天辺の少女



酷い不況の中のことだから、無事に就職出来ただけでもありがたかったってのに、新年度になったばかりのその日、どういうわけか、俺は自他共に予想の範囲から大きく外れた大企業の入社式に出席していた。
だめで元々どころか、記念受験のつもりで受けたそこの試験に、どういうわけかトントンと通っちまったのだ。
筆記試験を経て、一次面接、二次面接と至った辺りでは何の間違いかとびくついていた俺だったのだが、三次面接を過ぎ、内定の通知が届いた頃には開き直っていた。
俺にも分からんなんらかの潜在能力を認めるかどうかしてくれたんだろう、とな。
とはいえ、入社式で周りにいる連中が俺とは全く違うような、絵に描いたようなエリートを中心としているのを見ると、浮いてる感が大きい。
ジロジロと、コネ入社じゃないのかとばかりに見てくるやつもいないわけじゃない。
こんなところでやってけるんだろうか、と思いながら、それでも大して緊張も何もせず、まだ若いが敏腕で名を馳せている社長の、いくらか回りくどくて長い話をのんびりと聞いていた俺だったのだが、入社式が終ってオリエンテーションに向かう連中が俺とは違う方向に向かっているのに気がついて焦り始めた。
他の連中はそのままホテルに留まる様子だってのに、俺が指定されている行き先は本社ビルなのだ。
そう遠くはないとは言え、この違いは大きすぎる。
俺は慌てて、近くにいた係りの人間を捕まえて、事情を聞いた。
すると、その人は何やら意味ありげな視線を俺に寄越すと、優しく微笑んで言った。
「間違いではありません。あなたは、指定されている通りに本社ビルへ、屋上の社長室へ向かってください」
「しゃ、社長室?」
一体なんでそんなことになってるんだ、と戸惑う俺に、
「どうしたんですか」
と声が掛けられた。
いや、それは俺にというよりもむしろ、俺に質問されている女性社員への問いだったのかもしれない。
それでも、反射的に顔を上げた俺の目に映ったのは、さっき壇上でスピーチをしていた社長、その人だった。
愕然としている俺に、社長は柔らかく微笑むと、
「ああ、ひとりだけ僕のところに呼ばれているので、不審に思われたんですね。見かけによらず、なかなか慎重な方のようだ」
とどこかしら意地の悪い言葉を呟き、俺の肩に触れた。
「間違いでも手違いでもありませんよ。あなたには特別に頼みたい仕事があるんです。このまま、僕のところへ来てください」
来てくださいも何も、ぐいと肩を押されてしまえば、俺に選択権がないことは明らかであり、俺はそのまままるで誘拐でもされるかのように強引に、本社ビルへと連れて行かれることになっちまった。
…俺なんかがこんなところに採用された理由を、もっとよく考えりゃよかった。
後悔したところで既に遅い。
社長室で一体何が待っているのやら。
「そう緊張しなくていいですよ」
クスリと笑って社長は言った。
ちなみにここは、リムジンの中である。
なんでこんな車に、しかも社長と並んで、そればかりかいかついマシン・スーツに身を包んだボディーガードのお兄さん方と一緒に、乗っていかねばならんのだろうかと思いながら、あまりに不慣れであるがゆえに硬直している俺を、社長は笑ったようだった。
「別に変なことを頼もうと言うのではありません。ちょっとした…そうですね、簡単な仕事なんです。ただ、それを頼むにはいくらか資質と言うものが必要なので、あなたにしか頼めないんですよ」
「…どういうことですか」
訝る俺に、社長は面白がるように笑った。
「観用少女……プランツ・ドールというものを、ご存知ではありませんか?」
「…プランツ・ドール……?」
そんなものは聞いたことがない。
人形、なんだろうかと思うくらいのものだ。
「ご存知なくても無理はありません。一部の好事家には有名ですが、一般にはあまり知られていないものですからね」
そう言って、社長は懇切丁寧に説明を始めた。
「プランツ・ドールは、植物のような少女のような、不思議な人形です。名人によって作られた人形で、その質のよさゆえに自らの買い手を選ぶような、ね。観用植物のように水ではないですが、一日三度のミルクで育ち、肥料として、少女らしく砂糖菓子を食するほかは、必要なのは愛情だけ、というものなのです。僕は、そのプランツ・ドールを一体、所有しているんですよ」
それに俺がどう関係するのだろうかと眉を寄せている俺に、社長は簡単に言ってくれた。
「しかし、僕は出張も多く、そうでなくとも忙しくて家を留守にすることが多いため、彼女の面倒を毎日看ることが出来ません。そこで、彼女が気にいる人間を、彼女の世話係として雇いたいと、そう思ったというわけです」
「…つまり俺、いや、私は、」
人形の世話をするためだけに雇われたっつうことか。
ありがたくて涙が出るね、全く。
「お気を悪くしたのでしたらすみません。しかし、本当に、あなたにしか頼めないことなんですよ」
