前夜の名残であるところの快い気だるさに浸りながら、だらだらと一日を過ごしてやろうかと思っていた俺と、そんな俺を、旅行と昨日の行為のせいで酷く疲れているのだと勘違いして、甲斐甲斐しく俺の世話を焼こうとしていた古泉の、若干噛み合っていないなりに楽しい夏休みの一日を、携帯のけたたましい着信音が破った。 サブウィンドウを見るまでもなく分かる。 ――ハルヒだ。 「はい、」 『あんたもう帰ってきてるんでしょ？ 今どこ？ 古泉くんの部屋？』 朝っぱらから元気だなこの野郎、と唸りたくなるのを堪えながら、 「ああ」 『相変わらずねー。まあ、しばらく会ってないんだからしょうがないのかもしれないけど』 「お前は茶化すためにわざわざ電話を掛けてきたのか？」 だったら切るぞ。 『違うわよ。あんたも帰ってきたことだし、今年もみんなで色々やりたいと思って』 「またか」 思わずげんなりした声が出たのは、去年の散々と言っていい思い出が蘇ったからだ。 またあんなループは勘弁してもらいたい。 いや、同じように繰り返すとは限らないし、むしろその可能性は低いと思うのだが、それでもだ。 また長門が苦労するのも、あれこれ思い悩まされるのも嫌だからな。 『いいでしょ、別に。あんたたちのことを考えて、夏休み前半は召集も控えてあげたんだから』 それはそうかもしれないがそれにしてもだな、 『とにかくっ、』 とハルヒはいつも通りの強引さを発揮し、 『二時ジャストに駅前に集合よ！ 当然、古泉くんも連れてくること！ いいわね？』 「待て、どこに行くつもりだ？」 『…ああ、言い忘れてたわ』 お前な。 『夏なんだから、やっぱりプールでしょ』 向日葵より明るい笑顔が見えそうな声でハルヒは言い、それで持参物の説明は必要ないとばかりに電話を切りやがった。 やれやれ、と肩を落とせば、隣りにいて聞き耳を立てていた古泉が、苦笑混じりに、 「それでは、準備をしますか？」 「その前に…」 と俺は古泉を引き寄せ、軽くキスをすると、 「二時集合なら、まだ時間はあるだろ」 と囁いてやった。 俺は一度家に帰り、軽く片付けと水着の用意をした上で、集合場所である駅前に向かった。 当然のように自転車を使ったのは、去年そうしたことをちゃんと覚えていたからでもある。 今年もまた曲乗りをさせられるんだろうな、と思っていたらそうではなく、ハルヒが曲乗りを披露してくれることになった。 ……のは、まだいいんだが、 「何で俺がお前の後ろに乗ってお前にしがみつかねばならんのだ…」 俺がそう唸ると、古泉は苦笑して、 「嫌ですか？」 「嫌というか、落ち着かん。加えて周囲の視線が痛い」 古泉は小さく声を立てて笑って、否定も肯定もしなかったが、おそらく俺と同じような心持ちなんだろうな。 何せ、今日の俺は女装もしていない。 いつも通りのただの男子高校生である。 そんな状態で古泉とタンデムっていうのは、正直、恥さらしにしか思えん。 勿論、周囲には友人同士にしか見えないんだろうがな。 それでも恥ずかしい。 こうするように言われ、ハルヒに自転車を奪い取られた時、俺は当然反論した。 「なんでそうなるんだ。去年と同じようにする気じゃなかったのか？」 「なに言ってんのよ。誰がそんなこと言ったの？ 同じなんてつまらないでしょ。それに、あんたが女装してこないのがいけないんじゃない」 いささか立腹した様子で言ったハルヒに、俺はため息を吐き、 「市民プールに行くのに女装するのは流石にやめさせてくれ…」 「どうしてよ」 「どうしても何もあるか」 そこまで説明する必要はないだろうが。 「とにかく、あんたは古泉くんの後ろに乗りなさい。あんたの自転車はあたしが使ってあげるわ」 強引にそう決定して、ハルヒは俺の自転車を奪い取ったというわけである。 