不安材料



なんでもない日のことだった。
前夜を古泉の部屋で過ごしたとか、前日がバイトの日だったとか、そういうこともない、ただの平日。
強いて言うなら、明後日に古泉とのデートを兼ねたSOS団全員での市内散策を控えて、浮かれていたといえなくもないのだが、それだって、いつものことだから、そんなに浮き足立ってはいなかったはずだ。
それなのに、である。
唐突に国木田が言ったのだ。
「キョンは、最近綺麗になったよね」
心臓が止まるかと思った。
驚きのあまり固まった。
そうじゃなかったら口に含んだ茶を噴き出していたかも知れん。
「そうかぁ?」
と間の抜けた声を出した谷口に感謝したのも束の間、じっと顔を観察され、肝が冷える。
「なんか変わったような気もするが……綺麗か?」
「んなわけないだろ」
なんとか我に返った俺が、出来るだけ冷淡にそう言ったにも関わらず、国木田は尚も言う。
「綺麗になったよ。肌とか立ち姿もだけど、それ以上に、表情が優しくなったって気がする」
「立ち姿って……」
冷や汗が背筋を伝うのを感じている俺に、国木田ははっきりと、
「前よりずっと背筋が綺麗に伸びて、背が高く見えるようになってるよね。何か始めたの?」
答えられるはずがない。
まさか俺が、女性モデル――正確には、性別も明らかにしていないのだが、世間的にはそういう扱いだ――として、あれこれレッスンを受けながら仕事をしているなんて。
謎のモデル、なんて言うと随分陳腐に思えるものだが、そんな陳腐なものにさえ、人間ってのは案外お手軽に神秘性なんてものを感じてしまえるものなのか、事務所の社長のところには仕事がひっきりなしに入って来ているらしい。
しかし、俺が素性を明らかにしたくないことと、まだ学生の身であり、しかも学校には内緒でモデルをやっていることもあって、仕事は厳選に厳選を重ねた上で、少しずつこなしている。
それも、報酬よりも一緒に仕事をする人間や依頼主の人柄を見て、というんだから恐れ入る。
これも鶴屋さんのおかげかと思うと、うっかり鶴屋さんの家の方に足を向けて寝ることも出来ない。
「…ま、言いたくないんだったらそれでもいいんだけどさ」
国木田はそう言っておいて、どこか油断のならない笑みを見せた。
この笑い方は誰かのそれと似ていた。
それが誰かと言えば、まあ、おのずと分かるというもので、
「お前とハルヒと国木田の共通点って分かるか?」
部室で戯れに口にした俺に、古泉は軽く首を傾げた。
「共通点……ですか?」
「ああ」
「さて、なんでしょうね」
「言っておくが、成績優秀ってのは違うからな」
俺の少々僻みっぽい発言に、小さく声を立てて笑った古泉は、
「もう少しヒントをもらえませんか?」
と言う。
笑っといてヒントを要求するとはいい度胸だ、と思いながらも俺は律儀に、
「もしかしたら俺も当てはまるのかも知れんが、朝比奈さんや谷口なんかはまず当てはまらんな。長門も、多少意味が違うが該当しない」
「ふむ…」
そう呟いた古泉は、考えるポーズを作るでなく、本当に考えてくれているらしい。
他愛もない暇つぶしの発言だと分かっているだろうに、そんな風に真剣になってくれるところに、愛情を感じるなんて言ったら恥かしすぎるかね。
言葉は止められても、視線は止められない。
俺は古泉が考え込んでいる間中ずっと、古泉の顔を見つめていた。
かすかに寄せられた眉間のしわだとか、顎に当てられた指の、狙いきったように見えて自然体であるらしい整ったポーズ。
口の中で言葉を転がしてみようとしているかのようにかすかに動く唇に、触れたいなんて思った辺り、重症もいいところだが、今更だろう。
実際、部室に二人きりでいたなら、何も言わずに唇を奪っていた気がする。
傾げられた首の角度も完璧ってのは、俺の目がおかしくなっているのかね。
やがて古泉は口を開き、
「すみません、ちょっと思いつきませんね。答えを教えてもらえますか?」
「分からんか?」
「分かりません」
「答えは、」
と俺は少しばかり意地の悪い笑みを浮かべ、
「思わせぶりな笑い方をするってところだ。悪巧みをしているのか、カマを掛けてきているのか、分からんがな」
「ああ、なるほど」
と言ったってことは自分がそういう笑い方をしているという自覚はあるんだな。
「それは、まあ…」
言葉を濁したのは、やはり決まりが悪いからなのだろう。
「気にするなよ。別にそれを咎めたいわけじゃない」
「何かありましたか?」
「……国木田が、そういう笑い方をしたんだよ」
「……それは、また、どうしてです?」
不穏なものを共感してくれたか、古泉は真剣な眼差しをこちらに向けた。
こんな状況でも、そんな風に見つめられると心臓が勝手に弾んでくるのを抑えつつ、俺は努めて平静を保ちながら、
「多分、勘付かれたんだろうな。俺がモデルをやってるってことを」
「それは……」
古泉の反応が動揺と言うにはあまりにも弱いのは、国木田の出方が読み辛いからだろう。
