コンピ研(元)部長氏が受験勉強に勤しむようになり、俺としても肩の荷が下りたような清々しい気分で、これからはまた思う存分古泉といちゃつけると思っていたのだが、思いがけないことに遭遇していた。 思いがけない…というか、ある意味予想の範疇ではあったのだが、いまひとつ納得しきれないことだ。 ……古泉の、機嫌が悪い。 機嫌が悪いというよりもむしろ、何か悩んでいるように見える。 だからと言って俺が、 「古泉、何かあったのか?」 と聞いてみても、 「いえ、特に何もありませんが」 とはぐらかされるのだが、その反応がどうにも怪しい。 「何もないって顔じゃないだろ。悩みがあるなら俺に言えよ。…恋人なんだから」 と、そう言えたらどんなに楽か。 そう思っても、俺は聞けない。 聞くのが怖い。 聞いて、古泉に拒絶されるのが怖いのだ。 古泉は、機関に属している以上、俺に言えない秘密や悩みだって持っていても不思議ではない。 悩んでいるのがそのことであったなら、俺に告げることは出来ず、ただ黙っているだけになるだろう。 それなのに、俺が聞きだそうとすることで古泉に嫌われるかもしれないと思うと、それが怖いし、実際古泉に悩みを打ち明けることを拒否されたなら、頭で分かっていてもなお苛立ち、酷い言葉をぶつけてしまいそうなのも怖かった。 だから俺は、それ以上古泉には何も聞けず、 「…そうか。だったら、いいんだ」 と自分を誤魔化すように笑って見せた。 うまく笑えたかは分からない。 ただ、そうでもしなければ自分の方がどうにかなってしまいそうだったから笑っただけなので、うまく笑えてなくてもよかった。 …いや、違うな。 何か違うと、おかしいと、古泉に気付いてもらえたらと思いながら、わざとぎこちなく笑ったというような気もする。 でも、古泉は何も言ってくれなかった。 気にしてもくれなかった。 またどことなく難しい顔をして、考え事に戻っていってしまっただけで。 そんなことはないだろうと思いながらも、頭の隅を、後ろ向きな考えが過ぎる。 …俺なんかどうでもよくなるくらいの悩みでもあるのかよ、と。 本当にそうだったら、と思うだけで泣けそうになる。 他の何もかもを放り出して、このまま見っとも無く縋りついて、問い質してやりたくなる。 そうなるくらいには、俺は、古泉のことが、好きで。 泣きそうになる顔を誰にも見せたくなくて、俺はうつむいた。 それでも古泉は、何も言ってくれなかった。 代わりに、というわけでもないのだろうが、長門が俺に声を掛けて来たのは、下校する途中のことだった。 少し前に別れたはずだというのに、わざわざ俺を追いかけてきたらしい長門は、 「ストレスの発散が必要」 そう、真っ直ぐに俺を見つめて言った。 「…長門……?」 「まだ、私しか気づいていない。でも、あなたは今精神的に大きなストレスを感じている。それがあなたに不利益をもたらす前に、なんらかの形で発散させる必要があると思われる」 「…そう、かもな」 でもどうせなら古泉に気付いて欲しかったと思うと共に、長門がそう言ってくれるのが嬉しく、また、気付いてくれない古泉への苛立ちも感じた。 だから、 「…そうだな。ちょっと出かけるか」 女装して、とわざわざ言う必要は無い。 せっかくだからと久しぶりに長門の部屋を借りて着替えることにしたのは、長門の気遣いが嬉しかったからでもあるし、それに対して俺が返せるのがそれくらいしかないからでもある。 「ナンパとかされたくないから、今日は隙のないビシッとした格好にするか」 などと言いながら、長門と一緒に選んだ服は、出来るキャリアウーマン染みたパンツスーツだった。 当然化粧もそれにあわせる必要がある。 ついでに、と俺は長門に甘えさせてもらうことにして、 「長門、化粧、頼めるか?」 返事は頷きひとつだが、長門が嬉しそうにするのがよく分かった。 「お前、本当に楽しいんだな」 俺が言うと、長門は正面の鏡台に写った俺を見つめ返しながら、軽く首を傾げた。 「俺に女装させるの、楽しいんだろ?」 こくりと長門が頷き、 「あなたは、飾り甲斐があるから。