姫君の確信

文化祭から一週間が過ぎた日曜日。
俺は今日、コンピ研の部長氏とデートする約束になっていた。
何故日曜日かといえば、前日の土曜日を古泉と二人で過ごすことを確約してやったためである。
それなりに納得していてくれていたはずだったのだが、古泉はやはり嫉妬深く、念入りにキスマークをつけまくってくれた。
それすら嬉しく感じちまうんだからどうかしてる、と自嘲しながら、俺は大量のそれを負けじと消しまくって古泉の部屋を出た。
「んじゃ、行ってくるからな」
「終ったら、すぐに連絡してください。お迎えに上がりますよ」
「おう、よろしく」
短いやりとりの間も古泉は微笑を湛えていたが、残念ながらと言うべきか、目が全く笑っていなかった。
……恐ろしいことこの上ない。
万が一にもこれで振られたりしたなら俺は死ぬほど悔やむ破目になるのだろうが、困ったことに、古泉があまりにも分かりやすく嫉妬なんぞしてくれるおかげで、俺としてはいたって気が楽なのであった。
すまんなぁ、古泉よ。
しかし、どうせ恨むなら俺なんぞに惚れちまった自分を恨んでくれ。
お前が惚れたりしなければ、俺にこんな趣味が出来ることもなかったんだし。
にやけたまま、俺は待ち合わせ場所に向かう。
日曜日なだけあって、駅前には他のカップルや待ち合わせ中らしい連中も多い。
ついでにナンパなんかしてきそうな奴らもいるのが鬱陶しいな。
俺は変なのに目をつけられないよう気をつけながら、部長氏の姿を探す。
比較的地味な格好でそわそわしていた部長氏は、割と探しやすかった。
「部長さん」
「やあ」
「早いですね。まだ５分以上前でしょう？」
俺が言うと、部長氏は照れ臭そうに笑って、
「デートなんて初めてだからね。どれくらい前に来たらいいのか分からなくて…」
「あれ？　じゃあ、随分前に来てたんですか？」
「う……ん」
困ったように言う部長氏に俺はにやにや笑いながら、
「どれくらい前ですか？」
と遠慮の欠片もなく聞いて見た。
「えぇ？」
「教えてくださいよ。気になります」
「……分」
「聞こえません」
「…三十分前だよ」
「三十分？」
そりゃまた早い。
しかも……なんつうか、これは全く根拠のないことなので違っている可能性も非常に高いのだが、部長氏は本当はもっと早くに来ていたというような気がする。
なんというか……可愛い人だ。
微笑ましいと言ってもいい。
「そ、そんなことより、」
赤い顔をして話題をそらした部長氏は、
「今日も、綺麗だね」
とはにかむように言った。
初心な反応が可愛い、可愛いぞ部長氏！
いっそ女装の道に誘い込んでしまいたい可愛らしさだ。
なんてことを考えつつも、
「ありがとうございます」
と返事をする。
ちなみに今日の服装は、秋らしく、ベージュのハイネックシャツにブラウンのワンピース、レギンスは黒と地味な装いにしてある。
羽織ったニットポンチョもベージュで、これこそ大人しい服装というものだろう。
「大人っぽく見えるね。僕じゃやっぱり釣り合わないな」
と苦笑する部長氏に、
「そんなことありませんよ。部長氏もかわ、」
じゃなかった。
「かっこいいですよ」
実際、地味な服装ながらそこそこいいセンスで服を着こなしていると思う。
正直予想以上だ。
「普段は服装なんて気にしないんだけどね。せっかくだから」
はにかむ部長氏はやはり可愛い。
「今日はよろしくお願いしますね」
俺が言うと、その顔が更に赤味を増す。
「こ、こちらこそ…よろしく」
差し出された手を取って、俺たちは映画館へと向かった。
見るのは、今話題のＳＦ映画だ。
わざわざ前売り券を買ってくれていた部長氏に連れられて、俺は久々に映画館で映画を見た。
その時、前に映画館に足を運んだ時のことなんかを思い出してしまい赤面しかかったが、すでに館内が暗くなっていたため部長氏には気付かれなかったようだ。
そうして大人しく映画を見た後は、お昼だからとフードコートへ向かう。
デートは初めてと言う割に、部長氏はしっかりエスコートしてくれて、かなりシュミレートしたんじゃないかと思うと微笑ましかった。
それぞれカレーとラーメンなんぞ食べつつ、しばらく映画の話で盛り上がった。
「やっぱり、あのアクションがかっこよかったですよね。凄いドキドキしました。戦艦なんかもかっこよかったな」
俺が興奮気味になりながら言うと、部長氏も頷いて、
「やっぱり男の子だね」
と自然に言われた。
嫌がる様子もなく、幻滅した様子もない。
むしろ、楽しんでいるような言い方に、少しばかり照れた。
