5センチ



いつもよりいささか長い風呂を終えた俺は、妹が大人しく寝たのを確認した後、自分の部屋に入った。
妹の就寝を確認するのは、明日が土曜日、つまりは休日であり、生活時間が外見に等しい妹でも夜更かししている可能性がないわけでもないからだ。
つまり俺は、妹が起きていて、いつ部屋に突入してくるか分からない状況では出来ないようなことをしようとしているわけだ。
だからと言って俺が男子高校生らしい後ろめたさを持った行為に没頭するつもりだと思ったならそれは早計だ。
むしろ、男としてそれはどうなんだと言いたくなるようなことを、俺はしようとしている。
ベッドの下に突っ込んである、小さなポーチを引っ張り出し、中から取り出した小さめのボトルを慎重に確かめるのは、同じようなものがいくつも入っているからだ。
そのうちのひとつを取ると、手の平にそれを広げた。
透明の水みたいにさらさらした液体が手に冷たいのだが、風呂上りの火照った顔には丁度いいのかも知れない。
軽く叩くようにしながら、それを顔につける。
次に、乳白色のどろりとしたローションを同じような感覚で顔につけた。
ついでに、ハルヒに教えられた通りにマッサージまでしておく。
手に残ったものはそのまま手の平や腕に広げ、次はストレッチだ。
毎日欠かさずするようにと厳命されているとはいえ、本当に毎日やっちまってるあたり、俺も病気だ。
自分を嘲笑いながらも止められないのは多分、明日、女の格好で古泉に会うからなんだろうな。

古泉との待ち合わせの時間より一時間以上も早く、俺は家を出た。
向かう先は長門の部屋だ。
少量の化粧水やローションの他は、化粧品も服もその他の小道具も全て、長門の部屋に保管させてもらってるからな。
着替えようと思ったら長門の部屋に行くしかない。
土曜の朝から押しかける俺に、長門は嫌な顔ひとつせずに、
「今日はこれがいいと思われる」
と俺に一揃いの服を提示した。
グレイのハイネックTシャツに赤いチェックのミニスカート、黒のニーソックス、黒のジャケット、それから、
「……長門」
「…何?」
「下着の上下までしっかり用意してあるのは何でだ」
それも、ハルヒが用意したものではなく、先日買いに行ったばかりの新しい方を。
「…念のため」
何が念のためだ、と思いながら俺はハルヒを呪った。
ハルヒの悪影響に違いないだろうからな。
ため息を吐きながらも、時間に余裕があるわけでもないので、急いで着替える。
下着を換えることには抵抗があったが、ミニスカートをはくつもりなら仕方ないだろう。
諦めと共に着替え、
「長門、化粧頼む」
と声を掛けると、長門がじっと俺の脚を凝視した。
「なんだ?」
「……綺麗にしてある」
それには気が付かないでいてもらいたかった。
あるいは、知らないフリをしてもらいたかった。
だが、気付かれた以上、誤魔化したってしょうがないだろう。
「その……昨日、風呂でちょっとな…」
顔を赤らめながらそう言うと、長門が小さく頷いた。
「恥ずかしがることではない。当然のこと」
……どう当然なんだ、と思いつつ、俺はそれ以上余計なことは言わないことにして、長門に示されるまま座った。
机の上に鏡と化粧道具が置かれ、長門がそれを広げる。
何を考え込んでいるのか分からないが、いつになく真剣に見える。
そうやって長門が楽しんでくれると、俺の罪悪感もいくらかマシになる気がするが、……男を女装させるってのは、女にとって楽しいことなんだろうかね。
考え込んでいる間に、化粧をされる。
手順を見ておこうと思ってしまう自分に頭をかち割りたくなるだけ、理性が残っていることを喜ぶべきだろうか。
それとも、いい加減開き直れと潔さに欠ける点を罵っておくべきか。
俺が現実逃避染みたことを考えている間に、長門は手早く作業を終えたらしい。
「これで完成」
と言われて鏡を見ると、いつものことながら見事に顔が変わっていた。
「なんか……これまでより幼くないか?」
俺がそう呟くと長門は、
「服に合わせた」
なるほど。
「それじゃ、行ってくる」
荷物を女物のカバンに詰め替えた俺がそう言って立ち上がると、長門は頷いた。
「行ってらっしゃい」
「帰り、ここに寄る前に、一応連絡はするから」
「…分かった」
「じゃあ」
