姫君の同情



会場から逃げ出した俺は、そのまま部室棟の裏まで走った。
随分な人数が会場に集まっていたからだろう。
俺は特に見咎められたりすることもなく、人気のない場所にまで逃げ込むことが出来た。
そうして、誰にも見つからないような茂みに身を隠し、ぺたりと地面に座った。
汚したりしたら後でハルヒに叱られ長門に無言で責められ朝比奈さんには嘆かれるかと思いはしたが、どうしようもない。
体からくたりと力が抜けた。
「び…っくり、した……」
それが一番の感想だ。
まさかあんなことをされるなんてことはつめの先ほども思っていなかったのだ、俺は。
だから、とにかく驚いた。
自分が古泉を引っ叩いて逃げたということにも少なからず驚いている。
しかも平手だ。
俺は男なんだから普通ならあそこはぐっと固めた拳でぶん殴るところだろう。
それが、平手。
切れたようなもんだってのに女装を忘れていなかったのか、女らしさなんてものが染み付きつつあるのかはよく分からんが、それもまたショックではある。
どこまで足を踏み入れていくんだろうかと、今更ながら思った。
それにしても、俺はこの後どうすりゃいいんだ。
どうせなら勢いに任せて部室に帰ればよかった。
そうすりゃ、着替えだって出来ただろうに。
この後騒ぎになりでもしたら、こんな目立つ格好をした俺はさっさと見つかっちまうだろう。
見つかった後どうなるかは分からんが、下手なことはしたくない。
まだ騒動になっていないうちに部室に戻るべきだろうか。
そう思うのに、腰が立たなかった。
驚いているせいなのか、それともどっと疲れたのか。
しばらく座り込んでいるほかないらしい。
それに、部室棟の中はそれなりに人がいてにぎわっている。
最上階にある部室まで見咎められたりせずに行けるのか怪しい。
こういう時のために携帯を持っておくべきだったってのに、ハルヒに取り上げられちまったことが憎らしいくらいだ。
長門が察して、見つけ出してくれることを祈ろう。
ため息を吐いて、座りなおす。
窮屈な服のせいで、ただ座っているだけでも辛い。
少しでも楽な体勢を模索しながら、俺は考えていた。
何がそんなにショックだったんだ、と自分に問う。
古泉にキスされるのなんて今更だ。
人前でいちゃつくのだって初めてじゃない。
人前でキスされたこともある。
なのになんでこんなに悲しいと言っていいような気持ちになってるんだ。
『…そりゃお前、見世物みたいにされたのが嫌だったんだろ』
とどこか冷静な俺が言った。
ただ見せ付けるだけじゃなかった。
賞をもらうため、アピールとしてキスされた。
しかも、おそらくではあるがまず間違いなく、ハルヒの企みで。
そんなことをされて、俺がどう思うかくらい、古泉にだって分かったはずだ。
それなのに、あんなことをしたってことは、古泉の中で、優先順位の優劣が違うということなんだろう。
ハルヒの方が上、あるいは、ハルヒの機嫌を取ることの方が優先される。
……そう思うと、泣きそうになった。
泣いたらマスカラが流れる、アイシャドーが崩れる、と涙を留めようとして、乾いた笑いがかすかに零れた。
俺はどこまで「女の子」になりたいんだろう。
古泉が好きになってくれる、好きでいてくれる、女の子になりたい。
そう思ってばかりいる俺は、酷く滑稽で見苦しいに違いない。
それでも古泉が俺のことを好きだと言ってくれるから、愛していると、聞いているこっちが恥かしすぎて嫌になるほど言ってくれるから、構わないと思ってきた。
それなのに、古泉は俺よりハルヒを優先させた。
そのことが悲しくて、悔しくて、俺はハルヒに嫉妬してるんだと思うと、それがおそらくお門違いだと分かっているだけに、笑えて、泣けた。
もう少し、ここにいよう。
せめて、もう少し落ち着くまで。
長門、頼むから見つけないでくれ。
今は、まだ。
――そう思っていたってのに、
「あの…」
と声が掛けられた。
聞き覚えのある男の声だが、一瞬誰だか分からなかった。
ぎょっとして振り向くと、そこにはコンピ研の部長氏が立っているじゃないか。
一体何事かと思った俺に、部長氏はかすかに頬を赤らめながら、
「体育館の方から走ってくるのがたまたま見えたから、つい、来ちゃったんだけど……何かあったのかい?」
「な…んでも、ない、です……」
精一杯に作った声は涙でかすれていた。
「…泣いてたの?」
そう言った部長氏がこちらへ近づいてくる。
思わずびくりと身を竦ませて後ずさった俺に、部長氏はあえて明るく笑って、
「ごめん、驚かせたかったんじゃなくて、その、…ほかの人に見つかりたくないかと思って……」
そう言って部長氏は俺の近くで膝をつき、自分も茂みの奥に身を隠した。
じわりと滲んだ涙を拭いたいが、何も持っていないので拭えない。
そんな俺に、部長氏はどこか慌ただしい動きで自分のズボンのポケットを探し回ったかと思うと、少しだけ皺くちゃになったハンカチを取り出し、俺に向かって差し出した。
「よかったら、使って」
「…汚れますよ…」
「気にしないでいいから」
半ば押し付けられたそれを受け取り、
「……ありがとうございます」
と小さな声で返す。
緊張しているからか、うまく声が出なかった。
不審がられてないだろうかと思いながら、ハンカチで涙を慎重に吸い取った。
部長氏は更に目もとの赤味を増しながら、
「あの、さ……前に、会った、よね? あの時は、もっと髪が短かったけど……」
そういや、そんなこともあったな。
まだ女装にはまりたての頃だったか。
部長氏はなんでそんなことを覚えてたんだ、と訝りつつ、
「…そう、でしたね」
と言葉少なに返す。
部長氏とはそう頻繁にではないものの、言葉を交わしたことが何度もある以上、警戒が必要だろうと、なんとかして声を作りながら。
「あの時から、君のことがずっと忘れられずにいたんだ」
……?