それに反発するわけじゃないのだが、
「でも、実は、他の、ファンタジー物もやってるでしょう？　あれも、気になってたんです。衣装とか、凄く素敵だから」
と言ってみると、部長氏は、
「ＳＦは確かに、衣装は素っ気無いかな」
「ああいう合理性一筋のデザインも、嫌いじゃないんですけどね。着てみたいかどうかってことなら、ぴっちりしたやつより、体のラインを誤魔化せるデザインの方がいいですから…」
「なるほどね。でも、君なら平気そうだけど」
「無理ですよ。そりゃ、水着だって着せられたりしましたけど……」
「そうなんだ？」
「夏休みはずっとハルヒのオモチャにされてたようなものでしたからね」
苦笑混じりに言えば、
「そうだったんだ。…羨ましいな。僕はこの夏はずっと勉強ばかりさせられていたから」
「あ…そう、ですよね」
身近にいる三年生が朝比奈さんだから気がついていなかったが、普通はそんなものなんだろう。
「やっぱり、試験って難しそうですか？　勉強って大変です？」
「うーん……人それぞれだと思うけどな。勉強が得意かどうかとか、どこに行きたいかとか」
「そうですよね…」
俺もそろそろ真剣に考えなきゃならんのだろうな。
「その時が来ればちゃんとできると思うよ。君ならね」
「買い被りすぎですよ」
笑って手を振る俺に、部長氏はにこにこと、
「そうかな。…志望校はまだ決めてないの？」
「まだ全然です」
「そうか。必要になったらいつでも言ってよ。色々資料なんかも集めたんだ。君さえよければ使ってもらいたい」
「いいんですか？」
「うん」
「ありがとうございます」
俺が言うと部長氏は何故か顔を赤くしながら目を細め、
「君がそうやって言ってくれるなら、なんだってしてしまいそうだね。君の…彼氏もそうなんじゃないかな」
「どうでしょうね」
確かに、古泉は俺に甘いところがある。
でもそれが、俺のためとか俺のせいかというと少々疑問も残る。
あいつはハルヒとか他の女子にも甘いところがあるフェミニストだからな。
「…羨ましいな」
「はい？　なにがですか？」
戸惑いながら聞けば、部長氏はにっこりと微笑み、
「君たちが羨ましいなって」
「それは…ええと、ありがとうございます？」
俺のトンチンカンと言っていいような返答に、部長氏は柔らかく笑ってみせた。
「この後は買い物でもどうかな？」
「いいですね」
「いつも行くところとか決まってるのかな」
「決まってる…といえば決まってますけど……」
服は割と行きつけのセレクトショップで買うし、古泉とよく行く喫茶店もある。
だが、
「せっかくだから、部長さんの行きたいところでいいですよ？」
「けど…」
「途中で行きたいところがあったら遠慮なく言いますから。…ね？」
俺が小首を傾げながら言うと、部長氏は何故か顔を赤らめ、目をそらしながら、
「あ、ああ、うん、分かったよ…」
と言った。
…なんだその反応。
首を傾げながらも食事を終え、俺は部長氏と一緒にフードコートを出た。
流石に古泉とするように腕を組んだりはせず、手を繋ぐだけだが、いつもと違う相手と歩いていると思うと変な気分だった。
ただ少し、違和感がある。
何かが違うような気がする。
それはなんだ？
首を捻りながら、俺は、途中で入ったいつものセレクトショップで、ラックに並んだ冬物のジャケットを二つ三つ見比べていたのだが、
「ねえねえ、」
と店員のお姉さんに声をかけられた。
この人はこのセレクトショップでいつもお世話になっている人であり、すっかり友達のようなものなので、これくらい親しく話しもするし、俺もそれを楽しんでいる状態である。
なので、
「どうしたんですか？　そんな内緒話みたいに」
と俺も笑顔で返した。
「だってちょっと気になってるけど、仕事として聞いちゃだめでしょ？」
わくわくした様子で聞いてくる彼女は俺の耳に口を寄せ、
「あの子、誰？　いつもの子と一緒じゃないなんて珍しいじゃない」
「あー……やっぱりそれですか」
困ったな、と苦笑する俺に、お姉さんは大人らしく笑って、
「もしかして浮気とか？　あ、ううん、責めたいんじゃないのよ？　女の子は男と付き合って磨かれるんだからね！」
そういうもんですか。
「そうよ。ああでも、いつも一緒の子が凄くいい男だもんね。ほかの男なんてあなたには要らないか。じゃあ、今日一緒の子は親戚とか？」
「いえ、そうじゃないんですけど…」
「違うの？　じゃあ浮気相手？」
「浮気って言うか……一回だけデートして欲しいって頼まれちゃって…」
