姫君の説得



俺の目の前に座った古泉は非常に機嫌が悪かった。
それは、当然といえば当然のことだ。
観衆の目の前で頬に手形を残された上に犯人である俺には逃亡され、しかしながら喜緑さんに引き止められたせいで俺を追うことも出来なかったらしい。
加えて、いつまで経っても戻ってこない俺を探しに行ってみれば、偶然ながらもその間に俺は部長氏に匿われるような形で帰ってきたりしていたし、おまけに俺はしばらくの間、何があったかを少しも白状しなかったのだ。
古泉の部屋に帰ってから、やっと口を開いたかと思えば、部長氏に告られました、可哀想なのでデートしてあげることになりました、なんて内容では、どんな温厚な人間でも機嫌が悪くならないはずなどない。
でもって、古泉はキレやすいわけでもないが決して温厚でもない。
俺に関してはかなり沸点が低くなるということも過去のあれやそれやで証明済みである。
もっともそれが、俺自身に対してもそうなのかはよく分からないのだが。
「…それで、デートする約束までしてあげたんですか」
いつもよりいくらか低めの、つまりありていに言えばドスのきいた声で言った古泉に、俺はズボンの上でもぞもぞと指など組み変えつつ、
「仕方ないだろ。勉強にもなかなか集中出来ない、高校生活の最後の思い出だと思って、なんて懇願されたらさ……」
「一度デートしたら勉強に集中出来るとでも?」
「そんなもん、俺だって知らん」
だが、あのまま断るのも悪い気がした。
本当に必死だったんだ。
もう二度とこんなチャンスはないと思っていて、だから逃がしたくないと思っているような表情に言葉だった。
あんな風に必死に言われて、にべもなく振り解けるほど、俺は冷たく出来てないんだ。
「そんなことを言って…実はただのあてつけなんじゃないですか?」
皮肉っぽい口調で言われ、流石に少しばかりカチンと来つつ、
「かもな」
と返せば、不器用な古泉の顔がくしゃりと滲んだ。
「……怒ってますか」
「何に」
「…コンテストの会場で、何の予告もなしに、あなたにキスをしたことを、です」
「……多少な」
俺は自分まで泣きそうな顔になってくるのを感じつつ、小さくため息を吐いた。
小さなそれに、古泉が過剰なまでにびくつくのが、いっそ滑稽だった。
「…怒ってる、とか、怒ったというより、……驚かされた。凄く、ショックでもあった」
「え……」
弾かれたように古泉が俺を見る。
その視線を感じるだけで、泣きそうだった。
いや、化粧を落としたんだから泣いたっていいような気もするんだが、そうなると今度は男としてのプライドが邪魔をするらしい。
熱を持ってくる涙腺を宥めすかしながら、
「…お前はやっぱり、……俺なんかよりハルヒの方が大事なの…か……?」
と聞いたら、声が見っとも無く震えてた。
だが、古泉は本気で驚いたように、
「なんでそうなるんですか!?」
と大きな声を上げたので、そのせいで声の震えを気にする余裕も失った。
涙腺を抑えるだけの理性も同時に吹き飛び、ぼろぼろ涙が零れだす。
古泉は慌てて、
「あ、す、すみません…。泣かせたかったわけでは…ないのですが……」
おろおろする古泉に俺は首を振る。
「いい、から……説明、しろよ…」
古泉は迷うように視線をさ迷わせつつも、俺の意思を尊重してくれるつもりになったらしい。
どこか悔しげに眉を寄せつつ、
「涼宮さんを優先させたとか、そういうつもりは全くありません。……どうして、そう思われたんです?」
「だ、って……そう、だろ…? 俺がああいう風に、見世物みたいに、されるの、嫌がるって……分かんない、お前じゃないはずだってのに、したんだから……。ハルヒの、機嫌取りの方が、大事だったんじゃないのか…?」
「違いますよ!」
そう言って古泉はそのまま叫びそうになるのをぐっと堪えるように、声を抑えた。
「…違います。勿論、あなたがあんな風にされることを嫌がることを予想もしていなかったなんてことは言いません。でも僕は、涼宮さんの機嫌を取りたかったわけじゃないんです。ただひたすらに……その、怖かったんです」
怖かったって何が?