苦笑しながらも柔らかく社長は言った。
まるで、俺の機嫌を取るように。
「うちの入社試験を受けた人間は、それこそ一万を越えましたけれど、その中で彼女が認めたのはあなただけなんです。それほどに、特別な資質をお持ちなんですよ、あなたは。勿論、お約束している通りの報酬はお支払いします。ご不満でしたら、更に上乗せしても構いません」
社長がそう言った時に、リムジンは本社ビルの前に着き、俺は促されるままリムジンを降りて、役員専用のエレベーターに押し込まれた。
ここでやっと、ボディーガードと離れることが出来て、いくらかほっとした。
それが仕事なんだろうが、すぐ近くにいながら会話にも参加せず、あちこちを警戒しながら睨んでいるような人間が側にいてはやり辛いからな。
しかし、社長はもはやそんなものには慣れっこで、気にしてすらいなかったらしく、なんら様子を変えずに、
「最上階にあるのは社長室、ということになっていますが、正確には社長室はそのすぐ下のフロアなんです。最上階は僕の私室なんですよ。どちらにも、このエレベーターを使わなければ上がれませんので、気をつけてください」
とまるで俺がこの話を受けると分かっているとばかりに言う社長にいくらか苛立ったものの、このご時勢、しかも既に新年度に入った今になって他の働き口を探すのは難しいだろうということくらい、浅学な俺にもよく分かっており、反抗もし辛い。
それでも、なんとか辞めるか配置転換を申し出るチャンスはないだろうかと俺が考えているうちにエレベーターは社長室のあるフロアに着いた。
「一度ここで下りてください」
言われるまま、俺は社長についていくしかない。
広々とした廊下を歩き、奥まったところにある社長室に入ると、社長は応接用テーブルの上に置いてあった封筒を取ってすぐに部屋を出た。
その封筒を俺に渡し、
「それに社員証が入っています。それを使えばこのフロアにも僕の部屋にも入れますから、決して失くさないようにしてくださいね」
「……社長、ひとつ疑問があるんですが」
「なんでしょうか?」
にこにこと営業スマイルじゃないのかと思うような笑みを振りまく社長に俺は聞く。
「…秘書とか、いないんですか?」
「いますよ。ただ、今日やるべきことはさっきの入社式で終了して、後はそう忙しくありませんし、彼女に会うので、遠慮してもらったんです。彼女は人間嫌いでしてね」
そう言いながら小さく笑った社長に促され、俺は再びエレベーターに乗り込む。
ちょっと上昇してすぐに止まったエレベーターのドアが開くと、そこは広々とした庭だった。
このビルは周辺のビル群と比べて飛びぬけて高いのだが、他のビルを見下ろすように、都会の風景を借景にした洋風の庭は、はっきり言って背景と近景の組み合わせを間違えた、出来の悪いコンピュータグラフィックのようですらあった。
「なんで…」
驚く俺に、社長は悪戯っぽく笑って、
「家ですから、庭くらい必要でしょう?」
行きますよ、と言って社長はずんずんと歩いていく。
社長の家、というのも、本当に見事な家だった。
ビルの天辺にあるのが不思議なくらいの、一戸建ての豪邸である。
どういう金の使い方だ、と呆れていると、
「長門さん、世話係の方をお連れしましたよ」
と社長が家の中へ向かって声を掛けつつ、靴を脱いだ。
…どうでもいいが、ちゃんと揃えて脱げ。
脱ぎ散らかすな。
俺が社長の靴も揃えてやり、自分もきちんと靴を脱いだところで、廊下の奥からひとりの少女が姿を見せた。
ふわふわしたドレスに身を包んだ、10歳にも満たないような幼い少女は、短い髪をかすかに揺らし、ガラス玉めいた瞳で俺を見つめる。
その顔に表情はなく、人形と言う言葉に納得しそうになるくらいだった。
それでも、彼女は人間のようにしか見えない。
「…本当に、人形…なんですか?」
「ええ。動きますし、物も食べます。触れれば体温もありますし、感情だって一応ありますけど、それでも彼女は人形です。試しに、じっと見ているとと分かりますよ。どれだけ長い間でも瞬きしないでいられますからね」
そう言った社長が俺の手を引っ張り、彼女に近づける。
「う、わ…っ!?」
バランスを崩して転びかけた俺を、社長と彼女の両方が支えてくれた。
なんとも情けない。
「すみません」
「いいですから、彼女をよく見ていてください」
そう言われたので俺は大人しくしゃがみ、彼女と目の高さを合わせた。
そのガラスのような瞳は綺麗に光を返しているのに、瞬きする様子はない。
そのまましばらく時間が過ぎて、俺の方は我慢しきれずにもう十回以上は瞬きをしただろうと思っても、彼女はぴくりとも瞼を動かさなかった。
ほかの部分も、微動だにせず、ただじっとたたずんでいる様は、人形以外の何にも見えなかった。
「……本当に、人形、なんですね…」
「そう言ったでしょう?」