この調子で夏休み最終日まで突っ走るつもりかと思うと、早くも疲労困憊しそうだと思いながら、俺は古泉の背中に頭を預けた。 次の瞬間軽くよろけた古泉に、 「俺を殺す気か！？」 と思わず怒鳴れば、 「それはこっちの台詞ですよ！」 と赤い顔で返されちまったが、そんな大したことをしたかね、俺は。 「こぉらー！ いちゃついてないでさっさと来なさいっ！ 置いてくわよ！」 ハルヒには前方からそう怒鳴られ、朝比奈さんには微笑ましげな表情で見つめられ、ついでに通りすがりの人々には気のせいか、怪訝そうな顔で見られ、顔から火が出るかと思った。 なんとか市民プールに着いた時には汗だくで、温いシャワーだけでも随分涼しくなった気がした。 「あら、キョン…」 更衣室から出た先で待ち構えていたハルヒは不思議そうに俺の体を上から下まで観察した。 ……一体なんだ？ 「………古泉くんの部屋に泊まったのよね？」 「ああ」 「…それにしちゃ、全然何も見当たらないわね」 ……そういうことか。 「お前、もう少し恥じらいを持ったら…」 「煩いわよ。何？ 久しぶりに会ったのにいちゃつきもしなかったわけ？」 んなわけあるか。 「コンシーラーとファンデーション」 と端的に答えると、通じたらしい。 「あ、そっか」 と納得したように呟かれた。 「それにしても……」 ハルヒは再びまじまじと俺を見たかと思うと、腕を組み、小さく唸った。 「今度は何だ？」 頼むから妙なことは言ってくれるなよ、と思いながらそう言えば、ハルヒは眉を寄せた難しい顔をしながら、 「…夏休みに入ってから女装してるのしか見てなかったから変な感じ。あんたの髪が伸びてきてるせいもあるんだろうけど、女の子が性転換したのを見てるみたいな気分だわ」 「あほか」 あと、これだけ人の多いところで女装とか堂々と言わないでくれ。 「大体、これが俺の普段通りだろうが」 「あんたの普段は女装でしょ。フレアスカートもミニスカニーソックスで絶対領域ってのも好きなくせに」 そう笑ったハルヒは、 「楽しみにしてなさい。せっかくの夏休みだし、あんたにもちゃあんと楽しませてやるわ」 色々服も準備してあるのよ、と言ったハルヒの背後で、長門がこくりと頷いた。 ……あまり奇抜なのがなければいいんだが、と思っている時点で末期だな。 そうして何時間かプールで遊んだ俺たちは、髪を塩素臭い水で濡らしたまま駅前に戻り、行きつけの喫茶店に入った。 入る時、すっかり俺たちの顔を覚えちまったらしい店員に、 「久しぶりね」 と声を掛けられ、 「髪、伸ばしてるの？」 と聞かれたのには苦笑するしかなかったが。 加えて彼女はよく俺たちのことを見ているらしく、 「今日は彼女は一緒じゃないんだ？」 と古泉にも声を掛けていた。 古泉の返事は一瞬ちらりと俺を見遣った後、 「ええ」 と頷き返すというものだった。 それだけの返事に目配せなんているかよ、と思っていると隣りにいた朝比奈さんに眉間を小突かれ、 「うふ、眉が寄っちゃってますよ」 なんて、可愛らしく指摘されてしまった。 めいめいに飲物だの軽い食事だのを注文し、それが全部そろってから、ハルヒがテーブルの上に紙切れを広げた。 「今年の夏の予定はこんなもんでどう？」 去年の大変な日々を思い出すから、今年はこんなもん用意して欲しくなかったんだがね。 『夏休み中にしなきゃダメなこと』リスト、なんてさ。 既視感が目眩にも感じられそうだ。 警戒感を伝えようと長門を見ると、長門は平気な顔で大盛のオムライスをぱくついていた。 ――大丈夫だと思っていいのかね？ 「大丈夫でしょう」 と安請け合いしたのは古泉だった。 ちなみにその場での発言じゃないぞ。 解散後、帰り道を歩きながら話してて出た言葉だ。 ついでに言うとハルヒたちは、 「明日のお祭にあわせて準備したいことがあるのよ。