それに……私にも、創造的活動が出来ると分かって、嬉しい」 今更何を言い出すんだか。 お前は前から創造的なことをしてただろ。 コンピ研で新しいプログラムを作ってみたりとか、ハルヒに言われてだが詩のような小説を書いたことだってあったじゃないか。 「…少し、違う」 そう言っておいて長門は黙り込んだ。 どう違うのかうまく表現出来なかったのだろう。 「今すぐに表現し辛いなら、また今度聞かせてくれるか?」 俺はいつでもいい。 いつだって、長門がそうやって自分の心情なんかを話してくれるなら聞きたいと思っているから。 「…ありがとう」 小さく呟いた長門の鏡に写ったその唇が、微笑んだように思えたのは見間違いだろうか。 ともあれ、長門のおかげでいつにもまして見事な変身を遂げた俺は、長門の部屋を出て、街中の方に向かって歩きだした。 服装も化粧も、ナンパ避けには丁度よかったようで、黒いパンプスのかかとを鳴らしながら街を颯爽と歩くのは、気分的にもなかなかいいものだった。 それでもまだ収まりきらない苛立ちと泣き出しそうな苦しさを忘れたくて、俺は前々から目をつけながらもなんのかんのあって入れずにいた、新しい喫茶店にひとりで入った。 淡いピンクと白とで飾られた店内は、男一人では入れないような雰囲気であり、俺の今日の服装からするとミスマッチもいいところなのだろうが、一応女装しているからいいだろうと平気で入り、窓際の席に座ってメニューを開く。 可愛らしい丸っこい字で書かれたメニューを辿り、ホットコーヒーと一緒にモンブランパフェというやつを頼んで見た。 名前から簡単に予想出来るように、たっぷりのマロンクリームと生クリームが乗ったパフェである。 女の子ひとりでは食べきるのも難しいんじゃないかと思うようなサイズのそれをひとりでぱくつくのは、ある意味優越感すら感じさせる。 パフェ自体も美味くて、古泉のせいでいくらかささくれ立っていた気持ちもすっきりと収まってくる感じもした。 この調子なら、明日は普通に話したりも出来るだろうか。 出来れば、古泉の方もあの不機嫌さとか悩んでいるような風情を払拭してくれるといいんだが。 そうなってたら、今日の分も甘えて、わがままを言って、困らせてやろう。 ああ、そうしよう。 一体何を言ってやろうか。 何か食べ物をおごらせるんじゃ、今日のこれとあわせてカロリーオーバーもいいところだろうから、自分の体型維持のためにも、やめておいた方がいいだろう。 抱き締めろとかそういう要求をしてやろうか。 ディープキスじゃないキスがいいとか言ったら、古泉は困るのかね。 そんな風に考えるだけで楽しくて、にまにまと笑いながらパフェを半分ばかり平らげたところで、 「やぁやぁそこのキミっ!」 と、非常に聞き覚えのある声が至近距離から聞こえてきた。 ぎぎぎぎぎ、と油を注していない、さび付いた機械みたいな動きで振り向くと、そこには明るい笑みを浮かべた鶴屋さんがいた。 「な、なんですか…?」 怖々と、それでもなんとか声を作ったのは、他の人に聞かれてはまずいと思ったからだ。 鶴屋さんには俺だとばれているだろうと思っていた。 次の瞬間にはきっと、「キョンくん、そんな格好で何やってるんだい?」とかなんとか言われるものだとばかり思っていた。 それなのに、だ。 鶴屋さんは、 「ちょろんとお話させてもらってもいいっかな?」 と言ってきて、 「え? …ええ、いいですけど……」 と俺が答えるなり、 「あんがとね!」 と言ってすとんと俺の向かいに座った。 …もしかして、俺だと気がついていないのだろうか。 いや、まだ分からん。 気付いていて、どう話を切り出そうかと考えておられるのかもしれない。 そう思っている俺に、彼女はいきなりこう言った。 「キミ、モデルやってみないかい!?」 とね。 俺としては一体何の冗談かと驚き、戸惑う他ない。 そんな俺の反応に、 「あ、ごめんごめん。いきなりこんなこと言われても困るよねっ」 と笑った鶴屋さんは、早口に自己紹介を始めた。 