで過ごしたと言ってもいい。 午後になると食材が運ばれてきたり、あるいは清掃用のロボットがちょこまかと出入りしたりするから、下手に部屋を出ると鬱陶しくてならないのだ。 だから俺と長門は二人、サンルームでぽかぽかと暖かな日差しを浴びながら過ごした。 掛けられる言葉は少ないのだが、俺が話すのを聞いているのが、長門にはどうやら楽しく感じられるらしい。 せがむような視線を向けられるまま、俺は世間のうわさ話だの、あるいは昨日家で妹がやらかしてくれたとんでもない大失敗だの、そうでなければ学生時代に幼なじみとその友人を巻き込んで――でなければ俺が巻き込まれて――起こしたあれやこれやのハプニングの思い出話だのをして過ごす。 それだけでも、長門はどんどん可愛らしくなっていくように思った。 実際、髪の毛や肌の色艶は俺が通い始めた頃より格段によくなったんじゃないだろうか。 「長門、前より更に可愛くなったな」 何の気なしに俺がそう言ってみると、長門はかすかに首を傾げた。 分からないというのだろうか。 そんな反応も愛らしくて、 「可愛くなった」 と言うと、長門は恥らうように視線をそらしながらも頷いた。 「長門はきっとこれからもっと綺麗になるんだろうな」 俺の言葉に長門が首を振ったのは、プランツ・ドールは育たない――というか、育ってはならない――からだろうか。 俺はその意味を捉えかねつつも、 「長門は綺麗になる。俺が保証してもいい」 と軽く笑って言った。 すると、どうしたことか、長門は悲しそうに視線を伏せた。 「長門? どうかしたのか?」 重たそうに上げられた瞼の下の瞳は、憂いを帯びていた。 どうしてそんな顔をするんだろうか。 直接聞けないのがもどかしい。 「何か足りないものでもあるのか?」 長門は頷かない。 しかし、首を振って否定することもしなかった。 つまりは、足りない何かがあるんだろう。 長門がこれ以上綺麗になるのに足りないものが何か、俺は考えるまでもなく、答えらしきものに行き着いた。 それは、少し前から察しており、しかしながら口にして形にすることははばかられるようなことだったのだが、確認するためには言わざるを得ない。 「……あいつの愛情、か?」 長門はやはりぴくりともしなかった。 その瞳の憂いの色は濃くなるばかりだ。 俺はため息を一つ吐いた。 世話係の俺がどんなに愛情を注いでも、持ち主であり長門が一番慕っているあいつからのそれがなければ足りないものなんだろう。 長門はそれでも、俺に気を使ってか、俺を抱き締めてくれた。 「ありがとな」 俺のことも好きだということらしい。 その気持ちは嬉しいのだが、そんな健気さに、余計にあいつへの不快感が込み上げてくる。 古泉が、長門を全く愛していないとは言わない。 これだけ金を使って何くれなく世話を焼いているのだ。 そこに愛情が全くないとは言い難いだろう。 しかし、そこに見え隠れするのは義務的なものだ。 愛さなければならない、大切にしなければならない、というような。 その負担を軽くするために、俺は雇われたのではないかと思えてくるほどだ。 今日、あいつが帰ってきたら、今日こそ問い詰めてやろう。 それでクビになったら、新しい仕事を探すまでだと腹を決めた。 しかし、今夜も古泉はなかなか帰って来なかった。 |