お義姉さん



何やら言い争うような声で目が覚めた。
俺がいるのは古泉の部屋であり、古泉が一人暮らしである以上、誰かと言い争う声で目が覚めるというのは妙な気がするんだが、と思いながら拾い上げた下着をはき、脱ぎ捨ててあったキャミソールに頭を突っ込む。
誰か来てるんだったら出て行かない方がいいだろうな、と思いつつドアに目を向けると、
『絶対に出て来てはいけません』
と見覚えのある汚い字で書いてあった。
わざわざ書かなくても、人が来ている気配がある以上出て行くわけないだろ。
呆れにも似た笑みを零しながら、俺は室内を見回した。
着替えを、と思ったのだがこの部屋に俺の着替えはない。
異常なほどにエロゲ臭い状態にはなるだろうが、古泉のシャツでも羽織っていようか。
夏だから薄着でいてもかまわないと言えばその通りなのだが、エロ下着かと思うような姿でぼーっとしてるのもよろしくなかろうと俺は古泉のクローゼットを開けた。
一回りはでかいシャツに腕を通しながら、耳をすます。
聞こえてくるのは女性の声――それもどこかで聞いた覚えがあった。
もしかして、古泉と噂になっている相手だろうか。
だとしたら、森さんか?
女性の知り合いくらい古泉にだって他にもいるのかもしれないが、とりあえず俺が知っている、SOS団以外の女性といえば、森さんくらいしか思いつかない。
森さんなら、古泉が遠慮なく声を張り上げたり、そもそもこうして日曜の早朝から来訪しても不思議じゃない気もする。
それに、森さんだとぴったりくるのだ。
古泉と噂になっている、俺じゃない女性の人物像と。
もしかしてそれで口論になっているのだろうか、などと思いながら、古泉のズボンを引っ張り出す。
……だからこのズボンもでかいって。
ベルトでしめても落ちてきそうだぞ。
一応まだ残っている男としての矜持が、この体格差に若干の劣等感を抱かせるが、大半の部分は今現在の腰の細さそのほかに満足しているので目を瞑ることにして、ズボンに脚を通そうとした。
その時である。
いきなりドアが開き、俺は体を曲げながら片脚を上げた状態で、反射的に振り向いた。
そこには森さんが立っており、その背後で古泉が頭を抱えていた。
「――っ!?」
俺は上げかけた悲鳴をなんとか飲み込み、その場にべたんと座り込むしかない。
女物の下着を身につけた状態を森さんに見られた、というのはかなりのショックだった。
真っ赤になりながら座り込んだ俺に森さんは怪訝な顔をしながら近づいてくると、
「…どうして女物を着ないんですか?」
……なんでそんなこと聞かれなきゃならないんですか。
そう言いたくなるのをぐっと堪えながら、
「そんなことを言われましても…」
手元になかったので、とかなんとかもごもご言っていると、古泉が森さんに、
「ほら、彼が困ってるんですから、とにかくここから出て行ってくださいよ」
といつになく厳しい語調で言った。
古泉にしては珍しく頼りになる、と思ったのだが、
「黙りなさい」
と森さんに睨まれ、黙らされた。
……しかしまあ、ヘタレと罵るのはやめておいてやろう。
俺だって、あの視線にさらされたら黙るしかないに違いないからな。
そんな風にして古泉を黙らせた森さんは俺に向き直ると、手にしていた紙袋を俺に向かって差し出した。
「着替えがないのでしたら、こちらをどうぞ」
「いや、あの……着替えがないわけじゃ…」
ないんですけど、という俺の言葉も聞かず、森さんは紙袋から布の塊を引っ張り出した。
一体何の服だ、こりゃ。
「チマ・チョゴリです」
なんでそんなものが出てくるんですか。
「ずっと、夢だったんです」
と森さんは微笑み、
「古泉に彼女が出来たら着てもらおうと思って…」
…女性というものは全般的に着せ替えというのが好きなんだろうか、と考え込みそうになっていると、
「どう考えても無理のある発言は止めてくださいませんか」
と古泉が顔をしかめながら言った。
「ただ単に、森さんが着せたいだけでしょう?」
そう言われても、森さんは悪びれもせず、
「古泉だって、こういう服は好きでしょう?」
と言って俺の耳に顔を近づけると、内緒話をするように手を添えながら、
「こう見えてチラリズムに弱いんですよ、古泉は。むっつりスケベとでも言ってあげてください」
「……マジですか?」
そういえばロングスカートを勧められたこともあったな。
「適当なことを彼に吹き込まないでください」