名前から始まり、北高に通っていること、ちょっとばかり財産家の家の人間であることなどを簡単に話したかと思うと、 「あたしはまだただの高校生なんだけど、親父様の仕事の関係もあって、顔は広いんだよね。知り合いの中にはちょーっと珍しい仕事をしてる人もいるんだ。そんで、その知り合いのひとりから、キミのことを聞かされてたんだよ。と言っても、その人も名前は知らないみたいだけどさ」 「はぁ…」 「キミ、古泉くんの彼女だよね? この前の文化祭でめがっさ目立ってた子でしょ? 今日の服装はなんとなーく、雰囲気とか違うけどさっ」 「そうですけど……」 「うんっ、だったらやっぱりあってるね」 にんまりと笑った彼女は、 「あたしの知り合いは、ちっちゃいけどモデル事務所なんかをやってる人なんだよ。で、前に古泉くんと一緒に歩いてるキミを見かけて、是非スカウトしたいって思いながらも、うっかり見惚れてそのまんま見送っちゃったって言うんだから笑っちゃうよね。文化祭でたまたま見つけられてよかったってすっごく喜んでたよっ。そんでも、生徒会の方に聞いてもキミの連絡先も何も分かんないって言うだろ? だから、古泉くんの方にお願いしたんだけど、古泉くんからはなぁんにも聞いてないっかな?」 「ええ、何も……」 まさか、これが古泉の不機嫌かつ悩み顔の原因なんだろうか。 部長氏のおかげで機嫌を損ねたりしていたのに加えて、俺にモデル話なんて降って湧いたら、あいつのことだ。 更に機嫌が悪くなるに違いない。 つまり、妬いてたってことなんだろうか。 そう思うと嬉しくて、にやけそうになった。 古泉が深刻な悩みを抱えているわけではないということも嬉しい。 ほっとした俺の警戒が緩んだのを見て取ったのか、鶴屋さんはずいっと身を乗り出してきて言った。 「んで、どうかなっ? モデル、やってくんない? もちろん、出来る限りで報酬は弾ませてもらうよ?」 女装には金が掛かるから、金を稼げるなら嬉しい。 モデルなら、普通のバイトほど拘束時間も長くなさそうだし、それならハルヒの機嫌を損ねることもなさそうだ。 そう思うと、いい話のようにも思える。 だが、古泉が嫌なら、古泉に嫌な思いをさせてしまうことになるなら、したくはないとも思う。 それに、友人なんかに女装がばれても困る。 ……って、俺は何を真剣に考えてるんだ!? 男なんだから女としてモデルなんか出来るかよ! やっと正気に返った俺は慌てて、 「すみません、俺、男なんで、女の子としてモデルなんて出来ないと思います!」 と地声で言った。 「…えええええっ!?」 すっとんきょうな声を上げて驚く鶴屋さんと言うのも、珍しいものに違いない。 目をぱちくりさせながら俺を見つめた鶴屋さんは、 「もしかしてキョンくんかいっ? うわー、全然わかんなかったよ」 今分かったじゃないですか。 「キョンくんが声をいつも通りに戻してくれたからだよ。そうじゃなかったら完全に騙されてたと思うねっ。もともとの声を知らなかったら、地声で話してても女の子だと思っちゃう人はいるんじゃないかな。それっくらい、キョンくんは可愛いよ」 そりゃ、どうもありがとうございます。 お世辞でも嬉しいですよ。 「でも、なんでそんな面白いことになってるんだい? 古泉くんと付き合ってるってのは本当にょろ? よければあたしにも色々教えて欲しいっさ」 そう言われて、俺は洗いざらいぶちまけることになった。 鶴屋さんはもともとSOS団の名誉顧問でもあるし、口が固いことはこれまでのあれこれでよく分かっていたからな。 下手に隠し事をしても見透かされるだろうし、ここまで来たら隠さずに話すべきだとも思った。 ふんふんと楽しげに俺の話を聞いていた鶴屋さんは、俺が話し終えると、 「んでもさ、男でもモデルは出来るとおもうんだよね。だから、男だって伝えてみていいかなっ? あたしも、もっとかっこかわいいキョンくんを見たいっからさ」 「多分、ダメだといわれると思いますけど…鶴屋さんがそうしたいんでしたらどうぞ」 「あんがとねっ。