「おい、キョン、お前聞いたか?」 いきなりそんな風に声を掛けてくるのが谷口のほかにいるはずがない。 俺は寝不足の頭を振りながら机から顔を上げた。 「聞いたかどうか聞く前に、一体何のことか提示したらどうだ」 「なんだよ、機嫌悪いな」 「寝不足なんだ…」 「つっても、お前いつでも眠そうじゃねぇか」 「今日は特別眠いんだ」 何しろ昨日は古泉の部屋に泊まっちまったからな。 古泉もそうだが、俺もろくに眠れていないことは言うまでもないだろう。 正直、腰の辺りも重いので、可能ならもっと楽な体勢で惰眠を貪ってやりたいくらいなのだ。 ふわあ、と大きくあくびしたところで、 「お前、9組の古泉と仲良かったよな?」 と言われ、一瞬息が止まった。 「…古泉がどうした?」 まさかとは思うが、俺とのことがばれたんじゃないだろうな。 いや、親にもハルヒたちにもばれている以上、谷口にばれたところでかまわないと言えばかまわないのだろうが、騒がれたりするのは勘弁願いたい。 万が一にも俺と古泉が付き合ってるなんてことが噂になりでもしたら、それこそ上靴に画鋲くらい入れられそうだしな。 「あいつ、えらく美人の彼女がいるんだってな。お前も知らなかったんじゃないのか?」 どうやら俺の心配はただの杞憂だったらしい。 まあそうだろう。 もし俺もうわさ話に登場するのであれば、谷口があんな言い方をするとは思えん。 しかし、ある意味では、俺も谷口のうわさ話に登場しているわけだが。 「ああ、そのことか」 「知ってたのかよ」 「まあ、一応な」 そう返しながら、我ながらいい度胸だと思った。 こういう辺りもハルヒに毒されちまっているんだろうか。 「お前、会ったことあるのか?」 「…そりゃ、まあ」 会うと言っても鏡越しにだが。 「きりっとした美人なんだってな。背が高くてモデルみたいだって聞いたぞ」 「そういう格好してる時だけだろ、そう見えるのは。最近は古泉のリクエストだかなんだかでフェミニンな格好もしてるみたいだし」 「なんだよ、意外と詳しいんじゃねぇか」 「まあな」 にやりと笑いながらキワドイ会話を楽しんでいると、不意に国木田が、 「僕の聞いた噂とはちょっと違うね」 どういう意味だ? 「僕が聞いた噂だと、古泉くんの彼女は背が低くて大人しそうな人っていう話だったよ。おしとやかそうに見えて古泉くんを振り回してたとか」 ……どういうことだ。 「背が低い、ってのは間違いないんだよな?」 「うん、低いっていうか、平均的ってことかな。高いとは聞かなかったよ」 それならそれは俺じゃない。 背の低い人間が背を高く見せたり、そう見えたりすることはあるだろうが、逆はないだろう。 そもそも俺はそんなことをした覚えはない。 となると別の人間なんだろう。 それも、名前が噂になっていないとすると、学外の人間だ。 黙って考え込む俺の側では谷口が、 「あいつ、二股でも掛けてんのか? 許せない奴だな」 とかなんとか憤っているのを、国木田が、 「まだそうだと決まったわけじゃないし、そもそも古泉くんが二股掛けてようがいまいが谷口には関係ないんじゃないの?」 「いや、同じ男として許せん。だよな! キョン」 「え?」 いきなり言われ、俺は戸惑いながら顔を上げた。 「キョン?」 「……ああ、いや、まあ、そうだな。二股を掛けてるとしたら許せん。が、古泉はそこまで器用じゃないと思うぞ?」 「どこがだよ。滅茶苦茶器用そうじゃないか」 それはそう見えるだけなんだがな。 大体、二股を掛けたりするほどほかの女――いや、男でもいいんだろうが――に目を向ける余裕があるとは思えない。 だから二股というのは確実に何かの間違いだ。 そう断言できるくらいには、愛されてるからな、俺は。 思わず小さく笑うと、 「なに笑ってんだよ」 と谷口に問われたが、 「いや、別に? ……その話を古泉に聞かせてやったらどうなるかと思ってな」 「おう、やってやれ! 俺が許可する」 「お前の許可なんぞ要らん」 「結果くらいは教えてくれよな」 「気が向いたらな」 それにしても――古泉は一体誰と歩いてたんだろうか。 その日はハルヒが若干不機嫌だった。 理由は分からん。 俺が何かしたわけではないらしいことは、ハルヒの態度からして明らかだった。 むしろ、俺に気を使っているような節さえあったから、余計に不気味なのだが、もしかすると古泉の彼女に関するうわさ話が妙に耳の聡いハルヒにも届いているのだろうか。 そんなことを考えながら、教科書を片付けていると、いきなり振り向かされた上に、 「キョン、あんたちょっとお使いに行ってきてくれる?」 と言われた。 「何だ突然」 「いいから、ちょっと行ってきて。お金はあたしがちゃんと出すから」 珍しい、というよりお前熱でもあるんじゃないのか? 「ないわよ」 そう言ってハルヒは俺に紙切れと財布を押し付けた。 「余計なものは買ってくるんじゃないわよ」 それだけ言い残して、ハルヒは教室を飛び出していった。 「…一体何なんだ」 呆れながらメモを開いた俺は、首を傾げた。 