Jキョンの夏休み #9
  海



「起きてください。…そろそろ起きて準備をしないと、涼宮さんたちに怒られるどころか、電車に乗り遅れてしまいますよ?」
という古泉の優しい声で起こされた。
どうして俺が古泉の部屋で朝を向かえているのかという問いは愚問なので答えんぞ。
「ん…」
と曖昧に答えながら無理矢理目を開ける。
ピントも合わないほど近くにあった古泉の顔が、一瞬だけ更に近づき、唇に古泉のそれが触れたのが分かった。
「おはようございます」
「おはよう……」
まだぼんやりした俺を起き上がらせた古泉は、
「朝食出来てますから、顔を洗ってきてください。一緒に食べようと思って待っていたので、お腹が空いてるんです」
それなら急がなきゃ悪いよな、と思いながら俺は脱ぎ散らかしていたキャミソールにのそのそと頭と腕を通し、ベッドから出た。
用意されていた朝食は見事な日本食だった。
切り身の焼き魚に、青菜のおひたし、いつもながら絶品の漬物は古泉の手作りのものに違いない。
ひとり暮らしにしては広めのテーブルには、今日の昼用の弁当も用意されているが、そちらはまた内容が違う。
「お前ってほんとマメだよなぁ…」
感心しながら呟くと、
「そうですか?」
マメだろうが。
朝食と昼飯の内容が同じでも俺は文句は言わんぞ?
「だめですよ。ちゃんと色々なものを食べないと、体にも悪いですよ」
そうたしなめられながらも、それが嬉しくて笑った。
「お前っていい嫁さんになれそうだよな」
昨日の話を思い出しながらそう言ってやると、
「おや、お嫁さんになってくださるのはあなたの方だとばかり思っていたのですが」
「…料理もろくに出来ない嫁でよければいいぞ」
「いいですよ。料理は僕が出来ますし、あなたは掃除とか上手でしょう? 得意なことを担当したらいいじゃありませんか」
「そうだな」
将来のことをそんな風に話せるのが嬉しい。
それが実現すればいい、と思ったところでひとつ気がついた。
「…ああ、うん、やっぱり俺が嫁じゃなきゃまずいよな」
「どうかしましたか?」
「そうじゃないと、俺がウェディングドレスを着れないだろうが」
古泉はぽかんとした顔で俺を見たかと思うと、
「…着たいんですか?」
「……そりゃ、まあ、な」
やっぱり憧れるだろう。
長く裾を引く純白のドレスなんて、結婚式の主役でもなければ着れない代物だ。
きっと長門が立派なものを作ってくれるんだろうとも思うし、自分でも不器用は不器用なりに作ってみたいような気がする。
一生に一度なら尚更だ。
「…今日、遅刻や欠席なんてしたらまずいですよね?」
「……そりゃそうだろうが、どうした?」
俺が首を傾げると、古泉はほんのりと頬を赤く染め、じっと俺を見つめながら、
「あなたが可愛らしいからいけないんですよ」
と恨みがましい言葉を口にしたが、
「ばか」
と笑いながらキスしてやるとそれでとりあえずは満足したようだった。
身支度を整えてから、二人して弁当を抱え、部屋を出た。
待ち合わせ場所である駅前に着いても、朝から曇りっぱなしの空は晴れず、こんな日に海に行くっていうのもどうなんだと俺は首を捻った。
「別にいいでしょ、雨が降ってるって言うんでもないんだから」
そう言ったハルヒは、予定変更をするつもりなど欠片もないらしい。
かくして俺たちは電車に乗り、海水浴場へと向かった。
胸がドキドキと落ち着かないのは、今回ばかりは古泉のせいではなく、緊張感のせいだ。
今日持ってきた水着は言い逃れすることも出来ないくらいの女物である。
お義姉さんが提供してくれたそれは、可愛らしいビキニタイプで、しかもぺったんこの胸でいいようなデザインらしい。
小さな三角形の胸当ては、幼児用のビキニ染みている気もしたが、試着した時の古泉の反応からして俺に似合うらしい。