「部長氏のように、あなたに魅せられる人がこれ以上増えたらどうしようかと、そう、思ったんです。外見に惹きつけられる不埒なやからならあなたが見向きもしないことは分かりますし、それなら僕だって対処のしようがありますから、まだいいんです。でも、沢山の人があなたに好意を抱いたなら、中にはあなたを本気で好きになる人も出てくるかもしれない。その誰かが、あらゆる点において僕よりも上だとしたら、もしかしたらあなたがその誰かを好きになってしまうかもしれない。そうでなくても、僕でない、別の誰かがあなたに真剣に告白したら、そう思うだけで、怖くてならなかった、いえ、今も怖いんです…」
そう言って古泉は余計につらそうな表情を見せ、
「奇しくも、ある面では現実になってしまいましたね」
「…けど、俺なんか……」
「まだそんなことを言うおつもりですか?」
古泉は咎めるような調子で言った。
「今日のことで分かったでしょう? あなたは僕以外にとっても魅力的な人なんです。あなたが少し話すだけで、ちょっとした表情を見せるだけで、どうしてあんなにも会場がどよめいたと思っているんです? それだけ、あなたに魅力があるからなんですよ」
「そう……なのか…?」
「…分かってなかったんですか」
驚きを通り越して呆れている古泉に、
「し、仕方ないだろ。そんなこと、思ってもみなかったんだから…」
「では、この機会にちゃんと理解してください。そうして、慎んでください。僕が余計な嫉妬なんてしなくてすむように」
「…そんな必要ないだろ」
と返した俺に、古泉がまだ言い募ろうとした。
それを遮り、
「お前以上の相手なんて、いるはずがない。たとえ、何らかの面でお前に優る面があったとしても、おまえ以上に好きになったりするかよ」
言いながら、手を伸ばし、古泉のシャツを握り締める。
「…お前がお前だから俺は好きになっちまったんだし、それに……その、お前のことを好きになりすぎて、困るくらいなんだからな、俺は」
囁くように言えば、古泉が恥かしそうに笑った。
「買い被りすぎてませんか」
その言葉はそのまま返品したい、と言いたいのを堪えて、
「それにお前なら、たとえ俺がよろめきかけたって、つなぎとめてくれるだろ?」
からかうような言葉を口にすれば、古泉は真面目ぶって、
「それはもう、全力で阻止しますよ」
「なら、大丈夫だ」
そう言って古泉を抱きしめ、甘えるようにキスをすると、
「…ずるいですよ」
と拗ねたように言われた。
「そうか?」
「ええ。…誤魔化そうとしているんでしょう?」
それもないとは言わんが、それ以上に俺がキスしたかったんだ。
「本当に、ハルヒを優先させたってんじゃないんだな」
「ええ。…あなたがそんな風に思う可能性すら、気がついていませんでした」
「なら、許してやる」
そう言ってもう一度口付ける。
今度はもう少し長く。
ただし、くすぐるように触れてきた舌はかわし、一度唇を離す。
そうしておいて、
「…愛してる」
と告げる。
古泉はくすぐったそうに笑いながら、
「僕もですよ」
と今度こそ俺を逃さないように、俺の顎に手を添えて、優しくそっとキスをした。
「ぁ……っん、」
口の端から零れた声を追うように、古泉が唇を離す。
そうして、意地悪に笑って、
「デートでは、どこまで許してあげるつもりなんです?」
「どこまで…って……」
「何も考えてないんですか? 部長氏はあなたが男性だということも分かっているんでしょう? それでなお、デートをしたいと言い出したんです。これまでのように楽天的に構えていてはいけないと思いますが」
「つっても……部長氏だぞ?」
「それに何の関係があるんです?」
どうやら古泉はマジで言ってるらしい。
俺は小さく嘆息し、
「というかだな、俺がお前以外のやつにキスなんか許すと思うのか? いいとこ、手を繋ぐくらいだろ」
「手を繋がせてあげるんですか!?」
…待て、それもなしなのか?
