古泉の部屋で朝食を食べた後、そそくさと部屋を出たのは、恥ずかしかったからだ。 好きでやったこととはいえ、男同士で体を繋いで恥ずかしくないはずがない。 男女でだって恥ずかしいと感じる人間はいるだろう。 男とばれない程度に化粧をして、急ぎ足に支度をする俺に、古泉は咎める様子もなく、 「本当に大丈夫ですか?」 と心配ばかりしていた。 心配されているのは俺の精神状態と腰その他の酷使された場所だろう。 そう思っただけで首まで真っ赤になりながら、 「大丈夫だから、ひとりで帰る!」 と言い張って、出てきた。 本当ならもう少しゆっくりしたってよかっただろう。 なんと言っても、恋人同士なんだし、やっと体を繋げられたんだ。 べたべたと甘い一時を過ごしたっていいはずだ。 でもそれ以上に、恥ずかしかったんだからしょうがない。 この埋め合わせはいずれしよう、と心に決めながら早足で歩き、長門の住むマンションに入った。 いつものようにナンバーキーとベルボタンを押し、 「長門か? 俺だ」 古泉の部屋を出る前に今から向かうと連絡していたからか、 「今開ける」 という返事だけがあった。 ここしばらくで以前以上に慣れ親しんだエレベーターを使い、7階に上がる。 そうして長門の部屋のインターフォンのボタンへ手を掛けようとしたところで、中からドアが開いた。 それと共に、 「おっかえりー」 という明るい声で俺を迎えたのは、ハルヒの上機嫌な顔と室内にたちこめるかすかに甘い匂いだった。 甘いと言っても人工的な甘さも果物か何かのような甘さでもない。 ほっこりと温かみのある、ほのかな甘味だ。 「なんでお前が長門の部屋にいるんだ?」 俺が渋面を作りながら聞くと、ハルヒはニヤッと笑い、 「もちろん、あんたに話を聞くために決まってるでしょ」 「話って……」 「古泉くんと、したんでしょ? 何をとは言わないわよ。分かってるだろうから」 その言葉に俺は火が出るほど赤くなり、 「な、なに言ってんだお前は!」 と怒鳴ったのだが、 「いいからまずは入りなさいよ」 いきなり出鼻を挫かれた。 渋々部屋に入り、玄関のドアを閉める。 玄関にはもう長門のものとハルヒのもの以外にもう一足、どこかで見た靴が揃えてあった。 まさか、と思う俺に、 「あ、キョンくん、お帰りなさい」 といつもながら愛らしいお声を掛けてくださったのはやはり朝比奈さんで、 「何で朝比奈さんまで……」 「あたしが呼んだからに決まってるでしょ」 ハルヒ、そこは胸を張るところなのか? げんなりする俺に、朝比奈さんは少し慌てながら、 「ご、ごめんなさい、キョンくん。あたしもちょっと興味があって……」 ああいいんですよ朝比奈さん。 たとえそれが本当だとしてもハルヒの悪い影響には違いないんですから。 俺はハルヒによって布団のないコタツ机の一辺に座らされた。 どうやらお茶を淹れていたらしい長門がお盆を手にやってきて、机の上にお茶を並べた。 そうして机の四辺が全て埋まると、ハルヒが面白がる様子を隠しもせずに言った。 「で、最後までちゃんと出来たの?」 「いきなり直球かよ!」 ぼっと赤くなりながら叫ぶと、 「その反応からして、したみたいね?」 と返された。 畜生、お見通しか。 それとも俺はそんなに分かりやすいのか? 「……体の具合はどう」 心配しているのか、そう聞いてくる長門には、極力冷静に、 「大丈夫だ」 「状況からしてあなたたちが欲求を抑えきれたとは考え難い。痛む箇所があるのであれば、きちんと対処するべき。……本当にどこも痛まない?」 長門は心配してくれてるんだろう。 まさか長門が、俺をからかったり苛んだりするためにそんなことを言い出すとは思えないし思いたくもない。 だが、それにしたってこの質問はないだろう。 