里帰り



ゴールデンウィークにも帰省するわが家である。
お盆となれば当然、田舎のバーさんの家で過ごすわけだが、例年ならばそれなりに楽しく、充実しているはずのそれが、全くと言っていいほど嬉しくなかった。
その理由は単純かつ明快だ。
――古泉に会えないから。
女装が出来ないから、というのも少なからず含まれていることは否定しない。
しかし、それ以上に俺は、古泉に会いたくて仕方なかった。
夏休みだからと言って、別に、毎日会っていたという訳でもない。
三日に一度くらい、古泉を呼んだり、古泉の部屋に行ったりして、一緒に勉強をするという健全な過ごし方をしたり、不健全な過ごし方をしたりしていたくらいだ。
だがそれも、会おうと思えばすぐに会えたからだったようだ。
会えないとなると無性に会いたくなる自分に苦笑しながら、俺は携帯をもう一度開いて、閉じた。
もう何度繰り返しているか分からない動作を繰り返すのは、迷っているからだ。
このまま古泉にメールしちまっていいのか、と。
イトコだの妹だのが一緒くたになって寝ている部屋の隅で布団に入ったまま考えていれば、眠気がきたって不思議じゃないはずだ。
昼間はちびっ子ギャング共に振り回され、あちこち駆けずり回ったんだからな。
こいつらと来たら、集団になるとハルヒひとりにも匹敵しかねん行動力と傍若無人さを発揮しやがるんだからタチが悪い。
なお悪いのは、ハルヒ以上に反撃出来ないことだ。
どんなに数がいようと小さな子供であることに代わりはないからな。
そんな訳で俺は非常に疲れている。
いつもならもうとっくに寝入っていて当然だ。
それなのに、眠れない。
古泉に会いたい、と、女々しくそんなことばかり思っている。
まだ丸三日しか過ぎていない。
それなのに、こんなにも会いたい。
古泉はどうなのかと、確かめることが何より怖いように思えた。
俺がこんな風に思ってしまっているのに、あいつは平気な顔をしているんだとしたら。
そう思うだけで胸が痛む。
俺だけこんなに思っているとしたら悔しくもなる。
今、あいつが何をしているか知らないから、こんな風に不安になる。
そう思っても、何をしているのか知るのが怖い。
その葛藤が携帯を開け閉めする動きに繋がっている。
時刻はそろそろ真夜中が近い。
いい加減寝ないと明日もこいつらに振り回されることを考えると、これ以上の夜更かしは毒でしかない。
それでも眠れないのなら、と俺は意を決してメールを送った。
「今、何やってるんだ?」
短く、それだけ。
寝てたら悪いと思ったし、もし閉鎖空間が発生してたらとも思った。
それでも送らずにはいられなかった。
いつ来るとも分からない返事を待つ間、苦しくて胸が潰れるかと思った。
だが、思ったより早く返ってきた返事は、
『あなたのことを考えてました。』
『あなたがこんな時間にメールをするなんて珍しいですね。眠れないんですか?』
というもので、あいつの柔らかくて優しい笑みが見えるような気がした。
思わず俺まで小さく唇を歪めながら、
「ああ。お前に会いたくなったんだ。」
面と向かってなら言えないようなことをそう告げれば、
『僕もです。一週間も会ってない訳でもないのに、あなたに会いたくて仕方がないんです。困りましたね。』
「俺も同じだ。」
『本当ですか? だとしたら、嬉しいです』
「嘘な訳あるか。眠れなくなるくらい、お前に会いたい。すぐに飛んで帰りたいくらいだ。」
『ありがとうございます。でも、お盆過ぎたらすぐ帰るのでしょう? それまでの短い間くらい、たまにしか会えない人と過ごした方がいいのでは?』
「そう思ったから、ちゃんと帰省したんだろ。それに、これくらいならお前と会えなくても平気だと思ったんだ。実際には、全然大丈夫じゃなかったわけだが。」
『僕も同感です。こんなにあなたに会いたくなるなら、あなたを引き止めるべきだったかもしれないとさえ、思いましたよ。』
「全くだ。お前が引き止めてくれりゃよかったのに。」
『今度からはそうしましょうか?』