だから二人っきりにさせてあげるわ」 という言葉と共にとっとと長門の部屋に向かってしまい、 「キョンをちゃんと家まで送ってあげなさい」 と団長に厳命され、 「謹んで拝命致します」 などとおどけた古泉に送られて家に帰っている途中である。 「去年あれだけうまく行ったから、今年も計画的に過ごそうと思ってのことでしょうね」 楽しげに言っているが、お前、何がうまく行ったって？ 「あくまでも彼女の中での話ですよ。それに、今年はちゃんと宿題をみんなでやる、という項目もあったではありませんか」 「だが、これでもし、またループでもしたら、今度こそ打つ手なしだぞ。お前だって不安があるからちゃっかり祭りの予定なんかまで調べてたんだろうが」 「そういう訳でもありませんよ。彼女のことですから、去年楽しかったことは今年もやりたがるのではないかと思いましたし、もし彼女が何も言い出さなかったとしたら、あなたをお誘いしようかと思っていたので」 「…そうかい」 恥ずかしい奴だ、と思いながら俺は軽く顔を背けた。 「それにしても、みんなで宿題をやるってのは結構ありがたいな」 夏休みに入ってから既に何度か、俺たちは団員の家に集まって宿題をしていた。 まだ完全に終ってはいないが、この調子で行けば去年のように手首を痛くすることもあるまい。 これについてはハルヒ様々と伏し拝んでやってもいい。 「おや」 と古泉はわざとらしく首を傾げた。 「度々あなたの宿題を手伝ったのは誰でしたっけ？」 「それを持ち出してくるなら、課題が一ページも進まないうちにシャーペンを放棄させてくれたのは誰かってことも聞いてやるぞ」 俺がそう言って睨みあげてやれば、古泉は笑って、 「そんなこともありましたね」 「全く…。ハルヒと同じで自分に都合の悪いことはさっさと忘れる主義か？」 あと、お前を伏し拝んでやらないのは恋人として宿題の手伝いくらいは当然だからでもある。 「覚えていても得でないことも多いですからね」 かすかに哀愁の破片らしきものを古泉は俺の問いに答え、思わず沈黙した俺の頭を優しく撫でた。 「あなたがそんな顔をする必要はありませんよ」 そんな顔と言われても自分では見えない以上、どんな顔か分からんのだが。 「そうですね…。抱きしめて、大丈夫ですと言いたくなるような顔、でしょうか」 よく分からんが情けない顔であることに間違いはないんだろうな。 俺は小さくため息を吐き、 「ならお前は、俺にこんな顔をさせないようにしてくれ」 「…ええ、肝に銘じておきます」 そう言った古泉が足を止めたのは、もう俺の家に着いてしまったからだった。 真夏の夕暮れが遅いとは言っても、そろそろ街も黄昏に染まりかけている。 そろそろ夕食をとるのだろう、どこかの家から美味しそうな匂いも漂ってきていた。 そうして人の気配は感じるのに、人通りは少なく、なんだか不気味なくらいだ。 そんな中、古泉は辺りに人がいないのを確かめるように辺りを見回すと、ちょっと背を屈めて俺に触れるだけのキスを寄越した。 「それじゃ、僕はこれで。お休みなさい。また明日」 そう告げて背を向けたその裾を引っ張り、 「お前も晩飯食ってけばいいだろ」 「昨日からずっと息子さんをお借りしたばかりなのに、ご両親と夕食を同席させてもらうというのも気が引けるんですが…」 やかましい。 「どうせ叱られるのは俺だけだ。大体だな、」 と俺は古泉の背中に伸し掛かり、 「…あれっぽっちで足りるのかよ」 「……ええと…」 「少なくとも俺は足りん。もう少し…一緒にいさせろ」 「ああもう…あなたと来たら…」 軽く赤くなった古泉だったが、結局夕食を食べていくことを決めたのは、俺たちの背後から、 「古泉くんに上がってもらうのか、あんたがもう一晩外泊するのか。どっちでもいいから早く決めなさい」 という心底呆れたお袋の声がしたからだった。 |