それに正直、全く痛まないというのは嘘なのだ。 あらぬ箇所は僅かながら、ひりひりと痛むし、体の硬さのせいで腰も結構痛んでいる。 嘘を吐いている時に、長門の真っ直ぐに見つめてくる瞳と相対するのは非常に困難である。 思わず目をそらしたところで、 「……薬を持ってくる」 と言われちまった。 「長門!?」 止める間もない。 「キョンくん大丈夫ですか?」 朝比奈さんに心配そうな声を掛けられるだけでも恥ずかしくて死にそうだというのに、ハルヒが独り言のように、 「キョンも古泉くんも淡白そうに見えるのに」 と呟いたのが余計に堪える。 うるさい、俺だって自分は淡白な方だと思ってたんだ。 その俺があそこまでしちまったのは古泉がヘタレだから悪いんだ。 「あそこまでって、あんた何やったのよ」 「頼むから聞くな」 机に突っ伏したところで、目の前にことんと薬箱をおかれた。 顔を上げると長門が、 「湿布も軟膏も入っている」 「……」 「……自分で出来ないのであれば」 「やってくる」 俺は諦めとともに薬箱を引っ掴んで、トイレに向かった。 女装姿で女の子の部屋に上がりこんで、その女の子に体の心配をされ、薬まで渡されるとかどういう状況だ。 これが誰かの陰謀だとしたら羞恥プレイ以外の何物でもない。 長門が善意で言っているのでなければ、俺はこのまま逃げ出していただろう。 トイレに入って、短すぎてまくり上げる必要もないようなスカートを持ち上げ、下着を下ろす。 用を足すわけでもないのに便器に腰を下ろし、薬箱の中から引っ張り出した軟膏のチューブを指の上で押し潰すと、薄いクリーム色の内容物が指先に乗った。 さて、これをマジに塗り込めねばならんのだろうな。 チューブから出した以上、勿体無いとも思うし、もしちゃんとせずに適当に時間を稼いで戻ったところで、長門にあの目で見つめられたら全て白状してしまい、全く意味がなくなる気がするからな。 それにしても、痔を患ったわけでもないのに、自分で自分のこんな場所に薬を塗らねばならんとは。 ため息を吐きながらじわりと痛む場所に薬を塗った。 少しだけしみるが、薬だからそんなもんだろう。 つぷりと中まで指を押入れ、届く範囲だけでもと薬を塗りたくってやる。 人間開き直りが肝心だ、と昨日のこともあって学んだからな。 ――薬を塗るだけのことで俺が反応すると思った奴は挙手しろ。 そんなエロゲ展開になって堪るか。 下着を上げてざっと手を洗い、薬箱から湿布を取り出し、痛む腰に貼り付ける。 ひやりとした感覚が、思ったよりも気持ちいい。 軟膏についてはともかく、湿布は用意してもらってよかったかも知れん。 他に痛むところはないかと確認して、俺はトイレを出た。 「思ったより早かったわね」 俺を見るなりそう言ったハルヒはなんだ、挙手組か。 「薬塗ったり湿布貼ったりするだけでそんなに時間が掛かると思うか?」 軽蔑の眼差しを向けつつそう言ってやると、ハルヒは悪びれもせず、 「古泉くんのことでも思い出すかと思ったんだけど」 と言い切りやがった。 お前本気で自重しろ。 女の子がそんなこと言っちゃいけません。 俺はぐったりしながら席につき、冷め始めていたお茶をすすった。 朝比奈さんのお茶は甘露だが、長門のお茶も美味い。 「で、どうだったの? 古泉くんって上手だった?」 せっかく飲んだお茶を噴くところだった。 「なっ、お、おま…っ…」 「どうなのよ」 「ど、どうって……」 かぁっと顔が赤くなるのを止められない。 「じょ、上手下手というものはだな、比較対象があって始めて言い得る相対評価による表現でしかないわけで、」 と誤魔化そうとした俺を、ハルヒは、 「そんな話誰もしてないでしょ。あんたがどう思ったか聞かせなさいって言ってるのよ」 と一刀両断した。 