姫君の憂鬱



夏休み中のあの日、古泉が何やら意味ありげな微笑で誤魔化した時から嫌な予感はしていた。
廊下で擦れ違った時、どういうわけか生徒会長にじろじろと見られた時にも、違和感を持った。
それでどうして俺は、もっとちゃんと調べようだとか、あるいはその企みを阻止しようだとかしなかったんだろうな。
今更悔やんでも仕方がないのだが。
「キョーン! そんな不貞腐れた顔してないで笑いなさいよ!」
ハルヒがカメラを構えているのは、事前審査用の写真撮影のため、だそうだ。
しかし、カメラに向かってなんでもないのに微笑むなんて、そんな器用な真似が俺に出来るもんか。
加えて、この写真撮影の目的を考えると、ため息が止まらなかった。

始まりは、ちょっとした噂話だった。
曰く、
「今年の文化祭に、生徒会主催で何か大きなイベントをやるらしい」
酷く漠然としていたそれが、やがて少しずつ形を取り始める。
ミスコンだとか何とか噂が流れ始めた頃になっても、俺はまだ自分には関係のないことだと思い、古泉とボードゲームなんぞに興じていたのだが、そうは問屋がおろさなかった。
その日、ばたばたといつになく騒々しい足音が聞こえてきたかと思うと、ハルヒが勢いよくドアを開き、宣言した。
「キョン! あんたをこれに出すわ! 優勝目指して頑張りなさい!」
部室に訪れたのは例によって沈黙だ。
俺はぽかんとしてハルヒの持つポスターを見つめるしかない。
朝比奈さんと長門は心なしか楽しそうだし、古泉はいつにもまして胡散臭い笑みを見せていた。
てめえの仕業か、と古泉を睨もうとした俺の鼻先に、ハルヒがポスターを突きつける。
「ほら! あんたが出るんだからあんたが見なくてどうすんのよ!」
現実逃避くらいさせてくれ。
まさかあの生徒会長及び生徒会の面々が、仮装大会なんて開催するとは思わなかったんだ。
覚悟も何も出来ちゃいねえ。
「覚悟なんて必要ないわ。あんたに必要なのはこれに出て勝ってみせるっていう心意気だけよ!」
鼻息荒く言い放ったハルヒは、
「それにこれは仮装大会じゃなくてミスコンよ」
「普通のミスコンには、『女装・男装なんでもあり』なんて文句はないはずだ」
「うるさいわね。とにかく、あんたに出場資格がある以上、出てもらうわよ!」
傍若無人な団長モード全開のハルヒに勝てるような人材が我等がSOS団に存在するはずもなく、かくして俺は出場を決められちまったのだった。
幸か不幸か、古泉も一緒だ。
ミスコン、とは言っても、対象が女子だけじゃない上、昨今のフェミニスト運動の影響か、男子の美形も選ぶ大会であるらしい。
「ベストカップル賞も男女両方の最優秀賞も総取りするわよ!」
なんてハルヒは息巻いているが、本気なのかね。
「おそらく本気でしょう」
にっこにっこと無駄に笑みなど振りまきながら、
「このような状況で我々に出来ることは彼女を満足させるべく、邁進することのみですよ」
「古泉、」
絶対お前らが何かしたんだろうが、と口には出さずに視線で告げても、古泉はまだ笑顔のままだ。
わざとらしく俺の耳元に唇なんぞ寄せて、
「いいじゃありませんか。あなただって、普段着れないような衣装を着たいと思ったりするんでしょう? ウェディングドレス、とまでは行きませんが、それに近いくらい素敵な服なら、彼女らが精一杯用意してくれそうですよ」
んなこた分かっとるわい。
こうなった以上逃げられんということもな。
だが、腹が立つのはお前の秘密主義だ。
どうせ係わり合いになるなら、もっと早く言えばよかっただろうに、なんで俺にまで内緒にするんだ。
むくれながらぶつぶつと文句を言えば、いきなり抱きしめられた。
「おい…っ!?」
なんのつもりだ。
「なんのつもりも何もありませんよ。あなたこそ、何考えてるんですか。…そんな可愛らしいことを言われて大人しくしていられると思うんですか?」
……しみじみと思う。
お前、夏の間に本当に吹っ切れやがったな。
「あなたのおかげですよ」
なんてにっこり微笑む古泉に、ハルヒが言う。
「いちゃつくんだったら後にしてくれない? キョンに着替えさせて、エントリー用の写真撮っちゃいたいのよね」
「ああ、すみませんでした」
ぱっと俺を解放する辺りはまだ自制心が働いているというべきなんだろうか。
呆れながら、俺はハルヒに聞く。
「エントリーとかそんなのまであるのか」
「見苦しいのをステージ上に上げたくないってことじゃないの。まあ、それはあたしも賛成ね。見っとも無いのなんて、視界に入れるだけで害毒だわ」
「かもな」
俺もいっそ、その審査段階で落としてもらえないものかと呟けば、
「そんなことありえないわよ」
とハルヒに一蹴され、古泉には真顔で、
「ありえませんね」
と言われた。
朝比奈さんも長門もやけに力強く頷いている。
これが、身内の欲目でないことを願いつつ、やはり落とされることはないんだろうなと自分でも思う辺り、俺は重症だ。
「で? エントリー用はどの服で撮るつもりなんだ?」
ハルヒのことだから、本番とは違う衣装なんだろうと思い、そう聞けば、