「そうしてくれ。それか、お前も一緒に来い。」
『あなたのご親戚の集まりに僕が? どう紹介するおつもりですか?』
「俺の彼氏だ、って言うのは流石にまずいだろうな。友人、とでも紹介したんじゃ、だめか?」
『それでも十分に嬉しいですよ。しかし、流石にそれは申し訳ないですから、残念ですが、遠慮させていただきます。』
「じゃあ、精々俺がお前の側にいていいだけの口実を考えてくれ。」
『ええ、頑張りましょう。』
と、そこで話題に一応の区切りがついたからだろう。
『まだ、眠くなりませんか?』
古泉はそう言ってきた。
「眠くない。まだ足りないんだ。」
『困りましたね。誰かと相部屋なんでしょう?』
そう古泉が言ったのは、俺が前にあれこれ話していたからだろう。
「そうだが?」
と返すと、
『こっそり抜け出せませんか? 出来るようでしたら、少しだけ、そうですね、20分だけ、と時間を決めて、電話で話しませんか。あなたの声が聞きたくなってしまったんです。』
願ってもない言葉に、俺は室内を見回し、耳を澄ました。
聞こえてくるのは遠くでかえるや虫の鳴く声と風の音くらいのものだ。
「多分、大丈夫だ。俺もお前の声が聞きたい。」
『それでは、抜け出せたら電話をください。ダメだったらそうメールをお願いします。』
という古泉のメールが届くより早く、俺は寝床を抜け出した。
物音を立てないようにそっと襖を閉め、バーさんのサンダルをひっかけて勝手口から家の裏へ出る。
バーさんの家の周りにもいくらか家はあるのだが、住宅地のように密集しているわけではない。
俺は出来るだけ人目につかないように気をつけながら家から離れると、震える指で古泉に電話を掛けた。
コール音は一度で終った。
古泉も待ち構えていてくれたんだろう。
「もしもし」
『こんばんは。久しぶりですね』
嬉しそうな声が聞こえた。
「ああ、久しぶりだな」
俺の声も弾んでいて、我ながら現金なことだと笑いたくなった。
さて、挨拶はしたし、声も聞きたかったのだが、一度電話が繋がってしまうとどういうわけか言葉が出なかった。
電話が通じて、確かにそこにいると感じられるからだろうか。
それだけで満ち足りたかのような気持ちになってしまったようにも思う。
ただ、それは後だから言えることであって、この時の俺にとっては何か言いたいのに何も言えない自分に戸惑った。
古泉も何も言ってこない。
満足と不安を薄い膜ひとつ隔てて感じているような微妙な沈黙が落ちる。
やがて、
『……困りましたね』
小さく笑って、古泉が言った。
「何がだよ」
『いえ、あなたとこうして話せる、ということ、ただそれだけで、おかしなほど安心している自分がいるんです。あなたと話したい、あなたの声が聞きたいと思うのにも関わらず、です。…そんな状態ですから、的外れなことを言ってしまっても、許してくださいね』
冗談めかして言った古泉に、
「俺も似たようなもんだ。…だから、なんでもいいから話してくれ。お前の声が、ずっと聞きたかったんだ」
『嬉しいですね。あなたがそんな風にストレートに仰るのは、面と向かって顔を合わせられないからでしょうか。それとも、数日とはいえ会えなかったからでしょうか』
「…多分、両方だな」
『そうでしょうね。そうでなければ、女装もしていないのにそんな風に甘えてなどくださらない方ですから、あなたは』
悪戯っぽく笑った古泉は、
『あなたがいつになく甘えてきたり、照れ隠しもせず、ストレートに何か言ってくださる時に、僕は本当に感謝したくなるんですよ。あなたの女装趣味にも、あなたにそれを覚えさせた涼宮さんにも。…僕としては、たまには女装に頼らず甘えてもらいたいとも思うのですが』
「出来るか、ばか」
と小さく毒づけば、柔らかな笑い声が耳をくすぐった。
『今更、遠慮なんてしなくていいんですよ? 何度も言いますけど、あなたがどんな奇矯な振る舞いをしようとも受け入れてしまえるくらい、僕はあなたを愛してるんですからね』
いつにない古泉の余裕も電話越しだからなんだろうか。