その上、誤魔化しや言い逃れは許さないとばかりに俺に顔を近づけてくると、 「白状しなさい」 と睨みつけた。 ……すまん、古泉。 俺はこいつには勝てん。 どうせお前も勝てないんだろうから、容赦してくれ。 俺は心の中で古泉に手を合わせながら、 「……巧かった」 と締め上げられるニワトリのような声で白状した。 なお、この巧いというのは比較対象も何もなく、強いて言うならば漠然とした感覚によるものなので、適切な表現ではないのかも知れない。 が、他にどう言えって言うんだ。 と思った俺の疑問に答えるわけじゃないだろうが、ハルヒが言った。 「それってつまり、気持ちよかったってことよね?」 言いかえとしてもっとも適切な言葉を提示してくれたのはありがたいが、恥ずかしさは倍増だ。 長門の視線が居た堪れない。 その上、朝比奈さんまで、 「キョンくん、やっぱり嬉しかったですか? それとも、怖かった?」 なんて聞いてくるので余計に恥ずかしさは募るばかりだ。 ――などと、最初のうちは思っていたはずなのだが、ハルヒの情け容赦どころか恥じらいの欠片すらない追及と、朝比奈さんのぼかそうとしつつうまくぼかせず、結果直球となるか思いもよらない変化球、または何を言いたいのか分からないボールになるような質問と、長門のどうやら興味津々らしい視線とに負けて喋らされるうちに、慣れたらしい。 やがて酒場の飲んだくれ親父よろしく机に突っ伏した俺は、気がつくと、 「…古泉、やっぱり経験あったんだろうな」 と呟いていた。 思わず発言を全力で取り消したくなるような心細げな声に、泣きたくなる。 「キョンくん…」 朝比奈さんが切なげな眼差しを俺に向け、長門もじっと俺を見つめる。 その目に宿るのは労わりだろうか。 「何が嫌なの?」 きょとんとした顔で聞いてくるハルヒには、苦笑するしかない。 「二股掛けられたとかなら嫌な気持ちになって当然だと思うけど、別にそうじゃないんでしょ?」 あっけらかんと言うハルヒに、俺の気持ちなど分かるまい。 同じ男で同い年だというのに、方や経験豊富でタチ。 方や、童貞失う前に処女を喪失した女装趣味のネコ、しかも今後童貞を失う可能性は、古泉と付き合っている限り、ゼロと言っても過言ではない。 この落差は何だと思うとともに、非常に情けない気持ちになる。 それに、何より、 「…古泉のあの顔知ってる女がいると思うと非常に腹立たしい気持ちになるんだが」 それとも、男で知っているのはおそらく俺だけだということで満足しておくべきだろうか。 「今更どうしようもないことで、くよくよするんじゃないわよ」 ハルヒはそう言って、俺の頭をぽふんと撫でると、 「どうしてもって言うんだったら、問い詰めてあげたら? 古泉くんのことだもん。きっと必死になって弁解するわ。そうするのはあんたのことが好きで、過去の女よりもずっと大事だからよ。嘘だと思うなら試してみなさい」 と面白がる風でなく、宥めるように言った。 そうして、これでその話も、悩むのも終わりだというように立ち上がり、 「そろそろお昼だし、あんたもお腹すいたでしょ? あんたのためにと思って、あたしたちでお昼ご飯用意しておいたから、ちゃんと食べなさいよ」 とキッチンの方へ消えていった。 ハルヒなりに気を遣ってくれたらしいことに、少なからず感じ入った俺だったのだが、戻ってきたハルヒが手にしていたものが赤飯だったことで、 「お前は本当にいい加減にしろ!」 と真っ赤になりながら怒鳴る破目になったのだった。 しかしながら、俺は結局、ここに来た時に感じた甘い匂いは赤飯を蒸している匂いだったのかなどと思いながら、妙に美味いそれを食べたのだった。 ……赤飯の発案者は誰だったんだろうな。 |