と俺は先日買わされたショートブーツに足を突っ込み、長門の部屋を出た。
初めて履いた時よりずっと楽なのは、慣れたせいだろうか。
それとも、気分がどうにも昂揚して、そんなことを気にしていられなくなっているのか。
参ったな、と思いながらも、表情だけは平然と、エレベーターで下りる。
出かける前に、階段で転びたくはないからな。
時間を見ると、余裕があるとも言いかねるような時間帯だった。
古泉のことだから早めに来ているだろう。
待たせるのも悪い、と足を速めようと思うのだが、ヒールの高い靴はやっぱり歩き辛い。
急ごうにもあまり変わらないような速度しか出せないまま、俺は待ち合わせ場所である駅前の定位置に向かった。
到着した時間は、待ち合わせの5分前だったが、そこには古泉が当然とばかりに待っていた。
「すまん、待たせたな」
「いえ、僕も来たばかりですよ」
テンプレート的な会話をした俺たちだったが、古泉はまじまじと俺を見ると、
「今日も可愛いですね」
と笑顔で言った。
恥ずかしい奴め、と罵ってやってもいいのだが、褒められて嬉しいこともないでもないので、目をそらしながら、
「お前はいつ見ても嫌味なくらいかっこいいな」
と言ってやると、古泉が一瞬目を見開いた後、小さく笑ったのが見えた。
「ありがとうございます」
そんな嬉しそうに笑うなよ。
こっちまでくすぐったいような、浮ついた気分になってくるだろうが。
「その服は、涼宮さんに用意してもらったんですか?」
「いや、この前ハルヒたちと買い物に行ったんだ」
そう正直に言うと、古泉は小さく頷いた。
「楽しかったですか?」
「…まあ、な」
それ以上に疲れたが、と俺が言うと、
「そうまでして女装するのはどうしてです?」
と聞かれた。
その声には、いつぞやとは違い、咎めるような調子はない。
ただ単純に、興味があるだけらしい。
「…そりゃ、やってて面白いからだろ。それに、」
俺は右手で古泉の左手を掴むと、
「この格好なら、こうやっててもおかしくないだろ」
不貞腐れたような表情を作ってそう言った俺を、古泉は驚いたように見つめ、それから穏やかかつ爽やかに微笑んだ。
「そうですね」
握り返される手が心地好く感じられる。
同時に心がざわつくのは、男として理性が警鐘を鳴らすせいだろう。
「今日はどうしますか?」
そう聞いてくる古泉に、
「俺は別にどこに行ったんでもいいんだが…」
何しろ、女装して歩くことが目的だからな。
「僕も、特に用事はないんですよ。――とりあえず、歩いてみましょうか。気になるお店があったら入るということでよろしいですか?」
「ああ」
頷いて、歩きだす。
今日もやっぱり視線を感じるのだが、その視線の違いが、どうにも面白くてならない。
女装している時に感じる視線は大抵、羨望とか憧憬に似たものであり、くすぐったいくらいのそれが快感にすら感じられるのだが、今日はそれ以上に嫉妬染みたものを感じる。
「僕も感じますね。あなたを見て、心惹かれた男性陣が僕に羨望混じりの嫉妬の視線を向けてくるのを」
どこまで本気で言ってんだ? と呆れる俺に、
「100%本気ですよ」
そう笑った古泉が、俺の手を引き、距離を更に縮める。
そうしておいて、俺の耳元で囁くように、
「あなたも、分かっているんでしょう? ご自分の魅力を」
「さて、どうだろうね」
「困った人ですね。それとも、悪い人なのでしょうか」
人を悪女みたいに言うな。
「実際、そうでしょう? 僕はいつもあなたに振り回されてばかりで、気が休まりませんよ」
「それなら、今日も誘わない方がよかったか?」
「ご冗談でしょう? …そうやって僕をからかうのは、分かっててやってるんですよね。無自覚で、なんて言ったらその方が心配になりますよ」
小さく笑い返すことで返事に代えてやると、古泉が困ったようにため息を吐くのが聞こえた。

俺たちは手を繋いだまま街の中を歩いた。
注目を集めはしても、それが男同士で手を繋いで歩いているからではないことが明らかだと、気にならないんだから不思議なもんだな。
俺は女性向け雑貨店の前で堂々と足を止めたりもしたのだが、奇異な目で見られたりはしなかった。
古泉さえ、それがまるで当然のような顔をして、
「入りますか?」
と聞いてきた。
そんな扱いがくすぐったくもあるのだが、