苛立ちを隠しもせずに言った古泉を、俺はじっと見上げながら、
「古泉、」
「すみません、森さんが迷惑を掛けてしまって…」
いや、それはもういいんだが、
「…お前がこういうの好きなら……着ても、いいぞ」
「え」
「好き、なのか?」
森さんは、心なしか顔を赤らめて絶句した古泉の肩を押し、
「それじゃあ私たちは居間で待ってますから、着替えてきてくださいね。着方については袋の中に説明書が入れてあります。もし、それでも分からなかったら呼んでください」
と言い残して出て行った。
俺はじっとそれを見送りながら、
「……仲、良いんだな」
ぽつりと呟いた自分の声の弱さに慌てて頭を振った。
なんだ今のは。
まるで嫉妬してるみたいじゃないか。
嫉妬するまでもないと分かってるってのに、なんで、こんな……。
俺は妙な考えを追い出したくて、慣れない服の着方を分析することに意識を集中させることにした。
着方を書いた説明書は思ったよりも分かりやすく、全くわけが分かっていない俺でも割とあっさり着ることが出来た。
しかし……チマというこのスカートは本当にこれでいいんだろうか。
下に下着として長いキャミソールみたいなものを着ているとはいえ、巻きスカート状になったその合わせ目から中が丸見えになりそうで怖いぞ。
こんなものを着て、しかも膝を立てて座るってのもどうなんだ。
一度、実際に韓国の女性に聞いてみたい気がするぞ。
着替えを終えた俺が居間に入ると、ソファで向かい合わせに座った古泉と森さんが睨み合っていた。
……逃げていいか?
「着替え終わりましたけど」
俺がそう声を掛けると、森さんがぱっと振り向き、
「思っていた通り、いいえ、それ以上に可愛らしいですね」
と満面の笑みを見せた。
「お化粧もしていいですか?」
「……構いませんよ」
ここまで来たら、大抵のことはもう何をされても同じだろう。
俺は諦めと共にソファに腰を下ろした。
しかし、化粧をしているところを古泉にみられるのは少しばかり気恥ずかしいものがある、と俺が思ったのを見透かしでもしたのだろうか。
森さんは笑顔のまま古泉に目を向けると、
「古泉は朝食でも作りなさい」
と命令した。
まさしくそれは命令であり、古泉に拒否権は存在しないらしい。
古泉はため息を吐くと、
「分かりました」
大人しく立ち上がり、キッチンへと向かった。
振り返りながらこちらに向けられた目がどこか申し分けなさそうだったが、俺はそれほど気にしていないんだと、あいつにはうまく伝わってないんだろうかね。
森さんは手早く俺に化粧を施すと、用意してきていたらしいウィッグを俺の頭に被せた。
長いストレートのそれを、首の後ろ辺りで軽く束ねる森さんに、俺は意を決して聞いてみた。
「森さんは、…その、嫌じゃないんですか?」
「なんのことでしょうか?」
「俺が……男で、しかも女装趣味を持ってるような奴が、古泉と付き合っていることが、です。……古泉のことを、可愛がってるでしょう?」
頭の後ろで、森さんが小さく笑うのが聞こえた。
その笑い方は、どこか、古泉のそれと似ていた。
「私は、古泉が幸せならそれでいいんです。以前から、古泉が誰を好きになろうと私は口出しするつもりなんてありませんでした。勿論、そのことによって古泉が不幸になると判断した場合、どのような手段によってでも止めたでしょうけど、あなたは止めなければならないような相手ではありません。……以前ならともかく、少なくとも今は」
それは、ハルヒが俺を好きだった時なら止めていたということだろう。
それだけがネックだったというなら、俺は喜んでもいいのだろうか。
戸惑いに黙り込んだままの俺に、森さんはあくまでも優しく言った。
「機関との板挟みになることもなくて、本当によかったと思っています。何より今の古泉は、本当に楽しそうですから。…そうでしょう? たとえ涼宮さんの前であっても」
「…ええ、そうですね」
ほっとしながら頷くと、優しく頭を撫でられた。
「森さんは、」
緊張を和らげた俺は、苦笑しながら尋ねた。
「どうして今日、こんな朝早くからいらしたんですか? それも、古泉とあんな風に言い争って」
「私はあなたにこの服を着てもらいたかっただけです。でも、分からず屋の古泉が反対したものですから、最終的には強硬手段をとらせていただきました。驚かせてしまってすみませんでした」
「いえ、それはもういいんですけど……」