少なからず苦々しく思った俺の頭に、ちょっとした悪戯がひらめいた。
「じゃあ、」
俺は唇が卑しく歪むのを感じながら言った。
「帰るまで俺が寂しくならないように、今、キスしてくれ」
『え?』
「キス、して」
甘ったれるように言うと、携帯の向こうで戸惑うようなもごもごとした呟きが少しだけ聞こえた。
「テレフォン・セックスなんてもんが存在するんだから、キスくらい健全なもんだろうが。そんなのもダメなのか?」
『じゃあ逆に聞きますが、そんな健全なキスであなたは我慢出来るんですか? さっきの言葉には含みがあるように思ったのですが』
「――」
さて、どうだろうな。
寂しくならないように、というなら確かに触れるだけのような軽いもんじゃ我慢出来ないような気もするのだが。
『……あの?』
「…しょうがないだろ。今したいんだから」
『しょうがないって………ああもう、』
呆れたようにそっとため息を吐いた古泉は、
『分かりました。さっきあんなことを言ったばかりですからね。舌の根も乾かない内に発言を取り消すのも男らしくありませんし、何よりあなたがそうして甘えてくださるんですから、ちゃんと付き合います』
「ん…」
『じゃあ……』
かすかに上擦って聞こえる声で、古泉が言った。
『目を、閉じてもらえますか?』
「ああ、お前も閉じろよ」
『ええ、分かってます』
その言葉を聞いてから目を閉じる。
古泉の部屋にいる時なんかには聞こえてこない種類のものである、周囲の物音は耳から遮断し、携帯から聞こえてくる古泉の声や吐息の音にだけ集中する。
『…唇、もう薄く開けて待ってるんでしょう』
揶揄するような言葉に、反射的に唇を手で押さえると、古泉の言葉通りにそこは薄っすらと開いており、恥ずかしさに顔が赤くなるのが分かった。
「悪いか…っ、ばか…」
『いえ、嬉しいですよ。…その唇を舌でなぞってあげたいです』
その言葉だけで、ぞくりとした快感が背筋を走った。
本当にそうされたように、唇が震える。
「…っ、したいなら、そうしろよ……」
苛立ちだか羞恥だか分からないものに声を震わせながらそう言えば、古泉が小さく笑うのが聞こえた。
鼻にかかったような、柔らかな笑い声だ。
『ありがとうございます。……舌を差し込んでも?』
「ん、…そう、してくれ…。俺も、お前の舌、舐めたい…」
囁かれるだけで、はしたない体が震える。
古泉のキスの感覚を蘇らせる。
『口の中をくすぐられるのも、お好きでしょう』
「好き…だから……」
お互いの荒くなった呼気がノイズを生じさせる。
どちらのせいとも分からないそれに、余計に熱を煽られる。
舌を絡めて、唾液をすすって、唇を舐めあって、甘噛みして、十分すぎるほど貪ったと思っても、足りない。
「古泉…、もっと…」
とねだったところで、ピピピピピ…と味気ないことこの上ない電子音が携帯の向こうから聞こえてきた。
「なんなんだ?」
思いっきり興を削がれたぞ。
『すみません。…20分だけと約束したでしょう? タイマーをセットしておいたんです』
「お前な…」
怨みがましく唸ると、古泉は慌てた声で、
『仕方ないじゃありませんか。そうでもしなければ電話を切れないという自信があったんです』
そんなものは確信を持って言うことじゃないだろう。
が、
「…お前もそう思うのか?」
『当然です。……本当は、これで切りたくなんてないんですよ。僕も。でも、』
分かってる。
俺のためだろ。
「…ありがとな。もう少ししたら、帰るから」
『ええ、お待ちしてます』
「……お前は覚悟を決めておけよ」
『…覚悟、ですか?』
「帰ったら、荷物だけ部屋に置いてすぐお前の部屋に行くからな」
『え? あの、それって……』
「それじゃ、……おやすみ。またな」
一方的にそれだけ言って俺は通話を断った。
吹き抜ける風は涼しいのに、俺の体はどうしようもなく熱くなったままだ。
この熱がもう少し冷めてくれなければ部屋に戻ることも出来ないだろうな。
「…全部責任取らせてやるからな」
唸るように呟きながら指を唇に添わせると、唇は見事に弧を描いていた。