「ここはやっぱり制服でしょ。それでもキョンなら軽く審査を突破してくれるはずよ。そうして、地味なスタート位置から一気にトップに躍り出るのよ! それはもう劇的にね!」
わくわくという書き文字を背負って見えるほど楽しげにハルヒは言った。
そうして俺の目の前に放り出される紙袋の中身は聞くまでもない。
長門あたりが用意してくれたんだろう、女装セット一式だ。
重さからして、いつだったかにお義姉さんから頂戴したお高い胸パッドが入っていることもまず間違いない。
もしかしたらウィッグも入ってるんじゃないだろうか。
「さあキョン! さっさと着替えなさい!」
こうなってしまえば抵抗など出来るはずもない。
俺は諦めて、
「分かった。…が、」
と古泉に目を向ける。
何も分かってない顔で微笑んでいる古泉に、俺は顔が羞恥で赤くなるのを感じながら言った。
「き、着替える間、お前は外に出てろ…っ!」
「……は?」
古泉がぽかんとした顔をするのが分かる。
俺だって、本当はよく分かっているんだ。
俺はどんなに着飾ろうとも男であり、それなら同じ男である古泉がいようがいまいが関係なく着替えられるはずだってことも、むしろ追い出すべきはハルヒたち女性陣だということも。
大体、これまで何度も肌を重ねておいて今更着替えを見られるのが恥ずかしいってのもおかしいだろう。
そう、思いはする。
だが、それ以上に恥かしいのだ。
自分が女装するところ、着替えるところを古泉に見られることが。
自分でも掴みかねるくらい複雑な心情を分かってくれたのは、ハルヒたちだった。
朝比奈さんは俺に負けないくらい真っ赤な顔になって、
「そ、そうですよね! ほら、古泉くん! 早く!」
と古泉を立ち上がらせ、長門がぐいぐいと古泉を押し出す。
「え、あ、あの…?」
まだ戸惑っている古泉には、ハルヒが止めでも刺すように、
「古泉くん、乙女心が分かんない男でいちゃだめよ。廊下でちょっと反省してなさい!」
と言い放ち、ドアを閉めた。
俺はほっと息を吐き、
「ありがとな」
と三人に礼を言って、カーテンを閉めた。
表の光が遮られ、ほんの少しだけ室内が薄暗くなる。
そこでえっちらおっちら着替えて、薄く化粧を施すと、ハルヒが満足気に笑った。
「やっぱりあんたってなんでも似合うわ」
「と言われてもな……」
自分としては、この脚やら手やらの明らかに女の子とは違いすぎるパーツがある以上、とてもそこまで自信を持って言い切れないんだが。
「大丈夫よ。でも、そうね…。だったら、本番の衣装はぴったりだわ」
嬉しそうにハルヒが言うと、長門が、
「脚はほとんど出ない。腕や肩も極力露出を抑えるデザインだから……安心して」
それは本当に安心出来る要素なんだろうか。
ため息を吐きながら立ち上がり、ドアを開けると、古泉がやけに真剣な顔で考え込んでいた。
「…何やってんだ? お前」
「ああ、いえ、」
俺を見るなりにこやかに微笑んだ古泉は、
「乙女心というものについて少々考えていただけです」
……そうかい。
で、多少なりとも分かったのか?
「いいえ」
あっさり答えた古泉は俺の耳に唇を寄せ、
「考えようとしたところで、女性陣に嫉妬してしまいまして」
「…はぁ?」
嫉妬ってお前な。
「おかしいですか? あなたの性別を考えると別におかしくないと思いますが」
………。
「…それもそうだな」
と俺は苦笑して、
「なんか、もう感覚がおかしくなってるんだよな。ハルヒに裸を見られても別にどうってことないんだが、お前に見られるのは恥かしいんだ」
「そのようですね。…それだけ意識されていることを喜んでおきましょうか」
そう笑った古泉は、俺のことを頭の天辺から足の先まで見たあと、
「それにしても、よくお似合いですね。白いニーソックスも目に眩しくて素敵です。ロングのウィッグもぴったりで、清楚な感じがしますね。実にあなたらしくて素晴らしい」
手放しで褒めまくる古泉に、
「お前もハルヒと同じで絶対領域に魅力を感じるタイプだったか?」
と聞いてみると、
「僕はどちらかと言うと隠されている方が好きですからね」
悪びれもせずさらっと言った古泉は、舌なめずりでもしそうな顔つきになり、
「隠されていると見たくなりません?」
「…あー……古泉くんよ」
「はい?」
「……別に嫌いじゃないんだが、TPOくらいは弁えんか?」
「ああ、すみません。つい」
……少しも悪いと思っていないんだろうな。
これもあの夏休みの副産物かと思うと……なんというか、各方面に申し訳ないような気がしてくるのは俺だけだろうか。
考え込みながらも俺は古泉を連れて部室の中に戻った。
そうして俺はハルヒに命じられるままたっぷりと写真を撮られた。
加工防止だとかで、デジタル写真は不可と規定されているとのことで、おぞましいことに俺の女装写真は町のカメラ屋で普通に現像されるらしい。
……せめて俺であることがばれないことを祈りたい。

当然のような顔をして、審査通過の報せが届いたことは言うまでもない。