「……出来れば、やめてください」
「お前な…」
呆れた俺に、古泉は唇を尖らせて、
「…だって、嫌なんですよ。あなたに僕以外の男が触れるのが」
「つっても…体育で柔軟する時なんかは他のやつとやるし」
「それはやむを得ずでしょう。……本当は、それだって嫌なくらいなんです」
「…お前……」
「呆れるならいくらでもどうぞ」
拗ねるように言った古泉に、軽くキスをして、俺は笑う。
「可愛すぎる」
「っ、か、可愛いのはあなたでしょう」
「いや、お前の方が可愛いって」
くすくす笑えば、仕返しのようにそのまま押し倒された。

夜中になって、のそのそと起き上がった俺に、古泉が聞く。
「明日は、どうします?」
明日っつうかもう今日だろ。
せっかくの文化祭二日目だ。
お前と過ごしたいところではあるんだが……。
「注目されてしまうのがお嫌ですか」
その通り、と頷けば古泉は情けなく眉を下げ、
「僕がお願いしても、だめですか」
「お願いって……」
「…部長氏の頼みは聞けるのに?」
こいつ、完全に根に持ってやがる。
俺は小さくため息を吐いた。
本当に小さかったそれだってのに、古泉は怯えるように俺の顔色を伺う。
こいつって、こんなに情けなかったか?
いや、俺のせいなんだからそんな風に言ったら可哀想なんだろうけどな。
「来年があるだろ、なんて言っても…不満なんだろうな」
「当然ですよ。今年の文化祭はこれっきりですし、大体、コンテストであれだけ見せ付けたのに、あなたと一緒にいないなんてことになったら、あれで振られたとか言われそうじゃないですか。そんなことになったら、」
「お前の計略も水の泡だろうな」
「その通りです」
悪びれもせずそう言った古泉は、
「そうでなくても、せっかく涼宮さんが自由行動を許可してくださったんです。恋人らしく、文化祭を過ごしたいと思うのは僕だけですか?」
「そりゃ…俺だって、お前と過ごしたいが……」
ぼそぼそと答えれば、古泉が嬉しそうに笑った。
「なら、いいじゃありませんか」
「昨日の今日だぞ? どんな目で見られると思ってるんだ」
「羨望の眼差しは頂戴するでしょうね」
「ばか」
「本当ですよ? 僕のことでしたらご心配なく。闇討ちされたって返り討ちにしますから」
どういう心配だ、そりゃ。
「ねえ、お願いです。一緒に過ごさせてください」
「……女装して、か?」
「その方がライバルが増えなくて助かりますが、あなたがどうしてもと仰るなら、いつも通りの格好で結構です」
「……分かった」
俺はため息と共に吐き出した。
「本当ですか?」
「ん。…俺も、これでもしお前が振られてフリーになったなんて噂になったら嫌だからな。ライバルは増やしたくないし」
「そんなこと、」
「大いにあるだろうが」
ないなんて抜かしたら舌を引っこ抜くぞ。
「すみません。では、どうしましょうか」
「一応出席も取るからな。普通に登校した後、適当に誤魔化して部室に行って着替えるとするさ。待ち合わせは……」
「部室の前で着替え終わるまで待ちますよ。あなたをひとりで歩かせるなんて、そんな危険なことは出来ません」
「……そうかい」
やっぱり古泉の目にはフィルターが掛かってる気がする。
苦笑した俺をしばらくじっと見つめていた古泉だったのだが、何か思い出したかのように、
「…どうしても、部長氏とデートしてあげるんですか」
まだ言うか、と流石に俺も呆れつつ、
「約束したからな。それに……」
諦めてもらうのならそれが一番いい気がする。
一緒にいれば、どうしたって、俺が古泉にべた惚れってことは嫌でも伝わっちまうんだろうからな。
……とは、流石に恥かしくて言えず、
「とにかく、それが一番なんだよ」
と言えば、古泉は不服そうに眉を寄せた。
「それとも、俺が部長氏に惚れるとでも思ってんのか?」
と聞いてやれば、流石に古泉だってそんなことはないと言うだろうと思ったのだが、俺の認識はどうやら随分と甘かったらしい。
古泉と来たら深刻そうな顔になって、
「…ないとは、言い切れません」
なんて、言いやがったからな。
お前、どんだけ自信がないんだよ。
「自信なんて、ありませんよ。あなたとお付き合いさせていただけていることだって、幸運だったからとしか思えないんですから」
「……そうかい」
俺は深くため息を吐いて、胸の内で呟いた。

他の誰かに惚れようにも、身も心も古泉のものになっちまってて俺のものじゃなくなってるんだ。
心配するだけ無駄だろうに。