俺にだってよく分からん。
が、
「あいつのことだから、本当に確信を持っていたとしても、俺がとぼける限りそれでいいって態度を取り続ける気もするし、どうであれ、軽々しく言触らしたりはしないと思うが」
「そう……ですか。あなたがそう仰るなら、そうなんでしょうね」
となにやら複雑な表情をする。
なんだそのリアクションは。
「いえ、なんでもありませんよ」
「なんでもなくないだろ。ほら、さっさと白状しろ」
言いながら、俺も今頃ああいう悪どい笑みを浮かべているんだろうなと思った。
しかしそれも、古泉が答えるまでだ。
観念したようにため息を吐いた古泉は、どこか恥かしそうにしながら、
「…あなたと国木田氏の間にある信頼が羨ましいように思っただけです」
と答えた。
予想通り過ぎて、笑みが緩む。
嬉しくて、くすぐったくて、愛しくて、思わず机越しにも関わらず、いささか強引に古泉の体を抱き寄せたところで、
「部室内でいちゃいちゃ禁止にするわよ」
とハルヒの声が飛んできて、同時にデジカメからフラッシュが放たれた。
おい。
「油断するあんたが悪いんでしょ。まあ、これは更新に使う気ないんだけど。ノーメイクだし」
更新、という言葉にため息が出た。
と言っても、SOS団のなんもないページの更新ではない。
……俺――正確に言うなら、モデルとしての俺、K――の、ブログだ。
それが、ハルヒ他SOS団員の提案による、俺のPR方法だった。
今時ブログなんて当たり前だから、まさかハルヒが採用するとは思わなかったのだが、長門が気合を入れて衣装を作ると言い、それに釣られたハルヒが乗ったのだ。
俺は断固として書かないと言い、実際そうしているのだが、Kのプロモーションチーム――ということにされた――SOS団員が代わる代わるに書いているため、記事の更新頻度も高く、授業中でもない限り、大抵誰かが張り付いてくれているからか、コメントへのレスポンスも早いため、カウンタなんかの回転もいいらしい。
ちゃっかり、SOS団のサイトへのリンクも貼ってあったので、そっちの回転もよくなっているのだが、それに対して訪れるファンとやらはどう思ってるんだろうね。
ちなみに、それぞれハンドルネームは俺に合わせるようにアルファベット一文字となっている。
ハルヒがHで長門がY、朝比奈さんはMで、なぜだかちゃっかり参加している鶴屋さんはTを名乗っている。
この調子だと、その内お義姉さんが参戦して来そうなので、チームメンバーとしてSを名乗る人間が現れないかといささか戦々恐々としている俺である。
そして、古泉はIだ。
Kを既に俺が使っているから、と古泉は言い訳したが、本当は、俺に早く名前で呼べとさり気なく催促してるだけなんじゃないだろうか。
そんなもん、最終手段であり切り札なんだから、そうそう使ってやるわけないだろ。
「ふと思ったんですけど…」
ぽつりと古泉が呟いた。
「もしかして、国木田氏はあなたのブログを見たのではないでしょうか」
「は?」
「あれを見れば、モデルのKの活動にSOS団が関わっていることは分かるでしょう? それだけなら、Kが僕の彼女であることと、その関係でSOS団と関わりがあるということで、納得出来るかもしれません。一般生徒はおそらくそうでしょう。しかし、あそこにあなたの書き込みはありません。国木田氏は文系クラスには勿体無いほど聡明な人でしょう? もしかして、そのことに引っかかったのではないでしょうか」
それで、Kが俺じゃないかと思ってるってことか。
「…ないとは言い切れんな」
「どうです? この際、K本人ではなく、SOS団員のひとりとして、記事を書くというのは…」
「御免蒙る。何で俺がそんなことせにゃならんのだ」
「カモフラージュのためですよ。それに、あなただって、それなら書けるんじゃありませんか?」
「はぁ?」
「随分前ですけど、ありましたよね? 女装したくないと言うから、女装しないままデートした時に、僕の彼女の話として、色々話しながら服を選んだり…」
「それがどうした」
余計なことを言い出されそうで、つっけんどんに返したが、それでも古泉はめげないらしい。
「それと同じことなら、出来ると思いませんか?」
「というか、お前は何でそんなに推すんだ。俺が書くと何かいいことがあるとでもいうのか?」
「ありますよ」
こちらが拍子抜けするくらい、あっさりと古泉は言った。
唇には笑み。
「あなたの口から、僕について話してもらえたら、それだけでも嬉しいですからね。……本当なら、K本人として、のろけまくってもらいたいくらいです」
「は?」
「あなただって、分かってるはずでしょう? ……あなたのブログで、僕は結構な憎まれ役なんですよ?」
それは勿論、俺だって知ってはいたが。
「美人の彼女がいたら誰だってあれくらい言われるだろ?」
「最近ヒートアップしてきてるんですよ。それもこれも、あなたが何も言ってくれないからですよ?」
何?