部長氏は一体何が言いたいんだろうか。
比喩的表現を読み取るのはあまり得意でないので勘弁してもらいたいのだが。
表情から察したくても、部長氏は俺から微妙に顔をそらしていた。
目なんかまるで合いやしない。
ただ、随分と赤味を増した顔色だけはよく分かった。
黙っている俺に耐えかねたように、部長氏は口を開いた。
手元に生えた草をぎゅっと握っている手が震えている。
「…きっ、君にとってはいきなりのことで驚かせるだろうけど、もしかしたらもう二度と会えないかもしれないし、だから、聞いて欲しいんだ」
一体なんだ?
きょとんとしている俺に、部長氏は全く以って予想外の一言を発した。
「――僕は、君が好きなんだ」
「……は?」
好きって、一体どういう意味で。
え、っていうか、部長氏よ、その真っ赤な顔が意味するところは俺が理解しているそれでいいのか?
いくらなんでもそろそろ俺だって気がついてもいいはずじゃないかと思うんだが。
というか、俺、告白されちまったんだよな、今。
うわー、人生二度目の告白も男からかよ。
女装趣味者としてはある意味本望と言えることかもしれないが、男としてはなんとも言い難い。
にしても部長氏、今時純情すぎないか?
半年ばかりも前に一度会ったっきりの相手が気になったままずっと過ごしてたなんて。
俺って罪な女だな、と茶化す余裕もありやしない。
軽いパニック状態に陥った俺は、声を作るのも忘れて、
「すみません、俺、男なんですが!」
と口にしていた。
「……え?」
唖然とした部長氏に、
「男なんです。女じゃありません」
と繰り返してやっと通じたらしい。
「……えええええ…!?」
いくらか間の抜けた声が響いた。
「騙すつもりはなかったんですが、紛らわしい格好して出歩いたりしててすみませんでした」
ぺこんと形だけ頭を下げると、部長氏はまじまじと俺を見つめつつ、
「…えぇと、もしかして、SOS団の……」
そうです、と頷けば、部長氏はため息を吐いた。
それが、感心したようなため息だったのにいくらか引っかかるものを感じつつも、
「そういうわけなんで……」
さっきの告白はなしで、と言おうとしたのだが、
「…でも、僕はやっぱり君が好きだ」
と言われ、今度こそ俺は唖然とするしかなかった。
古泉以来初めてだ。
男だと分かっててまだそんな風に言ってくるとか。
…いや、あいつ以来、マジに告白してきたのも初めてだけどな。
にしたって、驚くしかない。
部長氏はここまで思い切りのいい人だったのか。
相手が俺だってちゃんと分かってるはずだってのに迷いもせずに言い切ったぞ。
一応部長として人を引っ張ってきただけのことはあるってことなんだろうか。
困惑しながらもしかし、言うべきことはきちんと言うべきだろうと、
「あの、気持ちは嬉しいですし、ありがたくもあるんですが、……すみません。俺、付き合ってる奴がいるんです」
「そう…か……」
呟くように返事をした部長氏は目に見えてへこんだ。
がっくりと肩を落とし、指先で虚しく草を掴む。
それでも、ややあって顔を上げたかと思うと、力なく微笑み、
「…君は美人だし、そんなに優しいんだから、当然だよね」
と言った。
部長氏は意外と口がうまいらしい。
「美人でも、優しくもないですよ。普段の俺くらい、知ってるでしょう」
「知ってるからこそ、優しいと思うよ。時々見かけてたし。それに、今だって僕に気を遣ってくれるくらい、優しいじゃないか。勢い任せで告白なんてしちゃった上に、男だって分かってても同じことを言ったから、気持ち悪がられるかどうかするとばかり思ってたんだけどね」
「そんな、気持ち悪いって意味では俺の方がよっぽど気持ち悪いですし……」
「君は気持ち悪くなんかないよ。凄く美人だ」
さらりと褒められて、こっちの顔まで赤くなってくる。
「……あの、さ」
部長氏はまた目を伏せながら、言い辛そうに口を開いた。
「…凄く厚かましいと分かってるし、君には迷惑でしかないとも思うんだけど、ひとつだけ、いいかな」
「なんですか?」
よっぽどのことでなければ聞いてあげたいくらい、今の俺は部長氏に対して同情的なのだが。
…そこ、おだてられて気分がよくなってるとか言わないように。
「…一度だけでいいんだ。僕と……デートしてくれないか?」
「……え」
俺はしばらくの間、絶句するしかなかった。