「わぁ、流石ね！」
流石ってどういうことですか。
「見た目が綺麗で性格も可愛いんだからしょうがないわよ、うん。そんなあなたを彼女にしたんだから、彼氏にはちょっとくらい我慢してもらわなきゃね」
実際俺がここで買い物をする時に金を出すのは古泉だと分かっているのにこんなことを言うんだから、彼女もなかなかいい性格をしている。
「今度、どうだったか聞かせてね？」
と悪戯っぽく囁いて、彼女は仕事に戻っていった。
俺は苦笑を消せないままジャケットに視線を戻しかけ、しばらく部長氏を放り出していたことを思い出した。
女物ばかりの店内で放置されてさぞかし居心地が悪かったことだろうと思いながら、アクセサリーを眺めている部長氏に、
「すみません。退屈だったでしょう？」
と言うと、部長氏はお人好しな笑みを見せ、
「いや、いいんだよ。それにしても……」
その笑みに苦いものを滲ませた部長氏は、声を潜ませて、
「…高いものなんだね、服って」
「ああ、女物はどうしても高くつきますね。ここは特に、いい物ばかりですから」
「そうなんだね。でも、君にはよく似合ってるなぁ」
…素で褒めてるのがある意味凄いな。
部長氏が本気になれば、彼女くらいすぐに出来るに違いない。
それから、ホビーショップやＰＣショップに足を運び、あれこれ見た。
――正直に言おう。
俺は途中から、自分が女装していることを忘れていた。
勿論、部長氏と一緒に買い物をするのは楽しかった。
俺はよく知らないパソコンのことなんかを説明してもらい、大いに役に立った。
部長氏も楽しそうにしていたしな。
だが、それでもだ。
古泉とはこういう風に買い物したりしないということに気がつくと共に、俺はもうひとつ、気がついてしまった。
自分が男の気分で買い物を楽しんでいることに。
古泉といる時にはこういうところに入らないからかもしれない。
それはあいつが気を遣ってくれているというよりもむしろ、俺が行きたがらないからだろう。
それは、古泉が一緒だと、作り物ながら「女」としての自分を意識するから、男としてのスイッチが入らないからだろうということにも気がついた。
たとえ、古泉と一緒にこんなところに来たって、俺はこんな風に楽しめはしないだろう。
むしろもっとデートらしいところに連れて行けと文句を言うに違いない。
参ったなと思いながら、俺の口元は緩むばかりだ。
古泉のせいで女装をしているというのはやっぱり間違いないと分かって嬉しい。
古泉がいるからこそ、女装が楽しいと分かって幸せだ。
やっぱり、俺には古泉しかいない。
部長氏には本当に悪いが、今日のこの経験は俺にとって有用なものだったようだ。
だから俺は、最後に入った喫茶店であんなことをしたんだろう。
お礼と、お詫びを兼ねて。
二人掛けのテーブルに向かい合わせについた部長氏はコーヒーをすすって、
「今日は本当に楽しかったよ。ありがとう」
と言った。
俺は古泉のことを考えてにやけていた自分を戒めつつ笑みなどを作り、
「俺の方こそ、楽しかったです。でも、本当によかったんですか？　映画も食事もおごりなんて。せめて、ここだけでも…」
「いいんだ。一日付き合せてしまったわけだしね」
強がりも何もない顔で言った部長氏は、やっぱりいい男になれる素質があると思う。
「受験勉強、頑張ってくださいね」
「うん、そうだね。頑張るよ」
笑顔で頷いた部長氏もどうやら満足しているらしい。
よかった、とほっとしながら、それからまたしばらく話した。
コーヒーカップがすっかり空になる頃になって、部長氏は伝票に手を伸ばし、
「彼氏が迎えにくるんだよね？」
「そうです」
思わず緩みきった顔にでもなっていたんだろう。
部長氏は一瞬はっとしたような顔をした後、かすかな苦味の混ざった笑みを見せ、
「…幸せなんだね」
面と向かって言われると照れるが、
「はい」
と答える。
「僕もいつか、出会えるかな。そんな幸せに」
「出会うだけじゃなく、手に入れないとダメですよ？」
俺が言うと部長氏は笑って頷いた。
「そうだね」
「大丈夫ですよ。部長さんなら、きっといい人に巡り会えます。俺が保証しますよ」
「そうかな？」
「ええ」
「ありがとう」
立ち上がった部長氏を、
「待ってください」
と俺から呼び止めた。
「え？」
驚く部長氏の、伝票を持っていない方の手を取る。
そうして、軽く目を閉じて、その手の平に唇を触れさせると、部長氏が真っ赤になるのが見えた。
その手を放し、にっこり笑った俺は、