「いや、いい」
と俺は首を振った。
入ったら欲しくなるからな。
「いいじゃありませんか、少しくらい買っても」
「少なくとも、今は無理だな。財布の中身が心許なさ過ぎる」
「僕が」
「買います、なんてのは却下だ」
「どうしてです?」
不思議そうに言った古泉を俺は軽く睨み、
「そんなことしてもらう義理はないだろ」
何の貸しもないんだからとそう言った俺に、古泉は傷ついたような表情を見せた。
「…なんだよ」
「いえ……」
そう言葉を濁らせた古泉だったが、迷う表情を見せたかと思うと、内緒話でもするように俺の耳に顔を近づけ、
「…ひとつ、確認しておきたいのですが」
なんだ。
というか、あんまり近づかないで貰いたいんだが。
古泉に顔を近づけられるだけでドキドキするとか、俺はもう本当にどうかしている。
それが女装しているせいじゃないだけに、余計にそのことが精神的にキツイ。
「僕とあなたの関係は一応、恋人、なんですよね?」
自信なさげな言葉に、俺は目を見開き、古泉を見た。
「いえ、あなたが断言していないことは分かっていますし、僕の思い込みに過ぎないのかもしれませんけど…でも、あなたがそうして手を繋いでくださったりするということは、今日のこれはデートと言って差し支えのないものだと思います。ですから、恋人と言っていいかと思ったのですが……やっぱり、僕の思い上がりでしょうか?」
だめだ。
嬉し過ぎて考えがうまくまとまらん。
真っ赤になる顔を押さえながら、古泉の腕に縋るように抱きしめると、古泉が驚いたのが分かった。
「あ、あの…?」
「…あのな」
戸惑う古泉に構わず、俺は言った。
「女装って、手間がかかるんだ。元々男が着るようなもんじゃないから、下着は苦しいし、化粧だって息がつまりそうに思ったりもするんだよ。それだけじゃなくて、化粧をちゃんとしようと思ったら毎日毎日手入れしなきゃならんし、ミニスカートをはこうと思ったら脚の毛だって剃らなきゃならん。――なんでそこまで出来るんだと思う?」
「え? ……女装が楽しいからじゃ…なかったんですか?」
うん、まあ、それもある。
だが、それ以上に、
「少なくとも、昨日、妙に気合を入れて手入れしちまったのは、……今日、お前とデートするからに、決まってるだろ」
「…嬉しいです」
そう笑った古泉は、
「じゃあ、僕から何かプレゼントしても問題ありませんよね?」
「や、その……」
「どうかしましたか?」
「…女装しているからか、それともそれを面白がっているからかは分からんが、財布の紐が異常に緩むんだ。だから、今の状況で奢らせるとお前を破産させそうだからやめとけ」
「いいですよ?」
事も無げに、古泉は言った。
「バイト料はそこそこ弾んでもらっていますし、生活費も学費も機関持ちの現状では、貰ったお金を使う機会もないんです。だから、あなたのために使わせてください」
「でも、悪いだろ」
「恋人のために散財するということも、ある意味男としては夢のようだと思いますよ? そうなったら、あなたのためにバイトをすることになるでしょうから、それはそれで楽しそうです」
「機関といえば」
と俺は話をそらした。
いくらなんでも初デートでたかるのはまずいだろう。
それじゃまるで金目当てで付き合ってるみたいじゃないか。
「いいのか? 俺とお前がデートしてることくらい、知られてるんだろ?」
「知られてはいますね。一応、報告はしましたから。しかし、涼宮さんがあなたに向ける好意の方向性が変化したことは機関も把握していますし、そうであれば僕の個人的な問題ということにしてくれたようです。今日も監視などはないようですよ」
「そりゃよかったな」
機関もある程度のプライバシーくらいは尊重してくれるわけか。
「森さんは面白がってましたけどね」
苦笑した古泉に、
「面白がってって…」
「女装するとどんな風になるのかとか、根掘り葉掘り聞かれました。服か何か買ってきてしまいそうなほどの勢いだったので、今も少し不安ではあるんですけどね…」
まあ、嫌悪感を丸出しにされるよりはずっとマシか。
「しかし、お前と森さんって意外と親しくしてるんだな」
「ええ、そうですね。一番お世話になってますから」
「ふぅん」
――少し妬けるな。
…って、何を思ってるんだ俺は!