面白そうに笑った社長は、
「さて、どうやら、彼女の方はあなたを気に入ってくれたようですね。僕としても嬉しい限りです。ここまで来て、やっぱり嫌だと主張されたらどうしようかと思っていたんですよ」
「…俺が断るとは思ってないみたいに喋るんですね」
思わず皮肉っぽく言った俺に、社長はにんまりと笑って見せた。
なんだその笑いは。
「ええ、あなたは断ったりしないでしょう? あなたは、人形に好かれるほど優しい方です。あなたが断ったなら、彼女はまたここで寂しく、ひとりきりで過ごすことになると知って、断れますか?」
「う…っ……」
そう言われると確かに断り辛い。
「プランツ・ドールには愛情が必要だと、先ほども申し上げたでしょう? 必要な愛情が与えられなかったプランツは、そのまま枯れてしまうんだそうですよ」
「枯れてって……死ぬってこと、ですか?」
そんな大事になるのかと戸惑う俺に、
「そうです。実際、僕が忙しさにかまけていたせいで、彼女が枯れかけたことも数度ありまして、」
と困ったように社長は苦笑し、
「…正直、もうあんな思いはしたくないんですよ。たとえ人形だと分かっていても、見た目はこの通り、愛らしい少女ですしね」
その言葉に釣られて俺はもう一度彼女に目を向けた。
唇を引き結んだままの彼女の表情に変化は見られない。
しかし、それでも何故か、俺の目には、彼女が俺にすがろうとしているように見えた。
「えぇと……長門、だったか?」
こくん、と長門がかすかに頷く。
「本当に、俺でいいのか?」
肯定。
…どうやら、プランツ・ドールというのは喋れないものらしい。
ただ、その小さな手の平が俺の着慣れないスーツをきゅっと掴んだ。
決して力を込めている訳ではない。
振り解こうと思えばいくらだってそう出来るだろう。
それでも、はっきりとした意思を感じさせるそれに、俺は陥落した。
「どうやら、納得していただけたようですね。なに、そう手間は取らせませんよ。必要なのは一日三度の食事としてミルクを温めて与えることくらいです。勿論、彼女に対して愛情を注いでいただけるようならありがたいですが、そこまで強要は出来ません。最低限、ミルクを与えさえしてくださったら、十分な報酬をお支払いしましょう」
そう言って笑った社長に、
「社長、本当にいいんですか? ただそれだけのために、あんなにいただいてしまって……」
「あなたにしか出来ないことだと、再三申し上げたでしょう?」
悪戯っ子がするようにウィンクをして見せた社長だったが、
「ああでも、そうですね。ここは一応僕のプライベートな空間です。そこで社長と呼ばれたり、明らかに使い慣れていないと分かるほどぎこちない敬語を使われてしまっては寛げないかもしれません。ですから、可能でしたら、僕に対しても彼女にするように、ただの友人か何かに対するような接し方をしていただけませんか?」
「……は?」
「想像してみていただけたらすぐにご理解いただけると思うのですが、家に帰ってまで役職で呼ばれるのは愉しくないものですよ?」
「それは…分かりますが……」
社長が敬語でしゃべるのにただの世話係が敬語を使わないのはまずいだろう。
「僕のこれはただの癖ですから」
「……分かった。それじゃ、なんて呼べばいい?」
ここまでだって十分非常識なんだ。
敬語の禁止くらいどうってことないはずだろう。
こうなりゃとことん付き合うまでだ。
俺が開き直りの境地に至りながら問うと、社長は笑顔で答えた。
「古泉とでも、呼び捨ててください。僕もあなたのことは素敵なニックネームで呼ばせていただきますから。…ねえ、キョンくん?」
「――っ、な、なんであんたがそれを…!」
まさかこんなところで呼ばれると思っていなかった間の抜けたあだ名を、美形の若社長の美声で以って囁かれて、酷くうろたえた俺に、古泉は悪びれもせず、
「見も知らぬ他人をプライベートルームに入れるんですから、その前に身上調査くらいしているに決まってるじゃないですか」
それはそうかもしれんが、
「俺のプライバシーはどうなる…!」
「大丈夫ですよ。ちょっとした調査だけで、盗聴まではしてませんから」
にやにやと笑いながら言った古泉を殴ってやりたい衝動に駆られる俺だったが、実行にいたる寸前で、
「ああほら、そろそろ昼のミルクの時間です。キッチンの使い方をお教えしますから、来てください」
と言われてやる気を削がれた。
仕方なく、長門の手を引いてキッチンへと向かいかけた俺だったのだが、ふとあることに気がついて足を止めた。
そうして長門を振り返ると、長門は不思議そうに俺を見上げた。
「長門」
軽く首を傾げる長門に、俺は笑って言う。
出来るだけ優しく笑ったつもりなんだが、うまくいっただろうか。
「これからよろしくな?」
こくん、とそれまでで一番はっきりと、長門は頷いてくれた。

かくして、俺の奇妙な社会人生活が始まっちまったのだった。