「勉強、頑張ってくださいね。戦勝報告、楽しみにしてますから」
「え、あ、あの…いい、一体…なに…！？」
パニック状態に陥っているらしい部長氏に俺はくすくすと意地の悪い笑いを見せつつ、
「だって、部長さんがキスして欲しそうに見えたんで。…それに、御守りみたいなものですよ」
「御守り…か」
恥かしそうに笑った部長氏は、かすかに口紅の移った手の平を見つめて、
「…当分洗えないね」
と可愛いことを呟いた。
今度こそ部長氏を見送った俺は、部長氏の姿が見えなくなるのを待って、いそいそと携帯を取り出した。
古泉に迎えをせがむメールをしてやろうとしたところで、
「…随分と楽しそうでしたね」
と拗ねきった声が降って来て驚いた。
顔を上げれば、天井からの照明しかないせいか、やけに暗い顔をした古泉が俺を睨みつけていた。
「…早かったな」
笑いながら俺は携帯を仕舞う。
古泉はため息をつきながらさっきまで部長氏が座っていた席に座ると、お冷を持ってきたウェイトレスさんに、まるで八つ当たりじゃないかと思うほど手短に断りを入れた。
どれだけ怒ってんだお前。
「楽しそうでしたねぇ……」
俺を睨みながらそう繰り返した古泉に、俺は苦笑を返しつつ、
「確かに、お前といるのとは違うなと思ったな」
「どういう意味です？」
気色ばむ様子を見せた古泉が、いくらか青褪めた顔で、
「まさか…」
と余計な想像をしかかるのを、
「違う違う」
と慌てて止める。
下手に誤解されたら解くのが大変そうだ。
「部長氏といても、俺は女の子にはなれないと思ったってことだ」
「……意味が分かりません」
俺が煙に巻こうとしているとでも思ったのだろうか。
古泉はそう言って眉を寄せた。
つまり、はっきり言ってやらなきゃならんということなんだろう。
俺は自分の顔が赤くなってくるのを感じながらも、古泉から目をそらさないようにして言った。
「…前にも言っただろ。お前といて楽しいから、お前が俺の女装を褒めてくれるから、俺は女装なんかにはまっちまったんだってことは。それは、他のやつじゃダメなんだよ。お前じゃなきゃ。……部長氏といたって、俺は女の子になんかなれねぇんだ。お前といたら、……自分でも、どうしようもないくらい、…それこそ下手すりゃハルヒや長門以上に、女の子になっちまうのに…な。いや、朝比奈さんとだって張り合えるかもしれない。…そう…なっちまうのは、……お前といるからなんだって、よく、分かった」
羞恥を堪えてそう言い切ると、やっと理解してくれたらしい古泉の顔に喜色が滲む。
「本当ですか？」
「ああ」
「…なら、嬉しいです。今回のことも、許して上げられますね」
そう言って微笑む古泉に、やっぱりこいつの笑顔はいいと思った。
見るだけで幸せな気持ちになれる。
そんな古泉が愛しくてならない。
そのくせ欲張りな俺は思うのだ。
もっと愛して欲しい、甘やかして欲しい、ちやほやして欲しい、なんてな。
だから俺はテーブルに肘をつき、口元で指を組む。
そうして上目遣いに古泉をうかがって、甘えた声でワガママな台詞を囁く。
「…なぁ、せっかく女装したってのに、物足りないんだ」
「部長氏では役者不足でしたか？」
「ん。…というか、お前じゃなきゃダメだって言っただろ。部長氏でも他の誰かでも、ダメだ。お前じゃないと意味がない」
「嬉しいことを言ってくださいますね。それで、僕の愛しいお姫様は何をご所望で？」
俺が何かねだろうとしていることくらい、お見通しだったらしい古泉は、しかしむしろ喜ばしげにそう聞いてくる。
本当にこいつは俺に甘い。
俺は小さく微笑んで、
「女の子の気分を、ちゃんと味わわせてくれるか？　勿論、中途半端なデートコースなんかじゃなくて、最後まできっちりと楽しませてくれないと、嫌だぞ」
「勿論、喜んで」
そう言って古泉は俺の手を取ると、恭しくも芝居がかった仕草でその手の甲にそっと口付けた。
ああ、これもまた女装の快感ってやつだな。
古泉がこんなことをしてくれる。
それもこんな公共の場所で。
他の女性客の嫉視がむしろ気持ちいい。
俺はついつい卑しい笑みを浮かべてしまいながら、そっと囁き返す。
「愛してる。…お前だけだからな？」
「ええ、僕も、あなただけを愛してますよ」
そのままキスをしようとして、俺はふと思い出して唇をナプキンで拭った。
「どうしました？」
首を傾げている古泉に、俺は眉を寄せ、
「お前と部長氏の間接キスの仲介なんてしてやりたくもない」
と毒づくと、今度こそ古泉が声を立てて笑った。