ぜぇったい、説得して見せるから、キョンくんは古泉くんを説得する方法を考えとくにょろよっ」 と言って、鶴屋さんは嵐のごとく去って行き、残された俺は苦笑を浮かべたまま残りのパフェを片付けることになったのだった。 それで話は終りだと思っていたのだが、そうはならなかった。 鶴屋さんがハルヒに負けず劣らずの物凄いバイタリティの持ち主であるという普段からの評価はどうやら少しも間違っていなかったらしい。 この場合、残念ながら、とつけるべきなのかどうなのか、非常に悩ましいところではあるのだが。 翌日の放課後、部室にいきなり飛び込んできた鶴屋さんは何の前置きも挨拶もなしに、 「OKだったよっ!」 と俺に向かって満面の笑みで叫んだ。 それはもはや勝利の雄叫びとか、歓声とか言ったら丁度いいような声だった。 驚いてお茶を吹き出した俺に、その雫を軽く浴びただろう古泉がにこやかな、しかし、そうであるがゆえに恐ろしい表情で、 「何の話でしょうか?」 と聞いてくる。 思わずダッシュで逃げたくなるほどの迫力である。 ところが鶴屋さんはそれにすら怯みもせず、 「昨日キョンくんと街で会って、この前古泉くんに頼んだ話を直接させてもらったんさっ!」 と言って昨日のことから話し始めた。 俺が女装してひとりで出かけたということを聞くだけで、古泉の眉が怒りらしきものに引き攣り、俺はびくつく他ない。 男でもいいからモデルを頼みたいとモデル事務所の社長とやらに言われたという話に至った時には、その額に青筋が浮かんで見えないのが不思議なほどだった。 それでも一応形の上では笑顔を保っているんだから、本当にこいつは恐ろしい。 ハルヒもそう感じているんじゃないだろうか。 そうでなければ、とっくの昔に話に割り込み、古泉や俺がなんと言おうが大賛成を叫び、団長命令とやらで俺にモデルをするよう命じていたって不思議じゃないだろうに、団長席でじっとしてたんだからな。 「それで、」 話を聞き終えた古泉は、地を這うような声を俺に向けた。 「あなたはやってみたいわけですか?」 「え、あ、それ……は…」 したいような、したくないような、曖昧な気持ちのまま、特に意思を決めることもなければ、古泉を説得する方法なんて何一つ考えていなかった俺は、目が笑っていない笑顔と共に矛先を向けられて戸惑うしかない。 びくびくしながら古泉を上目遣いに見上げ、 「…したい、とは、思う……けど、でも、……お前が嫌なら、断る、ぞ?」 と言うのがやっとである。 ――が、俺が思っていた以上に、古泉は俺に甘く、単純な男であるらしい。 何かに狼狽し、あるいは興奮を覚えたかのような様子で、かぁっと頬を赤く染めたかと思うと、片手で口元を押さえ、 「…っ、もう、あなたという人は…」 そうどこか呆れたように呟いて、 「…そんな風に言ったら僕が許すって分かっていてやってるんでしょう?」 と拗ねたように聞いてきたが、 「許してくれるのか?」 「仕方ないでしょう。それに、鶴屋さんのご紹介です。騙されたり、酷い目に遭わされるということも、心配しなくていいでしょうからね。そうなると、僕が反対出来る理由なんて、いくらも残りませんよ」 「そうか?」 「ええ。…それとも、僕があなたを独り占めしたいからやめてくださいとでも言ったら、あなたは断ってくれますか?」 「……ああ」 俺がはっきり答えると、古泉は驚いたように目を見開いたが、何で驚く必要があるんだ? 「お前が嫌なら断るって言っただろ?」 「……本当にもう…」 照れ臭そうに苦笑した古泉が、 「…あなたには、絶対に勝てませんね」 とくすぐったそうに笑みを緩めた。 「いいですよ。モデルでも何でも、好きになさってください。でも、出来れば仕事の際には僕を付き添わせてくださいね。あなたひとりで、なんて、心配すぎます」 「ん。俺もお前がいてくれた方が心強いからな」 そういうわけなので、と俺は鶴屋さんに向き直り、 「そういう条件でよければ、お受けします」 と答えた。 鶴屋さんはにっこにっこと明るい笑顔で、 「そんじゃあ次はご両親の許可だね!」 と言うなり俺の手を引っ掴み、俺を部室から拉致したのだった。 |