下は流石にぴったりしたものは危険すぎるので前と同じようなデニム生地の水着だが、これでも十分蛮勇に値する選択だということは間違いないだろう。
プールと違い、男女兼用の着替え用スペースで躊躇いながらも着替え、狭いボックスから出ると、
「大丈夫ですよ」
と待っていた古泉に微笑まれた。
「愛らしい女性にしか見えませんから。……お願いですから、変な輩に絡まれないように気をつけてくださいね?」
気をつけたところでどうしようもないような気がするし、
「たとえ絡まれたところでお前が助けてくれるんだろ?」
「当然ですよ」
「なら、別に平気だろ」
むしろ久々にお前の勇姿が見たい気がする、なんて呟くと、
「やめてください。あなたに何か遭ったらと思うとそれだけで気が気でないんですから」
と疲れたように言われちまった。
警戒するように俺の手を取った古泉と共に砂浜に行けば、ハルヒたちは既にうきわを膨らませ、きゃあきゃあ言いながら遊び始めていた。
俺もさっさと加わりたい。
しかし、そうも行かないのは、曇り空であっても油断大敵だという事実があるからである。
俺はシートの上に腰を下ろすと、腕や脚に日焼け止めを塗り始めた。
古泉はにこにこしながら俺を見ているが、こいつは塗らなくていいのか?
それとも、待ってる間に塗ったんだろうか。
そんなことを考えながら動かし続けていた手をはたと止めた俺は、日焼け止めのボトルを古泉に手渡した。
「あの…?」
「背中、塗ってくれるか?」
「……」
沈黙した古泉は、何なんだ。
今更背中に触るくらいでどうこう言うような間柄でもないと思うんだが。
「いえ……やっぱり、勝手が違いますから…」
まあお前が恥ずかしがったところで別にいい。
俺はそう体が柔らかい方じゃないからな。
自分じゃ届かない以上塗ってもらうしかないだろう。
「頼む」
と言って背中を向ければ、小さくため息を吐いたのが聞こえた。
「じゃあ、塗りますよ」
わざわざ声を掛けなくてもいいと思ったが、ひやりとした感触にびくりと体が竦んだことを考えれば、予告されて良かったのかもしれない。
「…やっぱり恥ずかしいですね」
肩越しに言われ、俺は小さく頷いた。
「何でだろうな」
状況のせいか?
「そうでしょう。……ああでも、こうしてよかったのかもしれませんね」
は?
「これを見れば、あなたと僕の間柄だっていくらかは分かるというものでしょう? それなら、あなたに声を掛けようとするような人間もいくらかは減らせると思いまして」
「…お前は俺を買い被り過ぎだろ」
恋は盲目とか、あばたもえくぼなどとはよく言ったものだが、それにしても酷くないか?
「あなたが自分の魅力を分かってないだけですよ」
そう笑った古泉は、わざとらしく俺を抱きしめると肩口に軽くキスを寄越し、
「そんな鈍いところも含めて、好きですよ」
と囁いた。
誰かこいつを何とかしてくれ。
「塗り終わったんなら泳ぎに行ってくるからな」
身を捩るようにして古泉の腕を解き、立ち上がってそう言うと、古泉は気にした様子もなく、
「気をつけて行ってきてくださいね。僕はここで荷物の番をしていますから」
と言った。
ハルヒたちが泳ぎに行っているんだから仕方ないかもしれないが、ひとりで放って置かれるのは寂しいだろう。
やっぱり一緒にいてやろうか、と思ったところで、朝比奈さんと長門に水を掛けまくっていたハルヒが、
「キョーン! あんたも早く来なさーい!」
と怒鳴り、俺は仕方なくハルヒたちに合流することにした。
こんなところで機嫌を損ねても仕方ないからな。
脚を突っ込んだ海水は思ったよりも冷たかった。
曇っているせいもあるんだろう。
この調子だとあまり長時間泳げないな。
腰まで浸かることを躊躇していると、
「何やってんのよ」
とハルヒに思いっきり水を掛けられた。
「お前な…」
「若いんだから少々平気でしょ。ほら、四人揃ったんだからビーチバレーで遊ぶわよ」