本当はそれを目的にして来たわけじゃないんだろう。
それはただの理由付けで、実際には古泉の保護者として、俺が古泉に相応しいか見に来た、という気がしている。
どうやら俺は一応合格点をもらえたようだが、なかなか手強い気がする。
「………お義姉さん、ってとこか」
思わずそう呟いたのを、森さんはしっかり聞き取ったらしい。
「あら、それはいいですね」
と楽しげに言われ、俺は笑いながら、
「じゃあ、お義姉さんと呼びましょうか」
「素敵ですね。では私も、キョンさんとお呼びしていいですか?」
どうぞどうぞ。
もはやそのあだ名はどうしようもなく定着しているようだから、誰に呼ばれてももはや変わりがないからな。
そんなことを言いながら、二人できゃいきゃいと楽しんでいると、
「何の悪巧みですか?」
と古泉がキッチンから顔を覗かせたので、俺と森さんは顔を見合わせて、
「内緒だ」
「内緒ですよ」
と声を揃えて言ってやった。
古泉は軽く目を見開いた後、小さく声を立てて笑い、
「仲がよろしいようで何よりですね。…少々妬けますが」
「そんなことより、」
森さんは俺のことを背後から抱き込むようにしながら、古泉に言った。
「似合うでしょう?」
「ええ、本当に、」
古泉は森さんにではなく俺に向かって目を細めながら、
「よくお似合いですよ」
「…ありがとな」
照れくさくて少し俯いた俺の頭を、森さんは強引に上向かせると、
「ウィッグもよく似合うでしょう?」
「そうですね。……本当に、どれくらい散財してきたんです?」
悪戯っぽく笑いながら古泉がそう指摘すると、森さんは顔を背けた。
……ええと、よっぽど使ってきたんですね?
「いいんですよ。キョンさんが可愛らしく着こなしてくれたらそれで」
「……ありがとうございます」
と言っておいたんでいいんだろうか。
迷いながらそう口にした俺を、森さんは思い切り抱きしめると、
「本当に可愛いですね。――古泉! キョンさんを泣かせたりしたら私が容赦しませんから」
「分かってます。それに、森さんに言われるまでもないですよ」
ね、と古泉が俺に微笑みかけ、俺も笑って頷いた。
「さあ、朝食にしましょうか。お腹が空いているでしょう?」
嬉しそうに古泉が宣言し、俺たちは三人で食事をした。
学校の話とかSOS団の話とかをしながら過ごすのは思ったよりも楽しくて、俺は森さんに対する認識をいくらか改めた。
「ところで古泉、」
食後のコーヒーを、万が一にも零したりしないように気をつけて飲みながら、俺は古泉に尋ねた。
「噂になってるお前の二股の相手ってのはお義姉さんのことか?」
「……お義姉さん?」
首を傾げる古泉に俺は森さんを手で示し、森さんは笑顔で頷いた。
古泉はぽかんとして俺たちを見つめた後、柔らかく苦笑して、
「いつの間にかそんなに仲良くなったんですね」
「で、どうなんだ?」
「…ええ、あなたの予想通りです。涼宮さんに問い詰められた時に、森さんと会っていましたと言えればよかったのでしょうが、それはやはり不自然でしたからね」
まあそうだろうな。
「どうして二人で会ってたんだ?」
「それは……」
言い辛そうに黙り込んだ古泉に代わって答えたのは、当然森さんだった。
「古泉の相談に乗ってたんです。デートの時にどんなところに連れて行けばいいのかとか、どこか美味しい店はあるかとか、そんなことを聞かれたものですから」
「も、森さん…!」
慌てる古泉を俺は唖然として見つめた。
赤い顔をして、
「内緒にしてくださいって言ったじゃないですか」
と森さんを恨みがましく見る古泉が、妙に可愛く見える。
「じゃあキョンさんに誤解されたままでいいんですか?」
なんて言い返す森さんを見ながら、俺は笑って言った。
「別に誤解なんてしてませんよ。多分、お義姉さんだろうなとは思ってましたから。…でも、本当に仲がいいんですね」
古泉はまだ恥ずかしそうにしながら、
「森さんは、僕にとっても姉のような人ですからね。……仕事中以外は」
「何か言いましたか、古泉?」
笑顔で言う森さんに、古泉は苦笑しながら、
「なんでもありません」
と答える。
透けて見える信頼感が羨ましい。
これはもしかして、古泉が俺とハルヒたちに対して妬いたり、羨ましがったりするのと同じ気持ちなんだろうか。
だとしたら、古泉の気持ちを少しばかりでも理解出来たってことだろう。
それが嬉しい、と俺は小さくほくそ笑んだ。