どこまで古泉が好きになってるんだ。
感情の加速度が半端じゃない。
これもハルヒのせいなのか?
俺はぶんぶんと頭を振って恥ずかしい感情を追い出すと、古泉の腕に自分の腕を絡め、再び歩きだした。
「どうかしたんですか?」
「なんでもないっ」
訝るように首を傾げる古泉を引き摺るようにして歩いていると、慣れない靴で乱暴に歩いたからか、体が傾いだ。
それを古泉が、
「…おっと、大丈夫ですか?」
と自然な動作で抱きとめてくれ、事なきを得た。
「すまん」
と言いはしたものの、あっさり抱きとめられると妙に悔しいな。
古泉がにやにや笑っているから余計に。
「何がおかしいんだ?」
「おかしいのではなくて、嬉しいんですよ。あなたにも分かるでしょう? こういった感覚は」
分かるような分からんような、微妙な感じだ。
そりゃあ俺だって、彼女と腕を組んで歩いている時に彼女がバランスを崩したところをうまく抱きとめられたら嬉しい気分になるだろう。
だが、古泉の場合、相手は俺であり、つまりは女装した男だぞ。
それで本当に嬉しいのか?
「今更何を言い出すんでしょうね。僕はあなただから嬉しいんです。あなたが女装していてもいなくても、変わりませんよ」
「だからと言って女装もせずに男の格好でこうして歩いたりはせんからな」
「残念です。理由をお伺いしてもよろしいですか?」
「言わん」
世間体もあるし、恥ずかしさもあるんだ。
それくらい、言わなくても分かれ。
「あなたにこそ、お聞きしたいのですが、――本当に、こうして一緒に歩く相手が僕でいいんですか?」
「愚問だな」
古泉だから腕まで組めるってのに、何を言い出すんだか、とストレートには言いかねて、
「お前以外に、女装した男と平然と歩ける奴がいるとは思えんな」
「それは、どうでしょうね?」
どこか渋い顔で古泉はそう言った。
「ご自分を過小評価するのもあなたの美点のひとつではあると思いますが、それゆえに現状把握に欠けるのは困りますね。…あなたは、十分魅力的な方ですよ。僕以外にも、あなたに心を奪われた人は何人もいるでしょうね」
「嘘だろ」
「本当ですよ?」
「信じられんな」
「困りましたね。どうすれば信じてもらえるのでしょうか」
「…お前のその当てにならない情報を信じる信じないはともかく、俺はお前がいれば十分なんだから、誰が俺の女装姿を気に入っていようが関係ないだろ」
出来るだけ素っ気無くそう言ったのだが、古泉は面食らったような顔をして、
「…本当に、もう……」
と赤くなった頬を手で隠した。
「僕はあなたに手玉に取られてばかりいますね」
お前だって十分俺のことを翻弄してるだろ。
そう思った俺は間違っていなかったらしい。
別れ際になって、古泉はいきなり俺を抱きしめると、
「愛してますよ」
と囁いた。
「なっ…、い、いきなりなんだ!?」
驚く俺に古泉は得意そうに笑って、
「僕があなたに勝てるのは、言葉にするところくらいですからね。これくらい、言わせてください」
「う、るさい…っ」
真っ赤になりながら俺は古泉にキスをした。
「え」
絶句する古泉に、
「ハイヒールも便利だろ」
5センチのヒールで身長差が3センチに縮めば、キスをするのもさほど難しくはないからな。
「…あなたって人は、もう……」
負けず嫌いなんですか、と照れた様子を隠しもせずに言った古泉に、俺はニヤニヤ笑いながら、
「嫌だったか?」
「そんなわけないでしょう」
だろうな。
「なら、嬉しがってろよ」
と言いながら、俺はもう一度古泉にキスをした。
唇を離し、目を開けると、古泉の口に口紅の色がうつっているのが見えた。
それを指で拭ってやると、
「あなたがここまで大胆な方だとは知りませんでしたよ」
と苦笑された。
「そうと知ったら嫌いになったか?」
そんなことがあるわけないと分かっていながらそう聞くと、案の定首を横に振られた。
「そんなこと、あるわけないでしょう」
「俺は、お前みたいに……その、口に出すのはうまく出来そうにない、から、その分だと思えよ」
「ええ、分かっています」
そう言った古泉は、
「あなたが好きです。…愛してます」
飽きもせずにそう囁いた。

……どうせならキスくらいしろよ、このヘタレ。