そう言ってハルヒはその辺をぷかぷか浮かばせていたビーチボールを取り上げた。
ビーチバレーというのは通常砂浜で行われるものであるはずなのだが、ハルヒが始めたそれは変則的に、海水に腰まで浸かった状態で始められた。
砂浜の方が人が多くてやり辛いというのも分からないでもないが、海風に煽られて制御できないビーチボールを歩き辛い水中で追いかけるというのは非常に難しい。
結果、朝比奈さんから俺の方へ送られようとして、遥か遠方に飛んでいったボールを追いかけ、歩くというよりも半ば泳ぐようにして行くと、
「このボール、君たちの?」
と日焼けした男に声を掛けられた。
その手にはしっかりとハルヒの持ってきたビーチボールがある。
「そう、ですけど」
何かあるんだろうか。
ただ拾ってくれただけという風には見えんぞ。
そこはかとなく不健全な匂いがするからだろうか。
「そう警戒しないでよ」
にこやかに言われても警戒するに決まってんだろうが。
「ボール、返してくれませんか」
低く唸るように言ったのだが、相手はまだ俺が男だと気がつかないらしい。
「ねえ、君たち女の子だけじゃつまらなくない?」
「十分楽しんでますし、大体女の子だけじゃありません」
というか、てめーにはんなこと関係ねーだろ。
いっそ俺は男だと怒鳴ってやろうか。
古い映画みたくさ。
「嘘だろ? 女の子だけじゃん」
「本当です。いい加減、ボール返してください」
そう言ってボールに手を伸ばしたところで、さっとそれを上に上げられ、バランスを崩した。
やばい、と思ったが既に遅く、俺はそいつに抱きとめられちまった。
「意外と積極的?」
なんてほざいてんじゃねえ。
「放してください」
「せっかくだからもうちょっとだけ」
「放せって言ってんだろ!」
いい加減ぶち切れてやろう。
近場でもないから、男だとばれても知るもんか。
力いっぱいそいつをぶん殴ってやろうとしたところで、ボールを持ったまま挙げられたそいつの手首を、誰かが掴んだ。
誰と考える必要はない。
「彼女を放していただきましょうか」
「な…んだ、てめぇ!?」
驚くそいつに、古泉はどこまでも冷たい視線を向ける。
「放せ、と僕は言っているんですが?」
そうして少し手を動かした。
それだけにしか、俺には見えなかったのだが、不躾な野郎は大袈裟なほど声を上げた。
痛みのせいだろう、拘束が緩み、俺は気色の悪い場所から逃げ出し、古泉に抱きついた。
「遅くなってすみません」
「いい。許してやる」
俺がそう言うと、古泉は柔らかく微笑んで、
「ありがとうございます。さて――」
と言ったのだが、すぐにその表情は絶対零度の冷たさを帯びた。
「どうしてくれましょうかね。あなたを困らせたばかりか、汚い手であなたに触れたこの人を」
「…お前の好きにしちまえばいい」
遠慮なんて必要ない。
鳥肌が立つような不快感を思い出し、俺がぎゅっと眉を寄せたからだろう。
古泉は薄く微笑んだかと思うと、
「ちょっと離れててください」
と俺に言った。
「ん? …ああ」
どうするつもりか、全部は分からなかったがなんとなく見当がついた俺は、言われた通り1m少々距離を取った。
「何するつもりだ!?」
慌てふためく野郎に同情心など欠片もないのは古泉も同じだったらしい。
周囲を確認して、誰も近くにいないことを見て取ると、ぞくぞくするくらい冷たい笑みを歪めもせず、そのまま片手でそいつを投げ飛ばし、海中に叩き込んだ。
バシャンと派手な音がしたから、さぞかし強く海面で体を打ったことだろう。
古泉は涼しい顔のまま、近くを漂っていたビーチボールを手に取り、俺に向かって優しく微笑んだ。
「それでは、戻りましょうか。涼宮さんたちがお待ちかねですよ」
「そうだな」
言いながら、俺は古泉の頼り甲斐のある腕に自分の腕を絡めたのだった。