「カラーマジック一式…?」 部室になかったか、それ。 たとえなかったとしてもほかの教室を見ればどこかにはありそうな気がする。 それを強奪したりせずにわざわざ自腹を切ってまで買いに行かせるというのはハルヒらしくない。 何かあるんだろうか。 ……これで、ハルヒの機嫌が余計に悪くなったりしたらすまん、と思いながら俺は部室に向かった。 本当に買うのか確認したかった、とでも言えばいいだろう。 部室の前に古泉の姿がないということは朝比奈さんが着替えをしていたりはしないはずだ、と思った俺は、ノックもせずにドアを開いた。 少しばかり室内が騒がしかったような気もしたが、特に気にもしないで。 部室はいたって静かだった。 だが、ずっと静かだったと言うよりはむしろ、俺がきたせいで静かになったように見える。 朝比奈さんは驚いてか自分の口元を押さえていらっしゃるし、長門までもがパイプ椅子から立ち上がって一点を凝視している。 その一点であるところの古泉とハルヒは、言葉もなく俺を見ていた。 ……というか古泉、 「お前なんでハルヒに押し倒されてんだ?」 俺の問いで我に返ったらしい古泉が、 「いえ、あの、これはですね…」 と何か言いかけたのをハルヒが遮り、 「なんでもないわよ! あんたは何にも心配しなくていいの!」 と怒鳴ったが、なんでもないようには見えないし、そもそも俺は心配なんかしとらん。 俺が余りにも冷静すぎたのか、古泉は戸惑いながら、 「あの……怒って、らっしゃるん…ですか……?」 「別に」 というのは本心だ。 俺は別に怒ってなんかない。 なぜなら、怒るような要素は見当たらないからだ。 古泉がハルヒを押し倒していた、とかいうならともかく、逆では精々ハルヒが何か無理難題を押し付けようとしたか何かでもつれあった結果にしか思えない。 古泉がそこまで抵抗するほどの無理難題というのが少しばかり思いつかないがな。 もし俺が怒っているように見えるとしたらお前に罪悪感があるからじゃないのか? 「で、結局何やってたんだ?」 俺が聞くと、ハルヒは古泉の腹の上から立ち上がりながら、 「……あんた、どうしてお使い行かなかったのよ」 「カラーマジックのセットなんて何に使うか分からんからな。本気で買うつもりか聞きたかったんだ。その様子からすると、ただの口実だったんだろ」 と財布を投げ返し、 「何がしたかったんだ?」 「………」 ハルヒは怒っているのかそれとも不貞腐れているのか分からないような表情を隠すように俯くと、 「…古泉くんが」 「古泉が?」 「……二股掛けてるって噂があるのよ。だから、それが本当なのか問い詰めて、とっちめてやろうと思ったの。それだけよ」 ぷいっとそっぽを向いたハルヒの頭を撫でると、ハルヒが困惑するような目で俺を見た。 「……怒ってないの?」 「怒ってどうする。…俺のことを心配してくれたんだろ? ありがとな」 こくん、と頷いたハルヒがいつになく小さくて、か弱く見えた。 「けど、」 と俺は苦笑しながら古泉に視線を戻した。 いつまで転がってんだ。 さっさと起き上がれ。 「古泉は、二股なんて掛けてないだろ」 一瞬ぽかんとしたハルヒが、 「何でそう言い切れるのよ!?」 と今度は俺に食って掛かる。 俺は小さく笑いながら、 「古泉はそんなに器用じゃない」 と谷口に言ったように答えた後、その時は口にしなかった言葉を付け加える。 「それに、古泉は間違いなく、俺に惚れてんだろ。だから、古泉が浮気するはずがない」 きっぱりと言い切った俺に、古泉までもが唖然とするのは何なんだ。 自分でも恥ずかしいことを自信満々に言い切ったというような自覚はあるが、それにしたってそのリアクションはないだろう。 「…違うか?」 そう古泉に問うと、古泉は柔らかく微笑んで、 「違いません。僕は、あなた以外目に入りませんよ」 と答えながら立ち上がった。 「信じてくださって、ありがとうございます。嬉しいですよ。心無い人の無責任なうわさ話で、あなたが苦しんでいたらと思うと、そればかりが気がかりだったものですから」 というか、普段あれだけ甘やかされて愛されて、それでも疑ってたら埒が明かないだろう。 しかし、 「噂になってるもうひとりの彼女は一体どこの誰なんだ?」 と俺が聞くと、古泉は少しばかり顔を引き攣らせたあと、 「…知り合いです」 と答えた。 「知り合い?」 そんな風に曖昧に答えているからハルヒに伸し掛かられたんじゃなかろうか。 まあ、おそらく機関の関係者かなにかだろうから、曖昧に答えるしかないんだろうが。 思った通り、ハルヒはキッと古泉を睨み、 「キョン! やっぱり怪しいわよ! とっちめてやりなさい!」 「落ち着けって」 「どうしてあんたはそうやって落ち着いていられるのよ」 「信じてるからな」 そう言い切るとハルヒは今度こそ呆れきった挙句、古泉を睨みつけ、 「もしキョンを泣かせたりしたら、古泉くんでも容赦しないわよ」 と恐ろしげな脅し文句を口にしたのだった。 |