「どんなに叩かれてても、あなたは何も言ってくれないでしょう? だから、本当は付き合ってないんじゃないかとか言われるんです」
「……節穴以下の目しか持ってない奴だな、それは」
一緒に写ってる写真さえ見れば、俺がお前にべた惚れってことくらいすぐに分かるだろうに。
「そうですね」
と古泉は本当に幸せそうに笑う。
くすぐったそうなんてもんじゃなく、照れも何もなく、素直に。
……可愛い、なんて思ったくらいだ。
「よし」
愛しの可愛い古泉のために一肌脱ごうじゃないか。
「…ええと、何を決めたんですか?」
警戒するような声を出すな。
ハルヒ相手じゃあるまいし。
「いっそのこと、もっとあからさまにいちゃついてる写真でも出してやったらどうだ?」
「え」
「たとえば……そうだな、お前の胸に抱かれて寝こけてる俺の間抜け面とか」
「それ、どう考えても間抜け面になりませんよね」
「なるだろ」
「なりませんよ。と言いますか、あなたの寝顔なんて人前でさらしたくありません」
「じゃあどうするんだ? 国木田の疑惑は放置でいいのか?」
俺はそれでもいいが、お前はそうじゃないんだろう?
「……いっそのこと、国木田氏に暴露してはいけないんでしょうか」
「……へ?」
予想外の言葉に、俺はぽかんとした、これこそ間抜け面、というのをさらす破目になった。
しかし、古泉は真剣に言っているらしい。
「国木田氏の口が固いというならば、それでも構わないのではないかと思うんです」
「ちょっと待て、なんでそうなるんだ?」
「何かおかしかったでしょうか」
おかしいだろ。
「お前、さっき妬いたんじゃ…」
「妬きましたよ。…だからこそです」
そう言いながら、古泉は俺の手を両手で包み込むような形で握り締めた。
込められた力の強さに戸惑う俺を見つめて、
「はっきりと、言ってしまいたいんです。あなたは僕とお付き合いしているんですって」
「んなこと、わざわざ国木田に主張するようなことでもないだろうが」
「あなたにしてみればそうでしょうけど、僕としては違うんですよ。女装してない状態のあなたを綺麗だなんて言ってのけるような人を、警戒も牽制もせずにいるなんて、無理です」
馬鹿馬鹿しいことをあまりに堂々と言われて、ぞくりとしたのはあれだ、優越感を濃縮したような感じだ。
「う、わ……」
思わず呟いた俺を、古泉は心配そうにのぞき込んだ。
「…引きました?」
そう、本当に不安そうに言うものだから、
「あほ」
と小さく毒づいて、俺は古泉の手を振り解き、しかし古泉がそれにショックを受けるより早く、古泉を抱き締めた。
「お前、言うことが可愛すぎるだろ」
「え…と、それはこちらのセリフだと思うんですけど……」
「なんでだよ」
などとやっていると、どうやら耐えかねたらしいハルヒが机をぶっ叩いた。
それこそ、部室棟中に響いたんじゃないかと言うほどの大きな音に怯んだ俺たちに向かって、ハルヒが口を開く。
「今すぐ出て行くか、写真を公開されてもいいように即刻女装するか選びなさい」
不機嫌を絵に描いたような顔で言われ、俺たちは慌てて退散したのだった。